第二話 次の式は挙げません
私の声が消えると、礼拝堂の奥で衣擦れの音がした。
誰も、すぐには立ち上がらなかった。
司祭様が進み出た。用意した食事は隣の会館で召し上がれること、帰りの馬車が整うまでそちらで休んでいただきたいことを、いつもと変わらない声で伝えてくださった。
フィリップ様のお父様も、お客様の方へ頭を下げた。
人が立ち上がった。
こちらを見て小声で話す人も、何も言わず礼をしてくれる人もいた。私はそのたびに頭を下げた。誰の顔も、ずっとは見ていられなかった。
通路を戻る時、幼い頃から知っている夫人が手を差し出した。
母に紙を預けると、両手で包まれた。
「お寒いでしょう。上着をお借りになって」
頷いたら、涙が出た。
泣くつもりはなかったので、拭くものを用意していなかった。母から受け取ったハンカチを目に当て、そのまま控室へ入った。
侍女がヴェールを外してくれた。
薄い布が顔の横を通り、鏡からなくなった。髪の飾りは残っている。椅子に座り直すと、耳元で小さく触れ合った。
花束は、出ていく前と同じ場所に置かれていた。
「お水を召し上がりますか」
頼むと、侍女はすぐに持ってきてくれた。
杯を受け取ったものの、口へ運ぶまでに少しかかった。飲み込むと喉が痛かった。
母は挨拶の紙を卓へ置いた。
上になっていたのは、披露の席で読むはずだった方だった。
『今日から同じ家へ帰れることを、嬉しく思っております』
昨夜、最後に書き足した一行だった。
初めは、手本にあった通りに書いていた。
互いを思いやり、穏やかな家庭を築いてまいります。
声に出して読んでも、間違ったことは何もなかった。ただ、読み終えた後、私でなくても言える挨拶だと思った。
机の脇には、詰め終わった荷箱が置かれていた。
窓辺で使っていた小さな裁縫箱も、本を読む時に膝へ掛けていた布も、蓋の下に収まっていた。
これからは彼に、ではまた、と言って帰らなくてよくなる。
夕方、馬車を見送ってから、言い忘れた話を思い出すこともなくなる。食事の席で、今日あったことを話せる。
どちらの家へ帰るかを考える必要もなくなる。
そう思うと、手本の言葉の後に、もう少し書きたくなった。
同じ家へ帰れることが、嬉しい。
一度書いてから、子供のようではないかと迷った。けれど、ほかの言い方にはしなかった。
明日これを聞いたら、彼はどんな顔をするだろう。
読みながら顔を上げられるよう、文の終わりに点を打った。
いま、その点の横に、水の跡がついていた。
杯を持つ指が濡れているのに気づき、ハンカチで拭いた。
母は何も言わず、紙を折って持たせてくれた。
その後、私たちは司祭様の執務室へ移った。
◇
フィリップ様が戻ったのは、開式の予定から一時間近く経ってからだった。
会館ではまだ、お客様が馬車を待っていた。
執務室では、両家の代表と司祭様が、婚約解消の届けを作っていた。
「なぜ皆が帰っているんだ」
戸口で彼が言った。
襟元には、私の花束と揃いの小花が留まっていた。出がけに誰かにつけてもらったのだろう。少し傾いていた。
「伝言は届かなかったのか。少し遅らせれば済むだろう」
彼のお父様が立ち上がった。
「お前が戻らない間に、セリーヌ嬢が式の中止を伝えてくださった。私からも皆様にお詫びした」
「中止?」
彼は初めて、私を見た。
私は借りた上着を肩に掛け、ヴェールを外していた。花束も持っていなかった。
「セリーヌ。そこまで怒っているとは思わなかった」
いつもの声だった。
困らせてしまった相手を、宥めようとする声。
「ロザが食事を取るまで待ったんだ。ようやく眠ったから、急いで来た。待たせて悪かったよ」
彼は私の隣の椅子を引いた。
