第1話 画面の向こう側
こんな物語はいかがですか?
「君、配信やってみない?」
事務所の担当者からそう言われた時、なるは思わず聞き返した。
「……配信ですか?」
「そう。ライブ配信。スマホでできるやつ」
言葉の意味は分かるし、実際に配信をしている人を見たこともある。けれど、自分がスマートフォンの前に座って誰かに向かって話している姿は、まったく想像できなかった。
なるが目指しているのは俳優だ。
オーディションを受けて、ドラマや映画や舞台に出たい。そのために事務所へ入り、演技のレッスンも受けているのだから、どうしてそこで配信が出てくるのか、なるにはいまひとつ分からなかった。
「それって……俳優の仕事につながるんですか?」
「直接つながるとは限らないよ。でも、人前で話す練習にはなるし、自分のことを知ってもらうきっかけにもなる。それに、台本のないところでどう喋るかっていうのも勉強になるから」
「台本のないところ……」
なるは少し考えた。
演技なら台詞があるし、オーディションなら、ある程度は聞かれそうなことを想像できる。けれど配信となれば、何を話すのかも、誰が来るのかも分からない。そもそも、自分の配信を見に来てくれる人がいるのかさえ分からなかった。
「まあ、合わなかったらやめてもいいから。一回やってみたら?」
そう言われ、なるは結局「分かりました」と答えた。
俳優になるために何か役立つかもしれない。始めた理由は、その程度のものだった。
数日後。
なるは自宅でスマートフォンを前にしていた。
画面には配信開始のボタンが表示されている。あとは押すだけなのだが、それだけのことがなかなかできない。
「……何喋ればいいんだろ」
誰もいない部屋で呟いた。
事前に何も考えていなかったわけではない。名前、俳優を目指していること、好きな食べ物や趣味、最近見た映画など、話せそうなことを紙にいくつか書き出してみた。
けれど、それだけで何十分も話せる気はしない。
「まあ……誰も来なかったら、すぐ終わればいいか」
そう自分に言い聞かせ、なるは配信開始のボタンを押した。
画面に自分の顔が映る。
「……あ」
もう始まっている。
「こんばんは……なるです」
返事はない。
視聴者数はゼロなのだから当然なのだが、誰もいない画面に向かって話し続けるというのは、思っていた以上に難しかった。
「今日から、その……配信を始めることになりました。俳優を目指してて、事務所の人に配信やってみたらって言われて……それで……」
そこで言葉が止まった。
「……何話せばいいんだろ」
開始からまだ一分も経っていないのに、早くも限界だった。
その時、視聴者数が一になった。
「……あ」
誰かいる。
誰だか分からない。でも今、自分の声を聞いている人がいるのだと思った瞬間、なるの背筋が伸びた。
「こ、こんばんは!」
慌てて挨拶すると、初めてのコメントが表示された。
『こんばんは』
「あ、こんばんは!」
思わず同じ言葉を返す。
続いて『初配信?』と表示されたので、なるはすぐに頷いた。
「そうなんです。今日初めてで……何したらいいか全然分からなくて」
正直に答えると、『頑張って!』と返ってきた。
たったそれだけの言葉なのに、なるは少しだけ安心した。
「ありがとうございます」
その人が質問してくれた。
俳優を目指しているのか。どんな作品が好きなのか。配信は毎日するのか。
なるが一つずつ答えているうちに、もう一人入ってきて、さらにもう一人増えた。視聴者数が三になったところで、なるは逆に緊張し始めた。
「え、待って。三人もいる」
『三人で驚くな』
「だって、さっきまでゼロだったんですよ!」
『そのうち百人来るかもよ』
「百人!?」
なるは本気で驚いた。
「無理無理無理。百人来たら喋れなくなる」
『俳優目指してるのに』
「それとこれとは別です!」
コメントが来れば、なるが返す。また別の言葉が届けば、そこから次の話が始まる。
一人でカメラに向かっていた時には何を言えばいいのか分からなかったのに、誰かから言葉が届けば、不思議なくらい返事ができた。
