第1話 嘘をつく温度と、真実のメジャー
異端審問局の地下深く、カビと古い羊皮紙の匂いが立ち込める記録室。
ルシルは薄暗いランプの光の下で、小さな動物の骨格標本をじっと見つめていた。
正確には、齧歯類の――おそらくネズミの――左大腿骨だ。
(……なんて、無駄のない曲率)
内心で息をのむ。
指先でそっと骨の弧を辿りながら、ルシルは関節の噛み合わせを確かめた。完璧。
これだけ小さな骨格に、これだけの機能美が凝縮されている。
造物主がいるとすれば、少なくとも骨を作るときだけは本気だったに違いない。
(大腿骨頸部のこの角度……膝関節との連動を考えると、この個体は生前かなりの速度で走れたはず。推定では――)
ぐぅぅ。
腹の奥から、遠慮のない音が鳴った。
ルシルは動きを止めた。
骨から目を離さないまま、数秒、自分の体の主張を無視しようと試みた。
……駄目だった。
(……そういえば)
昨日の朝食は、エリオットに無理やり食べさせられた干し肉が半切れ。
昼は計測の途中だったので忘れた。
夕食は記録書の清書が終わらなかったので、そもそも食堂に行っていない。
今朝は水を一杯飲んだ。それだけだ。
(水だけで人間は何日生きられる? 確か――)
頭の中で数字を探したところで、視界がゆっくりと傾いた。
まずいと思った瞬間、ルシルは骨格標本をとっさに両手で抱え込み、机に突っ伏した。
標本だけは守った。
自分の額が机の角に当たって鈍く痛んだが、それより標本が無事かどうかが先だった。
(……大腿骨、無事ですわ。よかった)
「……ルシル」
背後から声がした。
振り返る気力もなく、ルシルは机に額をつけたまま答えた。
「……ん」
「また徹夜か」
「……ん」
「いつから飯を食っていない」
答えなかった。
答えると怒られる気がしたからではなく、純粋に計算が面倒だったからだ。
重い足音がゆっくりと近づいてきた。
異端審問局の若手騎士、エリオットだ。
ルシルより頭二つ分は背が高く、肩幅も広い。
訓練で鍛えた体軀のわりに、こういうときの足音だけはやけに静かだ。
机の上に、ごとりと何かが置かれた。
固い黒パンだった。
(……黒パン)
ルシルは顔を上げ、しばらくそれを見つめた。
異端審問局の配給品だ。固くて、ぱさぱさで、噛むと顎が疲れる。
令嬢だった頃には存在すら知らなかった食べ物だ。
(昔でしたら、このようなものは馬にも出しませんでしたのに)
そう思いながら、手を伸ばした。一口かじった。
固い。顎が痛い。味がしない。
(……でも、少し、生き返る)
「……感謝します……エリオット、顎が痛い」
「食ってから言え」
エリオットは呆れた顔で椅子を引き、向かいに腰を下ろした。
ルシルは黙々とパンをかじり続けた。
記録室には羊皮紙の匂いと、ランプの油が燃える微かな音だけが満ちていた。
半分ほど食べたところで、エリオットが口を開いた。
「仕事だ。第一班からの要請で、貴族の館に『悪魔の呪い』が出たそうだ」
「……呪い」
「ああ。当主が密室で怪死した。呪いとして記録書を作成しろとお達しだ」
「……密室」
ルシルはパンを置いた。残りは懐に入れた。
「……行きます」
「残りも食え」
「……現場で食べる。お腹すきました」
「死体の前で食う気か」
「……死体は清潔です。むしろ衛生的」
「それ以上言うな」
エリオットに修道服の袖を引かれ、ルシルは記録室を後にした。
廊下に出た瞬間、冷たい空気が頬を叩いた。
(……寒い。でも、少しだけ、頭が動くようになりました)
懐のパンの重みを確かめながら、ルシルはエリオットの背中についていった。
ついていった、はずだった。
「……ルシル」
エリオットの声が、右後方から聞こえた。
ルシルは足を止めた。振り返ると、エリオットが十歩ほど離れた場所で立っていた。
腕を組んで、こちらを見ている。
「そっちは食堂だ」
「……」
「邸宅は右だ」
「……わかっていました。そう右」
「嘘をつくな」
エリオットが無言でルシルの肩を掴み、正しい方向に向けた。
ルシルは修正された方向へ、何事もなかったように歩き始めた。
