Day 2nd half & 3rd
先輩は煙草の煙を流しながら車を走らせた。いつの間にか喫煙者になったようだ。一本下さいと言ったら未成年者はだめだと言われた。あと二日で二十歳の誕生日なので、と言ってみたけど、なら明後日まで待てと言われてしまった。無念。
走行音が耳に心地よい。ドライブなんて久しくしていなかった。そう言えば、この車どうしたんだろう。レンタル?
「車?ちょっと盗み……拝借してきた」
言い方変えても駄目ですよ?他は買ってきてるから、て言い訳にもなってないです……。ま、どうせ終わるなら、ね。文句を言う人もいないでしょ、て?まあそうですけど……。寧ろそういう事件が多発してないのが不思議なぐらいで。
暫く車を走らせたあと、サービスエリアへと先輩は車を乗り入れた。誰もおらず、電力供給もされていないのを確認して戻ってきた先輩は車に備え付けてあったハンマーを持ち出して動かない自動ドアに。破砕音が響き渡り、ドアに大きな穴が開いてしまった。堂々と侵入した先輩が戻ってきたときには買い物かごに大量の缶ビールと軽食を詰め込んできていた。財布は案の定持って行っていない。器物損壊、不法侵入、窃盗、どれだけ罪を重ねていくのか。
運転席に乗り込んだ先輩が缶ビールを開けて一息に飲み干したのを見て運転の交代を申し出る。ペーパードライバーの私がいきなり高速道路を運転できるか不安だったが酔っ払いよりはましだろう。教習所で習ったとおりにエンジンを入れてサービスエリアを出発した。
十時間後。いつの間にかビールの空き缶は二十にまで数を増やしていた。しかし先輩に全く酔った様子は見えなかった。嘘だろおい。適宜交代しながら(結局飲酒運転はさせてしまった。酔っていない私より安定した運転をしていたのでちょっと悔しい)走って漸くフェリー乗り場へと辿り着いたけれど今の時刻は深夜十二時過ぎ。誰も居ないのも当然だった。幌を張って車中泊をすることにした。明日、無事にフェリーが動いてくれるといいけれど……。
——————あと、二日。
◇◆◇
夏にしては涼しい風が私の頬を撫でた。早起きしていた先輩によって幌は外されていた。海を眺めて煙草を吸う彼女はその端整な顔立ちも相俟ってどこか絵画のような美しさを感じさせた。
「ああ、起きたか。今日の昼頃に最終便が出るそうだ。朝食にお勧めの店を船長に聞いてな。ちょっと行ってみようか?」
「何の店なんです?」
「コーヒーショップでな、スコーンが美味しいらしい。で、行くのか行かないのかどっちだ?」
「行きます行きます!スコーン!いいですね!」
十分ほど車で走り、町の中心部へと戻る。『ウミネコ』なんて名前のその店は商店街の一角にひっそりと構えていた。こじんまりとしたその店は西洋風の店構えでなかなか私の好みにマッチしていた。私も先輩もスコーンを二つとコーヒーを注文した。地元の方がお勧めするだけあって確かにそれらは美味しかった。
「「ご馳走様でした」」
今回ばかりは流石に先輩も代金を払っていた。それはそうだ。流石に店員もいるこの店で食い逃げをするほど愚かでもないだろう。
少しだけ街を見て回った後、ウミネコの目の前に路駐していた車でフェリー乗り場に戻る。車を格納スペースに乗せて、私たちは客室へと上がった。陸地が離れていく。さあ、いざ北の大地へ。
着いてみれば更に肌寒かった。流石は避暑地になるだけのことはある、なんて他愛のないことを考えた。
車を走らせる先輩は何処か神妙な顔つきをしてアクセルを踏み続けている。
道中はお互いに何故か終始無言だったため、詳しくは割愛しよう。辺りが暗くなってきたころ、先輩は何処かで泊まろう、と一旦車を止め、地図で宿泊施設を探し始めた。幸運にも一軒の旅館が近くにあったのでそこに向かう。
少し内陸へと入ったところにあったその旅館、小さいながらも日本の美を感じさせるような立派な和風建築だった。車を止めて、着替えやらこまごましたものをもって(先輩がいつの間にか準備してくれていた!サイズがちょうどなのは恐怖を感じたが……)旅館へと入った。
女将さんと思しき女性が驚いたような顔でこっちを見た。
「すみません、急なお願いで誠に申し訳ないのですが、大人二人で一泊させて頂くことは可能でしょうか?突然の旅で宿無しになってしまって」
「ええ、構いませんよ。ほかのお客様もいらっしゃいませんし。それでは、お部屋へご案内致します。当旅館最後のお客様方」
先輩のお願いに応えてくれた女将さんに通されたのは、眺めのいい広々した部屋だった。入口と逆側に張り出されたバルコニーからは渓流が見え、足湯まで付いていた。綺麗な谷川に見とれていた私に近づいてきた先輩は、小声で言った。
「なあ、幾ら持ってる?私八千しかないんだが」
血の気が引いた。宿代のことを失念していた。
「先輩、私、五千しか……」
「正直に言うしかないか……。あ、あのー宿代のことなんですが」
先輩はギギギ、なんて音でも聞こえてきそうなぐらいに恐る恐るお茶の準備をしている女将さんの方を振り向いた。
「お代は結構ですよ。あなたたち、見たところ大学生ぐらいでしょう?若いんだから、最後ぐらいお金なんて気にせずゆっくりして行って頂戴」
「「ありがとうございますっ!」」