「皆さんは何してたんですか?」
今度は、なるから聞いてみた。
『仕事帰り』
『ご飯食べてた』
『暇だった』
「暇だったから来たんだ」
『悪い?』
「悪くないです。むしろありがとうございます」
そんなやり取りをしているうちに、気づけば開始から三十分が経っていた。事前に用意していた話題は、ほとんど使っていない。
最後に、なるは少しぎこちなく画面へ手を振った。
「今日はありがとうございました。また……やると思います」
『そこは明日もやりますって言え』
「まだ決めてないもん!」
そう返しながら、なるは笑っていた。
配信を終了すると、部屋が急に静かになった。
さっきまで画面の向こうに人がいたのに、今は自分一人しかいない。その急な静けさが何だか不思議で、なるはしばらく暗くなった画面を眺めた。
「……変な感じ」
でも、思っていたより嫌ではなかった。
むしろ、少し楽しかった。
翌日、なるはまた配信開始のボタンを押した。
「こんばんは。なるです」
しばらくすると、前日に来てくれた人が一人、また入ってきた。
『今日も来た』
「あ、本当に来てくれた!」
それだけのことが、思っていた以上に嬉しかった。
三日目も配信した。
四日目も。
そうしているうちに、「試しにやってみる」だったはずの配信は、いつの間にか「今日もやる」に変わっていた。
毎日同じことを話すわけではない。というより、同じ話をしようと思っていても、コメントによって話題はまったく違う方向へ転がっていく。
ある日は映画の話になった。
「その映画、知らないです」
なるが素直に言うと、コメント欄からすぐに反応が返ってきた。
『有名だよ』
「え、そんな有名なの?」
そこから昔の映画の話になり、さらに昔のドラマへと話が広がっていく。知らない俳優の名前まで出てきて、なるは思わず画面を覗き込んだ。
「ちょっと待って。誰?」
『知らないの?』
「知らないから聞いてるの!」
また別の日には、地方の食べ物の話になった。
「それ何? 甘いの?」
『しょっぱい』
「見た目絶対甘いやつじゃん!」
『勝手に決めるな』
「だって名前が甘そうなんだもん」
仕事の話を聞くこともあった。
なるの知らない職業があり、知らない業界がある。夜勤のある人もいれば、朝が早い人もいるし、土日が休みではない人もいる。
音楽やスポーツ、学校、食べ物、言葉の意味。なるが知らないことを誰かが教えてくれたし、分からないことがあれば、なるも分かったふりをせずに聞いた。
「へえ、知らなかった。それってどういう意味?」
そう聞けば誰かが答えてくれるし、別の人が違う意見を出すこともある。そこからまた新しい話が始まっていった。
いつの間にか、なるは配信前に「今日は何を話そう」と悩むことが減っていた。
全部の話題を自分で用意する必要はない。
画面の向こうにいる人の言葉を受け取れば、そこから話が始まるのだと分かってきたからだ。
少しずつ、何度も来てくれる人も増えていった。
「あ、昨日も来てくれた人だ。こんばんは。今日仕事だった?」
名前だけでなく、前に話したことも少しずつ覚えるようになった。以前聞いた話を覚えていると相手が喜んでくれることも知ったし、初めて来た人には「初めまして。なるです。俳優目指してます」と自然に挨拶できるようになった。
最初の頃のように、誰かが入ってくるたびに固まることもなくなっていた。
それでも、俳優の仕事は簡単には増えなかった。
オーディションを受けては落ち、また受けては落ちる。
ある日、少し期待していたオーディションの不合格通知が届いた。
絶対に受かるという自信があったわけではない。それでも今回はいけるかもしれないと、心のどこかで少し期待していた。
スマートフォンに届いた通知を見たあと、なるはしばらく何もする気になれなかった。
その日の配信時間が近づいても迷った。
今日は休もうかな。
元気に話せる気がしない。
そう思ったものの、結局なるはいつもの時間に配信を始めた。
「こんばんは」
いつもより声が低かったらしい。すぐに『元気ない?』とコメントが来た。
「分かる?」
『分かる』