(……似たような廊下。どちらも石造りで、ランプの位置も同じで、区別がつきません)
建物の外に出てからも迷う予感がしたが、エリオットがいるので問題ない。
そう判断し、ルシルは思考を切り替えた。
***
王都の一等地は、夜でも仄かに明るかった。
貴族の屋敷が立ち並ぶ石畳の通りには、等間隔に篝火が焚かれている。
ルシルはエリオットの三歩後ろを歩きながら、その光がつくる影の長さを無意識に測っていた。
(篝火の高さ、およそ二メートル。影の角度から光源の位置を逆算すると――)
「ルシル、左だ」
「……わかってました」
「五秒後に右の水路に落ちるところだった」
(……計算に集中しすぎました)
それは口にしなかった。
エリオットの「はあ」という息の音が、夜気の中に白く溶けた。
目的の豪邸は、通りの突き当たりに構えていた。
石造りの外壁に、鉄製の門扉。
王都警察の者が数名、所在なさげに入口に立っている。
エリオットが胸の徽章を見せると、ひとりが顔をしかめながらも道を開けた。
「……検死官でも来たのかと思えば、修道女か」
呟きが背後から聞こえた。
ルシルは振り返らなかった。振り返る意味がなかった。
どうせ、この先の部屋でも同じことを言われる。毎回そうだ。
そして毎回、死体だけが正直に答えを教えてくれる。
(修道女でも、修道女でなくても、死斑は嘘をつきませんわ)
屋敷の中へ、足を踏み入れた。
***
その一室は、異様な熱気に包まれていた。
真冬でもないのに、巨大な暖炉には赤々と薪が焚かれている。
扉を開いた瞬間、むわりとした空気がルシルの顔を打った。
室温は明らかに異常だった。
(……暑いです。そして、不自然)
それだけ思い、足を踏み入れた。
部屋の中央には、館の当主である中年男性が、苦悶の表情を浮かべて床に倒れていた。
仰向けだ。両腕はわずかに開き、目は半開きのまま固まっている。
発見から数時間が経過しているのか、死後硬直はすでに始まっていた。
「間違いない、悪魔の仕業だ! 兄上は呪い殺されたのだ!」
部屋の隅で喚き散らしているのは、当主の弟だった。
四十がらみの太った貴族で、顔が赤い。
「この見苦しい女が、兄上を恨んで呪いをかけたに違いない! さっさと連行しろ!」
彼が指差しているのは、部屋の隅で小さくなっているメイドだ。
年若い、十代半ばほどの少女。
怯えて震えており、否定する言葉も出ないようだった。
ルシルはその光景を一瞥し、遺体のそばにしゃがみ込んだ。
「なんだ、この薄汚い修道女は! 私は記録官を呼べと言ったのだ!」
「……暑いです。無駄に薪を燃やしすぎです」
貴族の怒鳴り声を完全に無視し、ルシルは修道服のポケットから真鍮の採寸尺を取り出した。
チャキ、チャキ。
冷たい金属音が部屋に響く。
貴族が再び口を開きかけた瞬間、エリオットが静かにその前に立ちふさがった。
ルシルがこうなったとき、言葉は届かないと知っているからだ。
ルシルはメジャーをロザリオのように指に巻き付けながら、遺体の状態を順番に確認し始めた。
顔色。皮膚の変色具合。硬直の進行度合い。
そして――死斑。
(……ん?)
ルシルの手が、わずかに止まった。
(……腹側に、出ていますわ)
仰向けの遺体の、腹側に。重力に逆らって。
(これは――)
「おい小娘! 私の言葉が聞こえないのか!」
貴族の怒鳴り声が飛んできた。ルシルは無視した。
メジャーを死斑の範囲に当て、端から端までの広がりを測る。
変色の濃度を目視で記録する。
懐からガラスペンを取り出し、自らのドレスの袖にガリガリと数字を書き込んだ。
(死斑の固定には、死後およそ六から八時間かかる。この濃度と範囲から見て、この方はすでに固定が始まっている。ということは――この体は、死後かなりの時間が経ってから、誰かに仰向けへと動かされたということですわ)
死んだとき、この人は仰向けではなかった。
別の場所で、別の体勢で死んでいた。
それをここへ運び、仰向けに並べた人間がいる。
(……なるほど。でも、なぜわざわざ動かす必要が?)
