↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/2

第二話 次の式は挙げません

 私の声が消えると、礼拝堂の奥で衣擦れの音がした。

 誰も、すぐには立ち上がらなかった。


 司祭様が進み出た。用意した食事は隣の会館で召し上がれること、帰りの馬車が整うまでそちらで休んでいただきたいことを、いつもと変わらない声で伝えてくださった。

 フィリップ様のお父様も、お客様の方へ頭を下げた。


 人が立ち上がった。

 こちらを見て小声で話す人も、何も言わず礼をしてくれる人もいた。私はそのたびに頭を下げた。誰の顔も、ずっとは見ていられなかった。


 通路を戻る時、幼い頃から知っている夫人が手を差し出した。

 母に紙を預けると、両手で包まれた。


「お寒いでしょう。上着をお借りになって」


 頷いたら、涙が出た。

 泣くつもりはなかったので、拭くものを用意していなかった。母から受け取ったハンカチを目に当て、そのまま控室へ入った。


 侍女がヴェールを外してくれた。

 薄い布が顔の横を通り、鏡からなくなった。髪の飾りは残っている。椅子に座り直すと、耳元で小さく触れ合った。

 花束は、出ていく前と同じ場所に置かれていた。


「お水を召し上がりますか」


 頼むと、侍女はすぐに持ってきてくれた。

 杯を受け取ったものの、口へ運ぶまでに少しかかった。飲み込むと喉が痛かった。


 母は挨拶の紙を卓へ置いた。

 上になっていたのは、披露の席で読むはずだった方だった。


『今日から同じ家へ帰れることを、嬉しく思っております』


 昨夜、最後に書き足した一行だった。


 初めは、手本にあった通りに書いていた。

 互いを思いやり、穏やかな家庭を築いてまいります。

 声に出して読んでも、間違ったことは何もなかった。ただ、読み終えた後、私でなくても言える挨拶だと思った。


 机の脇には、詰め終わった荷箱が置かれていた。

 窓辺で使っていた小さな裁縫箱も、本を読む時に膝へ掛けていた布も、蓋の下に収まっていた。


 これからは彼に、ではまた、と言って帰らなくてよくなる。

 夕方、馬車を見送ってから、言い忘れた話を思い出すこともなくなる。食事の席で、今日あったことを話せる。

 どちらの家へ帰るかを考える必要もなくなる。


 そう思うと、手本の言葉の後に、もう少し書きたくなった。


 同じ家へ帰れることが、嬉しい。


 一度書いてから、子供のようではないかと迷った。けれど、ほかの言い方にはしなかった。

 明日これを聞いたら、彼はどんな顔をするだろう。

 読みながら顔を上げられるよう、文の終わりに点を打った。


 いま、その点の横に、水の跡がついていた。

 杯を持つ指が濡れているのに気づき、ハンカチで拭いた。


 母は何も言わず、紙を折って持たせてくれた。

 その後、私たちは司祭様の執務室へ移った。


 ◇


 フィリップ様が戻ったのは、開式の予定から一時間近く経ってからだった。

 会館ではまだ、お客様が馬車を待っていた。

 執務室では、両家の代表と司祭様が、婚約解消の届けを作っていた。


「なぜ皆が帰っているんだ」


 戸口で彼が言った。

 襟元には、私の花束と揃いの小花が留まっていた。出がけに誰かにつけてもらったのだろう。少し傾いていた。


「伝言は届かなかったのか。少し遅らせれば済むだろう」


 彼のお父様が立ち上がった。


「お前が戻らない間に、セリーヌ嬢が式の中止を伝えてくださった。私からも皆様にお詫びした」

「中止?」


 彼は初めて、私を見た。

 私は借りた上着を肩に掛け、ヴェールを外していた。花束も持っていなかった。


「セリーヌ。そこまで怒っているとは思わなかった」


 いつもの声だった。

 困らせてしまった相手を、宥めようとする声。


「ロザが食事を取るまで待ったんだ。ようやく眠ったから、急いで来た。待たせて悪かったよ」


 彼は私の隣の椅子を引いた。