なるは少し迷った。
笑ってごまかすこともできたが、口から出てきたのは違う言葉だった。
「今日ね、オーディション落ちました」
コメント欄の空気が少し変わった。
『そっか』
『残念だったね』
『次だ次』
『今日は落ち込んでいいんじゃない?』
「……うん」
励まされると、逆に泣きそうになった。
「なんかさ、俳優になりたいって言ってるのに、全然仕事ないし。配信では俳優目指してますって言ってるけど、本当になれるのかなって思う時ある」
少しだけ、本音が出た。
すると、『別に偉そうには言ってない』というコメントが流れた。
なるは思わず笑った。
「そこ?」
『むしろ毎回ちょっと自信なさそう』
「それはそれで嫌なんだけど!」
少し笑えたところで、別のコメントが続いた。
『でも受けないと受からないからな』
なるはその言葉を読んだ。
「……そうだね」
当たり前のことだった。
けれど、その当たり前を誰かに言ってもらうだけで、少し違って聞こえる。
『また受ければいいよ』
「うん。また受ける」
配信を始める前より、ほんの少しだけ気持ちが軽くなっていた。
数日後。
演技レッスンで、講師から不意に言われた。
「最近、ちょっと変わったね」
なるは驚いて顔を上げた。
「え?」
「前より相手の台詞を受けるようになった」
最初は意味が分からなかった。
「受ける……ですか?」
「前は自分の台詞を言うことに意識が行きすぎてた。最近は相手が何を言ったかを聞いて、それから反応してる感じがある。表情も少し柔らかくなったし」
なるには、特別な練習をした覚えがなかった。
発声や台本の読み方は以前から練習している。最近になって新しく始めたことといえば、一つしか思い浮かばない。
「……配信?」
思わず口に出した。
講師は首を傾げた。
「配信?」
「いえ、なんでもないです」
帰り道、なるはそのことを考えていた。
配信には台本がない。
何を言われるか分からないし、自分が知らない話をされることもあれば、予想していなかった質問が飛んでくることもある。だから、まず相手の言葉を読まなければ返事ができないし、最初から自分の答えを全部用意しておくこともできない。
――それって、演技にも似てるのかな。
台本には台詞が書いてある。
けれど、相手の台詞を本当に聞かず、自分の台詞を言うことだけを考えていたら、それは会話にはならない。
事務所の担当者が最初に言っていた言葉を思い出した。
――台本のないところでどう喋るかっていうのも勉強になるから。
「ああ……こういうことか」
少しだけ分かった気がした。
その日の夜も、なるはいつものように配信を始めた。
「こんばんは」
コメントが流れてくる。
「あ、昨日の続き? どうなったの?」
誰かの話を聞いて、驚いたり笑ったりする。知らないことなら聞けばいいし、自分の話をしたくなったら、それも話せばいい。
配信を始めた頃、画面の向こうには誰もいなかった。
何を話せばいいのか分からず、一分もしないうちに言葉がなくなった。それが今では、画面の向こうには一人ひとり違う生活をして、違うことを考え、なるの知らないことを知っている人たちがいるのだと分かっている。
そして、その人たちの言葉を受け取ることで、なる自身も少しずつ変わり始めていた。
「じゃあ、今日はそろそろ終わります。今日もありがとう。また明日ね」
『また明日』
『おやすみ』
『明日も来る』
「うん。おやすみ」
なるは笑って手を振り、配信終了のボタンを押した。
画面が暗くなる。
俳優を目指すなるの日々は、まだ何も始まっていないように見えるかもしれない。大きな役をもらったわけでもないし、有名になったわけでもない。配信だって、まだ小さな場所だけど、それでもなるは、少しずつ変わり始めていた。
知らない誰かの言葉を聞き、それを受け取って、自分の言葉を返していく。そんな何気ない積み重ねも、いつか自分の演技につながっていくのかもしれない。
画面の向こうには、人がいる。
そしてなるは、その画面の向こうで、少しずつ育ち始めていた。
配信アプリで配信を見てるうちに浮かんだ物語です。




