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第996話 渡米した男 6

 こうしてあっという間の3年間が過ぎた。

 当初は2年間の予定だったのが、1年()ばしたのだ。


 というのも、色々な事がいい方向に動き始めたことがある。


 オレのビザを J-2 から J-1 に切り替えて給料が出るようになり、それも年間6万ドルという結構な金額だったこと。

 また、研究活動と論文作成が軌道に乗ってきたこと。

 学生寮から出て、広く小奇麗なアパートにうつったこと。

 車を入手して行動範囲がひろがったこと。


 さらに、3つ目、4つ目と論文を出すにつれ、徐々に研究室でも頼られる存在になった。

 

 一方、妻の方は公衆衛生大学院での殺人的な宿題の量に悩まされていた。

 色々な文献を読んではレポートを書いて提出しなくてはならない。

 毎回のように締切1時間前に教授室に走って持って行くというくらい大変だった。


 公衆衛生学修士 (Master(マスター) of (・オブ)Public (・パブリック)Health)(・ヘルス) を取るには通常2年のところ、医師の場合は1年で取れてしまう。

 普通ならラッキーなのだけど、せっかく勉強するために渡米したのに1年で終わりというのも勿体もったいない。

 だから妻はえて医師であっても2年を要する科学修士 (Master(マスター・) of(オブ・) Science(サイエンス)) を取ることにしていた。

 こちらなら2年間じっくり腰をえて学ぶことができる。


 実際、ハーバードの超一流の教授たちに学ぶことができるのだから、勉強するにはこれ以上の環境はない。


 統計学の授業の最後は「自分の持っているデータで検定をやってみよう」というものだったそうだ。

 ちょうど日本に居た時に調査したC型肝炎のデータを妻は持参していたので、統計学の教授に指導してもらいながら論文にした。

 さすがに教授だけあって、何を尋ねても瞬時しゅんじに答えが返ってくる。

 査読者とは大論争になったものの最終的には British(英国) Medical(医師会) Journal(雑誌) (BMJ) に受理アクセプトされた。

 1800年代に創刊された伝統ある医学ジャーナルだ。

 そこに論文が掲載され、自らの名前が刻み込まれるということは大変な名誉だった。


 授業や論文執筆のかたわら、妻は1年生と2年生の間の夏休みに医師賠償責任保険を扱っている損保会社でインターンを行う。

 日本でも医療裁判というのは医師にとっての頭痛のタネだが、全国の年間訴訟件数は800件ほどに過ぎない。

 米国ではハーバード・メディカル・スクールの10数施設の教育関連病院だけで日本全国と同じくらいの訴訟を起こされている。

 驚くべきことに何人かの医学生まで訴えられていた。


 米国の医師にとっては大問題だが、日本から学びに行っている者にとっては当該損保会社の倉庫に眠る資料は宝の山だった。


 もちろん法律も勉強しなくてはならない。

 だから金色のドームで知られ、観光施設でもあるマサチューセッツ州会議事堂にも法律の条文を買いに行ったりした。

 驚いた事に、ここでは法律の原文がバラ売りされているのだ。

 レシートには "|right to know《知る権利》" と印字されている。

 米国における「知る権利」というのは建前たてまえだけではない事に感心した。


 妻は損保会社の顧問弁護士をしている同世代の女性と仲良くなり、一緒に医療裁判を傍聴ぼうちょうに行ったりしていた。

 弁護士の彼女は元々ホテルのコンシュルジュや大学の事務職員をしていたが、ある日「この世のすべては法律が仕切っているんだ!」という天啓てんけいひらめき、司法試験を受けて弁護士になったのだそうだ。


 2年間の公衆衛生大学院を無事に卒業した妻は、そのまま損保会社にインターンとして残って勉強を続けた。

 その地味な勉強は後に Journal(米国) of American(医師会) Medical(雑誌) Association (JAMA) への論文掲載として、花開くことになる。

 インターンで残ったのは、ただ単に勉強が面白かったというのが、その理由だったのだけど。


(続く)



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