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第一話 鐘が鳴るまで

全12話の予定

 開式まで、あと十分だった。

 花婿の代わりに、小さく折った紙が届いた。


『ロザが熱を出した。幼馴染が心配だ。様子を見てから向かうので、式を遅らせてほしい』


 フィリップ様の字だった。

 急いだ時には、最後の一文字が横へ流れる。見慣れた癖を指でなぞってから、もう一度、終わりまで読んだ。

 裏も見た。何も書いていなかった。


「どれくらい遅れるそうなの」


 母に聞かれ、首を振った。

 時刻は書いていなかった。


 控室の卓には、白い花を挿した壺と、披露の席で読む挨拶の紙が置いてある。遠くから来てくださった方へのお礼。両親への感謝。彼と築く家庭のこと。

 昨日までに何度も書き直した。読む時につかえないよう、息を継ぐ場所には小さな点も打っていた。

 私はその紙を裏返した。


「セリーヌ」


 母が肩に手を置いた。

 鏡の中で、二人ともよそ行きの服を着ていた。母の襟には、私が選んだ飾り留めがある。今朝、似合うと言うと、花嫁より目立たないかしらと笑った。

 母が笑うので、私も笑った。髪を結っていた侍女に、動かないでくださいと言われた。

 まだ、ほんの少し前のことだった。


「鐘が鳴るまで、待ちます」


 いつもなら、もっと長く待った。


 去年、彼と初めて観に行くはずだった歌劇では、休憩の時刻まで隣の席を空けていた。

 人が通るたびに膝の上の外套を引き寄せ、通路の奥を見た。幕が上がってからは振り向かないようにしていたのに、扉の開く音には、どうしても顔を向けてしまった。


 後日、ロザ様が家族と喧嘩をして泣いていたのだと聞いた。


「昔から、一度泣くとなかなか落ち着かなくてね」


 彼は困ったように言った。

 私は、そうだったのですね、と答えた。


 話したかった場面があった。

 若い女中が、誰もいない食堂で銀器を磨きながら歌うところだ。主役の歌ほど長くはなく、仕事の合間に口ずさむような歌い方が好きだった。

 けれど彼は観ていない。私があらすじから話せば、来られなかったことをまた気にするかもしれないと思った。

 演目の話はしなかった。


 春には、二人で結婚指輪の寸法を測る約束をした。


 職人の店には、向かい合わせに二脚の椅子が置かれていた。私は扉に近い方へ座り、彼が来たら渡すつもりの手袋を、膝の上で畳み直していた。

 前の訪問の時、彼が家に忘れていったものだった。


 窓から入る光が、卓の端へ移っていく。

 職人は別の客の注文を仕上げながら待ってくれた。小さなやすりを動かす手を止め、通りで馬車の音がするたびに顔を上げた。


「先に、お嬢様の寸法をお取りしましょうか」


 店の奥で灯りをつける頃に、そう聞かれた。


「はい。お願いします」


 盆に並べられた輪の中から、職人が一つを選んだ。

 左手の薬指に通すと、関節のところで少し引っかかった。次の輪はすんなり通ったけれど、手を下げると根元で動いた。

 もう一度、初めの輪を試した。


「こちらの方がよろしいようですね」


 私は頷いた。

 彼にも見てもらいたかった。測るだけのことなのに、指へ輪を通すと、本当に結婚するのだと思った。


 寸法を帳面に書き留めた職人は、扉を閉めずにいてくれた。

 通りに出していた看板は、もう店の中にあった。


 フィリップ様が来た時、私は立ち上がっていた。

 彼は息を切らし、扉の向こうから私を見つけると、ほっとした顔をした。


「間に合ってよかった」


 具合の悪くなったロザ様を、家まで送っていたのだと言った。


「もう遅いので、私だけ測っていただきました」

「そうか。すまなかった」


 彼は職人にも頭を下げた。自分の寸法を測ってもらうと、私の方へ体を寄せ、小声で何か選んだかと聞いた。

 指輪の見本は、既に箱へ戻されていた。


「今日は、寸法だけです」


 外へ出た時、通りには夕餉の匂いがしていた。

 私の手には、渡しそびれた手袋が残っていた。差し出すと、彼は思い出したように笑った。


「持ってきてくれたのか。ありがとう」


 帰り道では、私の歩調に合わせてくれた。

 次は必ず一緒に選ぼうと言い、都合のよい日を尋ねてくれた。

 私は顔を上げ、その日なら私も空いていますと答えた。


 嬉しかった。

 それも、本当だった。


「司祭様は、何と?」


 控室で声に出すと、母の手が肩の上でわずかに動いた。


「お父様がお話ししているわ。婚姻簿はまだ白紙よ。あなたたちも、証人も署名していないもの」


 私は鏡を見た。

 手袋をはめた指を、膝の上で重ねていた。


「おやめになるなら、私も一緒に出ます」


 母は鏡越しでなく、私の方を見て言った。


 窓の下から、馬車を誘導する声が聞こえた。お客様はまだ増えている。席を確かめる人がいて、花を直す人がいて、誰もが式を始めるために働いていた。

 戸口には、私の花束が用意されていた。茎を巻いた白いリボンの先を、侍女が揃えている。


「紙を、もう一枚いただけますか」


 頼んでから、卓の上へ目を落とした。

 裏返した挨拶の紙には、一行も書いていない。


「……いいえ。これを使います」


