第五話 魔王軍の四天王、温泉に入る
「私は、魔王軍四天王――」
黒いローブの少女は、一度言葉を切った。
「【黒炎の魔女】ネルフィア」
その名前を聞いた瞬間。
村人たちの顔から笑顔が消えた。
「魔王軍……」
「四天王……?」
「嘘だろ……」
当然だ。
魔王軍四天王。
この国では、子供でも知っている存在だ。
王国軍の将軍と同等。
いや。
一人で一万の兵を相手にできるとまで言われている。
そんな人物が。
なぜ、この小さな村に?
「安心してください」
ネルフィアは両手を上げた。
「今日は戦いに来たわけではありません」
「じゃあ、何しに来た?」
俺が聞く。
ネルフィアは温泉を指差した。
「――あれに入りに来ました」
「……温泉?」
「はい」
あまりにも堂々と言われて。
俺は少し拍子抜けした。
「四天王が?」
「四天王も温泉には入ります」
「そういうものなのか?」
「魔族だって肩は凝ります」
「……そうか」
妙に現実的だった。
だが。
グラウはネルフィアをじっと見ている。
『主』
「なんだ?」
『やはり、あの女は呪われている』
「……」
ネルフィアの表情が、一瞬だけ変わった。
「……さすが聖影狼」
グラウが唸る。
『我を知っているのか』
「もちろん」
ネルフィアは苦笑した。
「元・呪狼グラウ」
「有名なのか?」
「有名どころではありません」
ネルフィアは真顔になった。
「魔族領では、災害そのものとして知られていました」
グラウが鼻を鳴らす。
『昔の話だ』
「今は?」
『主の従魔だ』
「……」
ネルフィアが俺を見る。
「本当に……従魔にしたんですね」
「うん」
「災害級を?」
「うん」
「あなた、何者ですか?」
「ただの元・鑑定士」
「……」
ネルフィアは黙った。
たぶん信じていない。
俺も逆の立場なら信じない。
「それより」
ネルフィアが温泉を見る。
「入ってもいいですか?」
「いいけど」
俺は温泉を指差した。
「ただし、何が起きても知らないぞ」
「覚悟しています」
ネルフィアはローブを脱いだ。
中には黒い簡素な服。
それも脱いで。
「ちょっと待って」
俺は慌てて背を向けた。
「男の俺がここにいるのはまずいだろ」
「……?」
ネルフィアが不思議そうな声を出す。
「魔族はあまり気にしませんが」
「俺が気にするんだよ!」
俺はその場を離れた。
しばらくして。
「……入ります」
ネルフィアの声が聞こえた。
チャプン。
湯に身体を沈める音。
「…………」
静かになった。
「どう?」
俺が聞く。
返事がない。
「ネルフィア?」
「…………」
「おい、大丈夫か?」
振り返る。
ネルフィアは――
湯船の中で目を閉じていた。
そして。
「……あぁ」
小さな声を漏らした。
「これは……」
「?」
「危険です」
「え?」
「危険すぎます」
ネルフィアが目を開く。
「こんなものを魔王城に持ち帰ったら……」
ゴクリ。
「魔王様が仕事をしなくなります」
「……」
「四天王も仕事をしなくなります」
「……」
「魔族全員がここに移住します」
「そこまで?」
「はい」
ネルフィアは真剣だった。
「これまで私は、何千種類もの薬湯や回復魔法を試しました」
「うん」
「どれも一時的な効果しかありませんでした」
「……」
「ですが、この湯は違う」
ネルフィアが自分の手を見る。
その手には、黒い紋様が浮かんでいた。
魔族の呪印。
それが――
少しずつ薄くなっている。
「……消えてる」
「何が?」
「呪いです」
ネルフィアの声が震えた。
「私が生まれたときから持っていた呪い」
俺は彼女の身体を見る。
確かに。
黒い紋様が、消えていく。
「これ、治るのか?」
「わかりません」