「埋め合わせはする。旅行を長くしてもいいし、君が行きたいと言っていた店にも――」

「座らなくて結構です」


 椅子を持つ手が止まった。

 父も母も、私の返事を待っていた。


「式のやり直しの相談ではありません。婚約を解消してください」


 フィリップ様は卓の紙を見下ろした。

 挙式を取りやめた理由と、両家の名が書かれていた。彼は途中まで目を動かすと、私へ顔を戻した。


「待ってくれ。僕は君と結婚するために来たんだ」

「私は、結婚しないとお伝えするために待っていました」


 椅子が床を擦った。

 彼は私の正面へ回った。私も顔を上げた。


「病人を放っておけと言うのか」

「いいえ」

「なら、どうすればよかったんだ。ロザは昔からの友達だ。心細いと言われて、見捨てられるわけがない」


 喉の奥が痛んだ。

 私は上着の端を握った。借りた布地に皺がつくのが気になって、手を離した。


「私も、心細かったです」


 彼の口が閉じた。


「ここへ来てほしかった」


 控室でなら、泣いて言えたかもしれない。

 今はもう、お客様を帰して、解消の届けが目の前にある。彼がどんな返事をしても、今日の午前には戻れない。


「……そうだったのか。言ってくれれば」


 彼は卓の縁に手を置いた。


「君はいつも、大丈夫だと言うから。今日はずっと待っているのも退屈だろうと思って、早めに伝言も送った。これからは、君にもちゃんと聞くよ」


 私は頷きかけた。

 聞いてくれるなら、と考えるより先に、首が動いていた。

 唇を結ぶと、彼が少し身を屈めた。


「次は、こんなことにならないようにする。約束する」


 歌劇の切符は捨てた。

 寸法を測った指輪は、今日、交換するはずだった。

 どちらの日にも、次があると思って帰った。


「次の式は、挙げません」


 彼の手が、卓から離れた。


「婚約を、解消してください」


 同じことしか言えなかった。

 言い終えると、息を吐く音が自分でも聞こえた。


 父が私の横に来た。


「ベルネ家も同意する。費用については、事前に取り決めた両家の負担で精算しよう」


 彼のお父様が頷き、私へ頭を下げた。

 息子の不在の間に謝罪し、私の話も聞いてくださっていた。その方にまで頭を下げさせるのがつらくて、私は何か言おうとした。


「お立ちください」


 司祭様が私に言った。

 求められたのは、最後の意思の確認だった。

 私は立って、婚約の解消を望みます、と答えた。


「セリーヌ。本当に、もう?」


 彼の声が、初めて小さくなった。


「はい」


 それだけ答えた。

 彼は父親からペンを受け取った。しばらく紙を見つめ、署名する場所を司祭様に尋ねた。

 教えられた欄に書いた彼の名は、よく知っている字だった。


 私も署名した。

 最後の文字まで書いてから、ペン先を紙から離した。普段より少し大きな字になっていた。


 司祭様が書面を確かめ、両家へ言葉をかけた。

 私がペンを置いても、彼はまだ書面の方を見ていた。


 ◇


 夕方までに、両家の精算は済んだ。

 フィリップ様の家は、取り決めどおり式と披露の費用の半分を支払った。私の家も半分を払った。

 招待客が全員召し上がったわけではない料理にも、使わなかった飾りにも、代金はかかった。


 母は受け取った勘定書を畳み、持ち帰る荷物へ入れた。

 借りていた上着を脱いで差し出すと、母が畳んでくれた。教会の方から持ち主へ返していただくことになった。


 会館を出る時、料理を片づけていた女性が手を止めた。


「お茶だけでも、召し上がりませんか」


 首を振りかけて、母を見る。

 母は私の返事を待っていた。


「少し、いただきます」


 立ったまま、一口飲んだ。お茶はぬるくなっていた。喉が渇いていて、もう一口飲んだ。

 礼を言うと、女性は空いた杯を受け取ってくれた。今日のことには触れなかった。


 私たちが馬車へ向かう時、まだフィリップ様は会館にいた。

 遠方から来た親戚へ説明をしていた。


