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第114話 刺されて空気の抜けた男

 その中年男性が搬入されたのは、日付が変わろうかという時刻。

 両方の頬に大きな切創がある。

 包丁が左右に貫通した傷だ。

 しゃべろうと思っても空気が抜けて「ハフハフ」としか聞こえない。


 続けてやってきた刑事さんが、「あんた、極道か?」と尋ねた。

 男は首を横に振った。



 で、オレたちは治療に取りかかった。

 と言っても、まずは愛用のクレメンテを開く。


 クレメンテというのは解剖学アトラスの名前。

 世界的に有名な教科書はグレイとかネッターだが、なぜかオレの医学生時代にクレメンテが流行ったのだ。


 一緒に当直をしている救急医も部屋の片隅で別のアトラスを開いている。


「ええっと耳下腺の中を顔面神経が貫いているから……」


 包丁の傷が何処にあって、大切な血管や神経との位置関係がどうなっているかを把握してからの治療になる。


 もしかすると神経を吻合する必要があるかもしれないからだ。


 幸い、「何をのんびり本なんか見ているんですか。早く治療して下さい!」とか言って邪魔してくる家族もいない。

 もちろん患者もハフハフ言ってるだけなので取り敢えず後回しにしておく。


 それにしても静寂に包まれた夜中の救急外来は集中して勉強するのにピッタリだ。



 包丁で刺した人間はたぶん警察に連れていかれたんだろう。

 元々は仲のいい友人で仕事帰りに一緒に飲みに行ったらしい。


 飲みに行った結末が何でまた包丁になってしまうのか?

 オレには理解不能だ。


 患者の方も、救急外来の医者が何で自分に背中を向けて本を読んでいるのか、サッパリ分からないだろうな。



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