ルシルは立ち上がり、今度は遺体の衣服に視線を落とした。
夜着だ。就寝用の、ゆったりとした白い部屋着。
しかし。
ルシルはしゃがみ直し、衣服の前合わせを子細に確認した。
(このボタンの留め方――)
左右が、逆だった。
(これは、自分で着た服ではありませんわ。誰かに着せてもらった服)
没落する前、ルシルは毎朝侍女に着付けをしてもらっていた。
他人に服を着せるとき、向かい合った状態で作業するため、左右の感覚が反転する。
それを知っているから、わかる。
(つまり――この方は、別の場所で別の格好のまま死んでいた。犯人はその後、遺体に夜着を着せ直し、ここへ運んで仰向けに並べた。自室で就寝中に急死したように見せるために。そして暖炉で室温を上げ、死体の状態を攪乱しようとした。しかし――)
二つの矛盾が、音を立てて繋がった。
ルシルは最後に、遺体の踵にメジャーを当てた。
(誰かが遺体の脇の下に腕を入れ、引きずって運んだ痕跡。……この擦れ痕の角度と、遺体の体重。運んだ人間の『サイズ』は、計算するまでもありません)
(死斑はすでに固定されていた。動かす前に、時間をかけすぎ)
ルシルは立ち上がり、ドレスの胸元に数式と走り書きを刻みながら、ゆっくりと貴族の方へ向き直った。
「おい! なにをドレスに落書きしている! さっさと『呪い』と記録しろ!」
「……サイズが合いません」
透き通るような、それでいて絶対的な冷たさを持った声だった。
部屋の空気が、一瞬で変わった。
「な、なに?」
「この遺体の死斑は腹側に固定されています。仰向けで死んだなら、あり得ない。つまりこの方は、別の体勢で死んだ後に移動させられました」
ルシルは一歩、貴族に近づいた。
「さらに、この夜着のボタンは逆に留められています。ご自身では着ていません。誰かに着せられた服です」
もう一歩。
「あなたは兄上を、別の場所で殺した。その後、夜着を着せ、この部屋へ運びました。暖炉で室温を上げ、死体の状態を攪乱しようとしたけど、死斑はすでに固定されていた。……動かす前に、時間をかけすぎましたね」
生気のない金色の瞳が、逃げ場を塞ぐように貴族を射抜く。
「……決定的なのは、遺体の踵にある引きずり痕」
ルシルは手元のメジャーをチャキと鳴らし、切っ先を太った貴族へとスッと向けた。
「痕の角度から導き出される、遺体を運んだ人間の身長と腕の長さ。そこにいるメイドでは小さすぎます。……あなたのサイズと、完璧に一致します」
「……雑な嘘です。死体は、そんな嘘はついていない」
へたりと、貴族がその場に崩れ落ちた。
「ち、違う……! 兄上が、私の婚約者を――私から全てを奪おうとしたから……! 私はただ――」
ルシルはすでに背を向けていた。
部屋の隅で震えているメイドのそばに歩み寄り、しゃがみ込む。
ルシルは何も言わなかった。
ただ、震える手にそっと自分の手を重ねた。一秒だけ。それだけだった。
立ち上がり、懐から黒い絹糸と細い針を取り出した。
遺体のそばに膝をつき、移動の際に乱れた衣服の合わせを、無言で縫い合わせ始める。
丁寧に。ひどく丁寧に。
(死者だけは嘘をつかない。だから、せめて最後は美しく整えませんと)
すべてを終え、立ち上がったルシルはふらりとよろけた。
空腹だった。エリオットの騎士服の袖を小さな手でキュッと掴む。
「……終わった。エリオット、お腹が空きました」
先ほどまでの冷徹な検死官はそこにはおらず、無表情のまま騎士の袖を掴む、生活能力のない少女がいた。
「……お前は本当に――」
言いかけて、エリオットは止まった。
ルシルの視線が、部屋の入口へ向いていた。
そこには異端審問局の上級記録官が立っていた。
無表情のまま、彼はゆっくりと口を開いた。
「ルシル記録官。今回の件は、正式に『呪い』として記録するように。お達しだ」
ルシルはしばらく、その男を見つめた。
エリオットは何も言わなかった。
一瞬だけ視線が揺れた。それだけだった。
ルシルは静かに口を開いた。
「……はい」
一言だけ。そして、指先のメジャーをチャキ、と一度だけ鳴らした。
***
夜、記録室に戻ったルシルは、棚の奥に手を伸ばした。
他の記録書に紛れるように仕舞われた、一枚の羊皮紙。
広げると、数年前の日付と、異端審問局長の署名。
その下に、没落する前の自分の家名。
そしてその隣に、墨で大きく押された一文字。
――有罪。
(……)
ルシルはしばらく、その紙を見つめた。
感情は動かないように、ずっと前から慣らしてきた。
ただ、指先だけが勝手にメジャーを手繰り寄せた。チャキ、と冷たい音が鳴る。
(この判決にも、きっとサイズの合わない嘘があるはず)
いつか必ず、測り直す。
ランプを吹き消した。暗闇の中、黒パンだけが白く浮かんでいた。
(……食べるのを、また忘れたましたわ)