「彼女が、少し待っていてくれれば」


 そこまで聞こえた。

 相手は父の従兄だった。彼の言葉を遮ることはせず、最後まで聞いてから答えた。


「待っていた花嫁の挨拶は、私も聞いたよ」


 フィリップ様はこちらを見た。

 私は一礼し、母に続いて馬車へ乗った。


 母の隣へ座ると、ドレスの裾で足元が見えなくなった。朝は皺にならないようにと、二人で何度も布を持ち上げて座った。

 今度は母が、私の靴を踏んでいないかとだけ聞いた。

 大丈夫です、と答えた。


 屋敷では、式の間に運ばれるはずだった私の荷箱が、玄関に並んでいた。

 行き先を尋ねられ、自分の部屋へ戻してもらった。


 見慣れた寝台があり、窓辺には昨日脱いだ室内履きが揃えてあった。

 侍女がそれを足元へ持ってきてくれた。靴を脱ぐと、踵に赤い跡がついていた。痛くはなかった。触れられて初めて、そこが熱を持っていると分かった。


 私はようやく、髪の留め具を外してもらった。

 一本抜くたび、頭が軽くなった。

 鏡の前の小皿へ、外した留め具が少しずつ増えていく。


「お髪は、もう一度まとめますか」

「いいえ。このままで」


 髪を下ろし、室内着に着替えた。

 侍女がドレスを両腕へ抱えて運ぶのを見送った後、寝台に腰を下ろした。


 今夜は眠らないはずだった部屋に、夕方の光が差していた。

 窓の外で庭師が道具を片づけている。階下から、食器を運ぶ音がした。

 何をすればよいのか分からず、しばらく膝の上の手を見ていた。


 ◇


 その夜、彼から小箱が届いた。

 差出人を聞いた時、私はまだ、食事を少し残した卓の前にいた。


 箱の中には、真珠の耳飾りと手紙があった。

 耳飾りは旅行先で渡すつもりだったという。

 明日、二人だけで話そう、と書かれていた。


 真珠は、灯りを受けて淡く光っていた。

 細い金具の先で揺れる形だった。彼と立ち寄った店の窓に、似たものがあった。私が足を止めたことを、覚えていてくれたのかもしれない。


 綺麗だった。


 箱の蓋を開いたまま、少し見ていた。

 耳に当ててみることはしなかった。


 私は机へ移り、返事を書いた。


『婚約は解消いたしました。明日はお会いしません』


 書き終えて、ペンを置いた。

 箱の蓋を閉め、その上に返事を載せた。扉の外で待っていた従者へ渡すと、彼は行き先を確かめて受け取った。


 廊下へ出たところで父に会った。

 食事の様子を見に来たのだと言った。


「少しは食べられたか」

「はい」


 父は頷いた。

 立ち去りかけた父に、私は頼んだ。


「お父様。もしフィリップ様が訪ねてこられても、お通ししないでください」

「分かった」


 理由を尋ねられることはなかった。


 部屋へ戻ると、机の上には、もう小箱がなかった。

 挨拶に使った紙は、持ち帰った袋の中に入っていた。今日は出さなかった。

 私は寝台へ行き、掛け布をめくった。


 翌朝は、いつもより遅く目が覚めた。

 一度目を閉じ直してから、ゆっくり起きた。窓辺の室内履きへ足を入れ、自分で髪を梳いた。


 食堂へ行くと、母が既に座っていた。

 私の顔を見て何か言いかけ、代わりに隣の椅子を引いてくれた。


「眠れた?」

「少し」


 卵料理が運ばれてきた。

 皿の縁に溶けたチーズがついていた。料理人は、これが焼きたてでないと固くなるのを、いつも気にしていた。

 私は窓の方へ顔を向けかけた。

 馬車の音を聞く必要は、もうなかった。


 この先、誰に何を言われるのかは分からない。

 今日、屋敷から出る元気もなかった。


「今日は、家にいたいです」


 母にそう言うと、家にいればいいわ、と返ってきた。

 それから、自分の皿へ手を伸ばした。


 私は頷き、フォークを取った。

 柔らかな卵を切ると、中から湯気が上がった。


 時計を見ずに、一口目を食べた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。