「はーい。ご飯の用意は暫く時間がかかるから先にお風呂に入っていらっしゃいな。この部屋に来るまでに通った廊下のつき当たりにあるわ」
そう言うと女将さんは退出していった。
「風呂か。私は後にしようかな。しかし待たせるのもなんだから先に入ってくるといい。せっかくの温泉だ、満喫しておいで」
「え、一緒に行きましょうよ。何かしたいことがあるなら別に待っててもいいので」
「あー……、いや、私の体傷跡が酷くてな。見たくないだろう?そんなもの」
「いちいち気にしませんよ。時間をずらすのそれが理由だったなら行きましょ?」
渋る先輩の手を引き大浴場へと向かったことを私は後悔することになる。言い訳をするなら、まさか酷い傷跡とはいえあそこまでとは思わないだろう?気丈に振舞う彼女があれ程暗い過去を抱えていたなんて。
脱衣所でのろのろと服を脱いでいる先輩を後目に服を放り出した私は体を流すと露天風呂に急いだ。少し遅れての先輩がやってきた。マナーに準拠してタオルをはだけた先輩の体を見て、私は思わず湯船の中で後退ってしまった。責めないでくれるとありがたい。スラックスとタートルネックの下に隠されていた先輩の素肌はあまりに痛ましかった。右半身を覆う火傷跡。脚を斑に彩る刺し傷。両腕には洗濯板の如き切り傷が痛々しい。何があったのかなんて想像に難くないだろう。親に会えない。体に残る傷。人の悪意をこんなにまざまざと見せられたのは初めてだ。胃から込み上げてくる不快感。ここが露天風呂だったのは不幸中の幸いだった。敷地の端に移動し、うぐ、ぇ、おぇ、げほ。ぱしゃぱしゃと音を立てて吐瀉物が下草を汚していく。えずく私にごめん、なんて弱々しい声がかけられた。なんで、謝る?
「はっきりと断っておけばよかったな。私は出るよ。こんな体視界に入れていたくはないだろう」
悪いのは私の浅慮だ。そもそも、その傷だって先輩が悪いわけじゃないはずだ。そんな言い方なんて。
「待って、私は大丈夫です。ね、先輩は悪くないです。だから、とりあえずお風呂、一緒に入りましょう」
お風呂の間も、その後のご飯の時も、傷についてお互いに言及することはしなかった。どこかぎこちない会話が間を取り持っていた。
電気を消して布団に入った。私は、呟くようにして先輩に問うた。
「先輩、あの傷ってやはり虐待」
私の言葉を遮って先輩が問い返してきた。
「……聞きたいのか?」
何処か、冷めた声色。平坦な声は何の感情も有していなかった。しかし、それでも私は。
「ええ、聞きたい。あなたのことを少しでも多く知りたい。最期を共にするであろうあなたのことを、十四年を経て再会できた友人のことを。けれどこれは私のエゴでしかないから。だから、それを話したくないなら引き下がります。ちょっぴり悔しいですけど」
大きくため息をついてから起き上がって先輩は答えた。
「分かった。なら話してあげよう。でもこれだけは言っておく。私は君に同情も理解も求めない。いや、寧ろそんなことをするんじゃないぞ。同じ境遇に置かれていない君にそれができるはずもないからだ。それだけは念頭に置いておけ」
の成長に伴って、程度は酷くなっていった。いつしか私の居住空間は押し入れの中になり、吐き出されるものは暴力になった。父親は服で隠すことができる場所を痛めつけ、万が一がないように水泳の授業も欠席させたから誰も私が虐待を受けていたことに気付かなかった。一度、逃げ出してみたこともある。小学校六年の夏だ。あっけなく捕まり、罰として脚をめった刺しにされた。脚の傷跡はそれだ。痣と違って刺し傷は消えなかった。中学校二年の冬、児童相談所に逃げ込んだ。二ヶ月後に連れ戻され今度は右半身に熱湯を浴びせられた。……もう、わかるだろう?火傷跡だ。今でも時々、しくしくと痛む」
そう言うと先輩は浴衣の上から傷跡を二三度さすった。
「中学校三年の夏、最後の希望を胸に抱いて、東京へと逃げ出した。ガキの浅知恵だけどあれだけ人がいるなら逃げ切れるんじゃないかってな。ヒッチハイクに野宿を重ねて数週間。追われていないことに気付いた時の喜びといったら……。でも、残念なことにあの時の私は壊れていた。金も無かったからな、万引きだって腐るほどした。気を紛らす為に未成年のうちから酒にも煙草にも手を出した。勿論盗品けどな。リストカットだってやった。お陰で警察にも連れてかれたし、今でも煙草を止められないし、重度のアル中だ。それで、結局行き倒れ。今生きてるのは拾ってくれて大学にまで行かせてくれた老夫婦のお陰だ。まあ、去年亡くなってしまったんだけれども。結局何も返せずじまいだよ」
そう言った先輩は、あはは、と自嘲気味に笑った。話は終わった。けれど、案の定と言うべきか私は何も言えなかった。高々二十年弱しか生きていない私が言えることなんて何も無かった。私の無言をどうとったのかは知らないが、先輩は再び口を開いた。
「まあ今更の話だ。気にするこっちゃないさ。寧ろ話し終わった今、聞いてくれて感謝する気持ちだってある。そろそろ寝ようか。明日は審判の日だ。生き残るか、そうでないかは分からないけれど、一つの区切りとなるだろう。それじゃおやすみ、また明日」
「おやすみなさい、先輩。また明日」
――あと、一日。




