春休み #1
中学校生活も残すところ一年と数日となった、三月の二十七日。
その日は春の訪れを象徴する日だった。
東京都心部で桜が開花し始め、ここ多摩地区でもほんの僅かだが桜のピンクが見られるようになっていた。僕の家から徒歩一分たらずの距離にある公園の桜も、あと一週間もすればきれいな満開となり、お花見に最適な状態になるだろう。そして、やがて咲いた花は風に吹かれ飛ばされるか自然に落ちるかして木から離れる。それは花という子が木という親から自立するようだ。ちょうどこの季節は、進級や進学・就職と新生活を送る人も多いから、なおさら巣立ちする子と散った桜の花びらを重ねてしまう。
だが面白いことに、桜の花びらが風に飛ばされて家に入ってくることがある。さすがに桜吹雪の全てではないが、それでも少なくない量だ。もう、十五年近くこの家に住んでいるから慣れているけど。
桜の木で唯一注意しなくてはいけないのは、毛虫が木の周りにいることも珍しくないということだ。ついそれを忘れてしまうと、あとでかぶれたりするので絶対に気をつけなくてはいけない。しつこく言うのは、僕が実際に毛虫の被害にあったからだ。あれ以来蝶や蛾の幼虫は大嫌いになったくらい、そのときは大変だったな。
さて、僕は桜を好きではないけれど、嫌いでもない人間だ。せっかく近所で咲き誇っているのだから、やはり見てみたい。散歩でもするか。いや、春休みの大切な一日を散歩で過ごすほど、僕は風流人ではない。
数分悩んで、駅まで行って文房具や書店を巡り道中桜を拝むことを決めた僕は、早速外出の準備を始めた。時刻は十四時。まだまだ時間はたっぷりとある。
急に外出用のコートを羽織った僕を不審に思ってか、姉が「どこいくの」と質問を浴びせてきた。それに対して、軽く「本屋に行ってくる」と答えると、ついでだからとおつかいを頼まれてしまった。
なぜ母親でもなく父親でもなく姉なのか。それは僕の父親は交通事故で急死し、母親もそのショックで気がふれてしまい入院中。僕と姉は二人暮らしなのだ。
姉は僕より学年で言うと四つ上で、大学一年生となる。日本国民なら知らない者はいない名門大学に合格する秀才で、弟の僕が言っても仕方ないけど容姿端麗。まさに才色兼備だ。おまけにスポーツも得意だ。ただし、性格に少し癖があるので、今まで彼氏が出来たことはないらしい。
僕はというと、姉ほどではないけれど勉強が出来るという自負がある。スポーツもサッカーなら多少は出来るし、運動神経が悪くないらしく他のスポーツも平均以上に活躍するくらいだ。ただ、僕はイケメンとはほど遠い平凡な容姿だから、全体的に見ると姉の完全下位互換だ。
それと少し話が飛ぶけれど、僕の家はちょっと特殊だ。もちろん、それは姉と二人暮らしという点ではない。
僕の家はピアノ教室をやっているのだ。結構ピアニストとして凄腕だったらしい母親が元気な頃は、母親の性格も温厚だったし教え方も丁寧だったから、そこそこ評判も高かった。だが今は……。
姉が教えている。姉も僕も母親から手ほどきを受けているから、そこそこ弾くことが出来る。無論姉の方が四年も長くやっているから、僕なんかじゃ到底適わないけれど。何しろ、姉は音大生レベルの弾き手らしい(本人談)。
普通だと上手に弾けても教え方が悪かったりしてうまくいかないと思うのだけれど、姉は天賦の才能をここでも発揮しているようだ。母親から先生役を引き継いでからやめた生徒は一人もいない。
僕の家の家計は姉によって支えられているのだった。彼女としてはバイト感覚らしいのだが、それにしては拘束時間が多いのでは、と僕は疑問を感じる。まあ、うまくいってるようだから別に文句はないんだけどね。
さて、独り言もこれくらいにして、そろそろ駅に向かうとしようか。
僕は自転車の鍵を玄関の棚から取ると、家から飛び出す。
春の気持ちのいいボカポカとした空気に、僕の全身は包まれていった。