「埋め合わせはする。旅行を長くしてもいいし、君が行きたいと言っていた店にも――」
「座らなくて結構です」
椅子を持つ手が止まった。
父も母も、私の返事を待っていた。
「式のやり直しの相談ではありません。婚約を解消してください」
フィリップ様は卓の紙を見下ろした。
挙式を取りやめた理由と、両家の名が書かれていた。彼は途中まで目を動かすと、私へ顔を戻した。
「待ってくれ。僕は君と結婚するために来たんだ」
「私は、結婚しないとお伝えするために待っていました」
椅子が床を擦った。
彼は私の正面へ回った。私も顔を上げた。
「病人を放っておけと言うのか」
「いいえ」
「なら、どうすればよかったんだ。ロザは昔からの友達だ。心細いと言われて、見捨てられるわけがない」
喉の奥が痛んだ。
私は上着の端を握った。借りた布地に皺がつくのが気になって、手を離した。
「私も、心細かったです」
彼の口が閉じた。
「ここへ来てほしかった」
控室でなら、泣いて言えたかもしれない。
今はもう、お客様を帰して、解消の届けが目の前にある。彼がどんな返事をしても、今日の午前には戻れない。
「……そうだったのか。言ってくれれば」
彼は卓の縁に手を置いた。
「君はいつも、大丈夫だと言うから。今日はずっと待っているのも退屈だろうと思って、早めに伝言も送った。これからは、君にもちゃんと聞くよ」
私は頷きかけた。
聞いてくれるなら、と考えるより先に、首が動いていた。
唇を結ぶと、彼が少し身を屈めた。
「次は、こんなことにならないようにする。約束する」
歌劇の切符は捨てた。
寸法を測った指輪は、今日、交換するはずだった。
どちらの日にも、次があると思って帰った。
「次の式は、挙げません」
彼の手が、卓から離れた。
「婚約を、解消してください」
同じことしか言えなかった。
言い終えると、息を吐く音が自分でも聞こえた。
父が私の横に来た。
「ベルネ家も同意する。費用については、事前に取り決めた両家の負担で精算しよう」
彼のお父様が頷き、私へ頭を下げた。
息子の不在の間に謝罪し、私の話も聞いてくださっていた。その方にまで頭を下げさせるのがつらくて、私は何か言おうとした。
「お立ちください」
司祭様が私に言った。
求められたのは、最後の意思の確認だった。
私は立って、婚約の解消を望みます、と答えた。
「セリーヌ。本当に、もう?」
彼の声が、初めて小さくなった。
「はい」
それだけ答えた。
彼は父親からペンを受け取った。しばらく紙を見つめ、署名する場所を司祭様に尋ねた。
教えられた欄に書いた彼の名は、よく知っている字だった。
私も署名した。
最後の文字まで書いてから、ペン先を紙から離した。普段より少し大きな字になっていた。
司祭様が書面を確かめ、両家へ言葉をかけた。
私がペンを置いても、彼はまだ書面の方を見ていた。
◇
夕方までに、両家の精算は済んだ。
フィリップ様の家は、取り決めどおり式と披露の費用の半分を支払った。私の家も半分を払った。
招待客が全員召し上がったわけではない料理にも、使わなかった飾りにも、代金はかかった。
母は受け取った勘定書を畳み、持ち帰る荷物へ入れた。
借りていた上着を脱いで差し出すと、母が畳んでくれた。教会の方から持ち主へ返していただくことになった。
会館を出る時、料理を片づけていた女性が手を止めた。
「お茶だけでも、召し上がりませんか」
首を振りかけて、母を見る。
母は私の返事を待っていた。
「少し、いただきます」
立ったまま、一口飲んだ。お茶はぬるくなっていた。喉が渇いていて、もう一口飲んだ。
礼を言うと、女性は空いた杯を受け取ってくれた。今日のことには触れなかった。
私たちが馬車へ向かう時、まだフィリップ様は会館にいた。
