2005年7月 埼玉県K市
梅雨が明けてすぐ、ぼくは県外へ引っ越すことになった。
あと七ヵ月で卒業というところで、また学校を変わらなくてはならない。今回は学校を変わることより、津々美さんと会えなくなることが辛かった。水木君の件があったのであれ以来話はしていない。そのことがぼくの心を苦しめていた。
新聞配達の仕事を打ち切らなければならないことも心残りだ。新聞を配るルートや、どの家にどのような入れ方で配るかという知識は、引っ越したら無意味なものになる。そのことが、これから先のぼくの人生で何かの役に立つことはないだろう。
薔薇の花束 獅子座のペンダント 記憶のメカニズム……
新聞配達の最終日は、ピンク色のドアの家や、立派なカエルの置物の家や、法事でしょっちゅう留守にする家に、一件一件気持ちを込めて新聞を配った。全ての新聞を配り終え空になった自転車の荷台を見た時、ぼくの頰を汗と一緒に涙がつたって流れ落ちた。
新聞販売店に戻ると、大人の配達員たち全員がぼくの帰りを待っていて、大きな拍手で迎えてくれた。
「君は本当によく頑張った」
みんなに囲まれ花束が渡される。ピエール・ド・ロンサールのバラの花束だ。
「最初はすぐやめると思ったんだけど、見かけによらず根性あるね」
「大人の俺たちでも辛いのに、身を切るような真冬の寒風に負けずよくやった」
「君の頑張りが俺たちの心の支えになっていた」
一番悲しそうにしていたのは責任者だ。
「もしまたこの街に来ることがあったら……ううっ……ぜひ、顔を出して欲しい」
声を詰まらせながら、くしゃくしゃの顔でぼくに別れの握手を求める。その手の厚みには、何十年も新聞を配り続けた男の誠実さが包まれていた。
何度も転校したが、今までこんなに大勢の人に別れを惜しまれたことはない。
「本当にありがとう」「がんばれよ」「応援してるぜ」
涙とエールと拍手を受け、ぼくはバラの花束を抱えて新聞販売店を出た。見送る人たちに大きく手を振り、自転車のペダルを踏み込んだ。
引っ越しの日、トラックに荷物を積んで出発しようとしたとき、通りの角に津々美さんが立っていた。太陽は西の空に傾き、どこかで風鈴を鳴らす風が街路樹の枝を通り抜けていく。
「お友達?」
「うん」
「せっかく見送りに来てくれたんだから、お別れを言ってきたら?」
叔母に言われ、ぼくはトラックを降りて津々美さんの元へ歩いた。津々美さんに近づくと、まともに顔を見ることが出来なかった。
ぼくは意味もなく下を向いて、歩道に伸びる影を見つめた。影もぼくを見つめているような気がした。この夏に作られるはずだったぼくたちの楽しい思い出は、永遠に読まれることのない詩集に閉じ込められ、残照を浴びた迷宮の陽炎のように消えてゆく。
「元気でね……」
ぼくは黙ってうなずいた。話したいことはたくさんあったけど、言葉が見つからない。
ひぐらしが鳴き始めた児童公園のヤマモモの幹の上の空には、入道雲が茜色に輝いている。数人の子供たちが、虫かごや網を持って自転車で走り去った。
「これ……」津々美さんは、リボンで包まれた小さな箱を差し出す。とても軽い箱だった。その箱を手に取った時、ぼくの胸は、半分に切ったレモンの実を絞るみたいにキューンと締め付けられた。
「気に入らなかったら捨てていいから」
「ありがとう……」
「またどこかで、会えたらいいな——」
黒い髪がふわっとゆれて、シャンプーの香りが立ち込めた。天体観測会の日に、夕映えの光線が差し込む廊下でかいだ香りだ。
「そろそろ行かなくちゃ……」
それ以上その場所にいずらくなり、津々美さんに背を向けて、痺れるように重い足を動かした。
ぼくが戻ると大きなエンジン音が周囲の空気を振動させて、トラックがゆっくり動き出す。津々美さんは小走りに車と並走しながら、ぼくの方へ手を伸ばした。ぼくも窓を開けて、車の中から手を伸ばした。津々美さんの黒髪が横になびく。心地い香りや鮮やかな色彩や柔らかなぬくもりが、ぼくの手に触れることなく、車窓を流れていく。やがて津々美さんの姿は後方へ去り、小さくなり、広大な夜空のどこかを飛翔する彗星のように、見えなくなった。
彼女からもらった箱を開けたら、手紙とペンダントが入っていた。獅子座のペンダントだった。泣きたい気持ちで振り向いた西の空には、滲にじんだ絵の具のような青紫の積乱雲が輝き、記憶の街の夕映えに、ひぐらしの澄んだ鳴き声がこだましていた。