 ◇


 伝言を運んできた従者は、まだ馬車寄せにいた。

 呼び戻してもらうと、控室の入口で深く頭を下げた。新しい礼服の肩が、息に合わせて上下していた。


「ロザ様のお加減は」

「明け方にお熱が出たそうです。私どもが伺った時には、医師がおいででした」

「今も?」

「いえ。診察を終えてお帰りになりました。薬でお熱も下がり、落ち着いておられます」


 母が私を見た。

 私は従者の言葉を待った。


「フィリップ様は、何時にこちらへ出発なさいますか」


 彼は口を開きかけ、閉じた。

 尋ね直さずにいると、やがて声を低くした。


「昼食を召し上がるまで、付き添うと」


 式は正午からだ。

 私は時計を見た。聞き間違いではないことを確かめたかった。


「ロザ様が、ご自分で食べられるかを見届けるそうです。お家の方も使用人もいらっしゃいますが、お帰りになると聞いて、ロザ様が心細がられまして」


 従者はそこで言葉を切った。

 まだ、続きがあるようだった。


「伺ってもいいですか」

「……若様は、セリーヌ様なら分かってくださると」


 鏡に映った肩が、少し下がった。

 私は背筋を伸ばした。


 お熱が下がったのはよかった。それを疑う理由はない。

 心細い時に、そばにいてほしいと思うことも分かる。


 私も、来てほしかった。

 今、この部屋に。


「教えてくださって、ありがとう」


 従者を下がらせると、入れ替わりに父が来た。司祭様も一緒だった。

 父は私の顔を見てから、迎えの馬車を出そうかと言った。


「私から使いをやれば、さすがに戻るだろう」


 そうかもしれない。

 父が言えば。彼のお父様が言えば。お客様をこれ以上待たせてはいけないと、誰かが教えれば。


 扉が開き、急いで来た彼が私の前に立つところを思い浮かべた。

 待たせてすまなかった。いつもの声で謝って、手を取ってくれる。

 私はその手に、自分の手を重ねる。

 そうすれば、結婚はできる。


 私は椅子に座り直した。

 ドレスの裾が椅子の脚に引っかかり、母がそっと外してくれた。


「お父様。お式に、いくらかかりましたか」


 父は、すぐには答えなかった。


「花も、料理も、皆様の馬車も。今やめたら、戻りませんね」

「戻らないものは多いな」


 父は、そんなことは気にするなとは言わなかった。

 私は頷いた。


 招待状の宛名を確かめた時、母は一枚ずつ遠方の親戚の名を教えてくれた。会うのは幼い頃以来の方もいる。

 私のために旅の支度をして、今日ここへ来てくださった。

 厨房には料理が並んでいる。仕立ててもらったドレスを着て、髪も整えてもらった。

 今朝まで、その一つ一つが嬉しかった。


 ここでやめれば、なかったことにはできない。

 明日からは、この式をやめた娘として人に会う。

 今日だけを我慢する方が、ずっと簡単だった。


「迎えは、出さないでください」


 母の指が、裾の上で止まった。


「戻っていただいても、結婚しません」


 声は小さかった。

 聞き返されたら、もう一度言うつもりだった。

 父は頷き、司祭様へ向き直った。


「お客様へのお話は、私からでも」


 司祭様が言った。


「私が、お伝えします」


 言ってから、卓の紙を手元へ引き寄せた。

 手袋を外し、ペンを持った。指がうまく曲がらなかった。

 紙の裏に、本日は、と書く。

 その先を考えているうちに、鐘が鳴った。


 ◇


 礼拝堂の扉は、予定どおりに開いた。

 楽奏はなかった。


 私と母が並んで出ると、立ち上がりかけた人たちが動きを止めた。

 花束は控室に置いてきた。両手で持った紙が、歩くたびに小さく鳴った。


 靴はこの日のために馴染ませていた。裾を踏まない歩幅も、繰り返し練習した。

 祭壇の手前まで、転ばずに行けた。


 父はフィリップ様のお父様を連れて、そこで待っていた。

 私はお客様の方へ向き直った。

 前の方の席にマリアンヌがいた。目が合ったけれど、いつものように微笑むことができなかった。


「本日は、お越しいただき、ありがとうございます」


 声が天井へ届いて戻ってきた。

 こんなに大きな部屋だったのかと思った。


「予定しておりました結婚式は、中止いたします」


 後ろの席で、誰かが息を呑んだ。

 私は紙の折り目を押さえた。


「フィリップ様は、ご自身の判断で、別の方への付き添いを続けておられます。私は、本日ここで、結婚を――」


 声が止まった。

 母の腕が隣にあった。肘を取ろうかと迷い、やめた。

 息を吸い直す。


「結婚を、取りやめると決めました。皆様に無駄なお支度とご足労をおかけしましたこと、お詫びいたします」


 頭を下げた。

 持っている紙が傾き、表の文字が目に入った。


 末永く。


 その一語だけが読めた。


「お日取りは、改めてお知らせを?」


 顔を上げると、父の古い友人がこちらを見ていた。

 聞いてくれて、ありがたかった。私はまだ、一番肝心なことを言えていない。


「いいえ。この方とは、結婚いたしません」


 今度はつかえずに言えた。

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