遠方から来た親戚へ説明をしていた。
「彼女が、少し待っていてくれれば」
そこまで聞こえた。
相手は父の従兄だった。彼の言葉を遮ることはせず、最後まで聞いてから答えた。
「待っていた花嫁の挨拶は、私も聞いたよ」
フィリップ様はこちらを見た。
私は一礼し、母に続いて馬車へ乗った。
母の隣へ座ると、ドレスの裾で足元が見えなくなった。朝は皺にならないようにと、二人で何度も布を持ち上げて座った。
今度は母が、私の靴を踏んでいないかとだけ聞いた。
大丈夫です、と答えた。
屋敷では、式の間に運ばれるはずだった私の荷箱が、玄関に並んでいた。
行き先を尋ねられ、自分の部屋へ戻してもらった。
見慣れた寝台があり、窓辺には昨日脱いだ室内履きが揃えてあった。
侍女がそれを足元へ持ってきてくれた。靴を脱ぐと、踵に赤い跡がついていた。痛くはなかった。触れられて初めて、そこが熱を持っていると分かった。
私はようやく、髪の留め具を外してもらった。
一本抜くたび、頭が軽くなった。
鏡の前の小皿へ、外した留め具が少しずつ増えていく。
「お髪は、もう一度まとめますか」
「いいえ。このままで」
髪を下ろし、室内着に着替えた。
侍女がドレスを両腕へ抱えて運ぶのを見送った後、寝台に腰を下ろした。
今夜は眠らないはずだった部屋に、夕方の光が差していた。
窓の外で庭師が道具を片づけている。階下から、食器を運ぶ音がした。
何をすればよいのか分からず、しばらく膝の上の手を見ていた。
◇
その夜、彼から小箱が届いた。
差出人を聞いた時、私はまだ、食事を少し残した卓の前にいた。
箱の中には、真珠の耳飾りと手紙があった。
耳飾りは旅行先で渡すつもりだったという。
明日、二人だけで話そう、と書かれていた。
真珠は、灯りを受けて淡く光っていた。
細い金具の先で揺れる形だった。彼と立ち寄った店の窓に、似たものがあった。私が足を止めたことを、覚えていてくれたのかもしれない。
綺麗だった。
箱の蓋を開いたまま、少し見ていた。
耳に当ててみることはしなかった。
私は机へ移り、返事を書いた。
『婚約は解消いたしました。明日はお会いしません』
書き終えて、ペンを置いた。
箱の蓋を閉め、その上に返事を載せた。扉の外で待っていた従者へ渡すと、彼は行き先を確かめて受け取った。
廊下へ出たところで父に会った。
食事の様子を見に来たのだと言った。
「少しは食べられたか」
「はい」
父は頷いた。
立ち去りかけた父に、私は頼んだ。
「お父様。もしフィリップ様が訪ねてこられても、お通ししないでください」
「分かった」
理由を尋ねられることはなかった。
部屋へ戻ると、机の上には、もう小箱がなかった。
挨拶に使った紙は、持ち帰った袋の中に入っていた。今日は出さなかった。
私は寝台へ行き、掛け布をめくった。
翌朝は、いつもより遅く目が覚めた。
一度目を閉じ直してから、ゆっくり起きた。窓辺の室内履きへ足を入れ、自分で髪を梳いた。
食堂へ行くと、母が既に座っていた。
私の顔を見て何か言いかけ、代わりに隣の椅子を引いてくれた。
「眠れた?」
「少し」
卵料理が運ばれてきた。
皿の縁に溶けたチーズがついていた。料理人は、これが焼きたてでないと固くなるのを、いつも気にしていた。
私は窓の方へ顔を向けかけた。
馬車の音を聞く必要は、もうなかった。
この先、誰に何を言われるのかは分からない。
今日、屋敷から出る元気もなかった。
「今日は、家にいたいです」
母にそう言うと、家にいればいいわ、と返ってきた。
それから、自分の皿へ手を伸ばした。
私は頷き、フォークを取った。
柔らかな卵を切ると、中から湯気が上がった。
時計を見ずに、一口目を食べた。




