第324話 どす黒い感情を持つ女 1
総合診療科の外来を辞めたいと言ってきたのは非常勤の仙北先生だ。
私立医大に通う娘の学費を稼がなくてはならないという。
彼女自身も近隣の私立医大の出身だ。
これを海岸医大としよう。
一方、娘が通うのは山手医大と呼んでおこうか。
同じように見える私立医大でも学費はかなり違うらしい。
山手医大が高く、海岸医大が安い。
とはいえ、オレのようなサラリーマン家庭の人間にはどっちも高いとしかいいようがない。
ちょっと大学のホームぺージで学費を調べてみた。
山手医大は6年間で約3200万円、海岸医大は約2800万円だ。
数字上は差がなさそうだけど実際に払うとなったら大違いかもしれない。
山手医大より学費が高いところとして、天空医大というのもある。
ホームページによると学費は6年間で3600万円になっている。
が、卒業生に聞いたら、だいたい6年間で7000万円かかったということだ。
ということは公式の学費より何かと物入りだということか。
さて、故あって仙北先生は離婚してシングルマザーの身だ。
もちろん元亭主にして娘の父親も学費を稼ごうと頑張っている。
残念ながら、とても追いつかないらしい。
だから時給の安いウチより、健診のアルバイトで効率よく稼ぎたいのだとか。
言いたいことはよく分かる。
だからオレは彼女を引き止めなかった。
「娘が高い大学に入ってしまったものだから、私の老後の資金までつぎ込んでいるんですよ」
「山手医大と海岸医大とでそんなに差があるとは知らなかったです」
「クラスメートもお金持ちが多くて、娘には付き合う相手を選ぶように、と言ってるんです」
うっかり大学の富裕層サークルに入ってしまったら幾らお金があっても足りないそうだ。
だから、庶民的な友達を選ぶのが大切なのだとか。
「じゃあ、娘さんが卒業したら出世払いで返してもらわないと」
「いや、それだけはしたくないと私は思っているんです」
「なんでまた?」
ここから仙北先生の身の上話が始まった。
彼女の実家は遠い田舎にある。
そこから自分と弟がそれぞれ都会の私立医大に入った。
市民病院勤務の父親は開業して子供たちの学費を稼いだ。
2人とも無事に卒業して医者になったので、ハッピーエンドになるはずだった。
ところが徐々に父親が窮乏してくる。
ついに娘にお金の無心をしてきた。
それも何度も。
高い授業料を払ってくれた父親が困っているわけだ。
娘としては喜んで援助をした……最初の何回かは。
「だんだん心の中にどす黒い感情が湧いてくるようになってきましてね」
「『何で私が払わなくちゃいけないのよ? でも、そんな事を思ってしまう自分が嫌!』とかでしょうか」
「どうして分かるんですか!」
「もちろん弟さんの方もお父さんを援助していたんですよね」
「そうだと思いますよ。でも、私の方が頼みやすかったんじゃないかな」
「なるほど。男の子が親に電話するのなんか年に1回ぐらいだし」
そういう御自身の経験があるので、できるだけ娘に頼りたくないのだそうだ。
とはいえ老後の資金も貯めなくてはならない。
金持ちにも悩みがあるって事だな。
ちなみに現在の国立大学の授業料は全学部同じで年間54万円程度。
入学金も合わせて6年間で350万円くらいか。
オレが学生のときは半分以下だった。
そんな事を言ったら、年がバレちまうけど。
卓球部の先輩にきくと年間3万6000円という時代があったそうだ。
月3,000円だから殆どタダみたいなもんだ。
それにしても「どす黒い感情が湧いてくる」とは!
なるほど、なるほど。
「すみません、こんな愚痴を聞かせてしまって」
「いやいや、そんな事はありませんよ」
カクヨム作家として興味は尽きない。
でも、口にはするまい。
で、この話を家に帰って妻にした。
彼女もサラリーマン家庭から国立大学の医学部に入った。
だから、私立医大の学費なんか別の世界の話だ。
「でも仙北先生のお父さんは開業していたんでしょ? なんでお金が足りないのかしら」
言われてみればその通り。
妻の疑問はもっともだ。
という事で、次に仙北先生と話をする事があったら尋ねてみよう。
そう思っていたら、機会は意外に早くやってきた。
そして、オレは奥の深い話を彼女から聞かされることになる。
(続く)