ネルフィアは首を振る。
「今まで誰にも治せませんでした」
「でも、今は?」
「……」
ネルフィアは目を閉じた。
そして。
「温泉に入っているだけで、治っています」
俺は温泉を見る。
「……すごいな」
「すごいなんてものじゃありません」
ネルフィアは笑った。
「これは奇跡です」
その瞬間。
温泉が淡く光った。
「え?」
ネルフィアの身体から、黒い煙が噴き出す。
「ぐっ……!」
「ネルフィア!」
「大丈夫……です!」
黒い煙が空へ昇っていく。
それは蛇のように蠢き――
やがて消えた。
「…………」
ネルフィアは、自分の身体を確認する。
そして。
涙を流した。
「……ない」
「何が?」
「呪いが……ない」
彼女は自分の胸元を見る。
「生まれてからずっとあったのに」
涙が頬を伝う。
「……初めて」
ネルフィアは笑った。
「身体が軽い」
その瞬間。
【鑑定】
俺はネルフィアを調べた。
【名称:ネルフィア】
【種族:魔族】
【職業:黒炎の魔女】
【状態:呪い解除】
【魔力:測定不能】
【特殊スキル:黒炎・魔力支配・???】
【備考】
【本来の潜在能力が解放されました】
「…………」
俺は絶句した。
呪いで力を抑えられていた?
つまり。
今のネルフィアは――
「さらに強くなったのか?」
「……そうみたいですね」
ネルフィアが立ち上がる。
その瞬間。
ドンッ!
周囲の空気が震えた。
魔力だけで地面が揺れる。
村人たちが慌てて逃げる。
「ネルフィア!」
「すみません!」
ネルフィアが慌てて魔力を抑える。
「これは……」
俺は思わず笑った。
「温泉ってすごいな」
『主』
グラウが俺を見る。
「なんだ?」
『違う』
「何が?」
『温泉がすごいのではない』
グラウは温泉を見る。
『主が作った温泉が、おかしい』
「……」
俺は何も言えなかった。
たしかにそうだ。
普通の温泉なら。
四天王の呪いを消すなんてできない。
俺は改めて【設定変更】の能力を確認する。
【設定変更】
【権限レベル:1】
【現在変更可能な対象】
・物質
・環境
・生命体
・契約
・因果
「……因果?」
見慣れない項目があった。
「なんだこれ」
俺が触れようとした瞬間。
【警告】
【権限レベルが不足しています】
【この機能を使用すると世界法則に干渉します】
「…………」
俺はそっと画面を閉じた。
まだ使わない方がいい。
絶対に。
ネルフィアが温泉から上がる。
そして俺の前まで歩いてきた。
「カイル様」
「ん?」
「お願いがあります」
「何?」
ネルフィアは深く頭を下げた。
「この温泉を――」
嫌な予感がした。
「魔王様にも入らせていただけませんか?」
「……魔王?」
「はい」
ネルフィアは真剣な顔をしている。
「魔王様も、私と同じ呪いを持っています」
「……」
「いえ」
ネルフィアは首を振った。
「私より、遥かに重い呪いです」
俺は黙った。
「魔王様は、その呪いのせいで――」
ネルフィアが言葉を続ける。
「あと三年しか生きられません」
「……三年?」
「はい」
空気が変わった。
「魔王様は、その事実を誰にも話していません」
「どうして?」
「魔王軍が動揺するからです」
ネルフィアは俺を見る。
「だから、魔王様は自分が死ぬまで戦争を続けるつもりです」
「……」
「ですが」
ネルフィアは温泉を見る。
「この湯なら」
希望を込めた目だった。
「魔王様を救えるかもしれません」
俺はしばらく黙っていた。
俺は王国のことなんて知らない。
魔王軍のことも知らない。
戦争なんて、どうでもいい。
ただ。
目の前で苦しんでいる人間や魔族を見捨てることはできなかった。
「……いいよ」
「!」
「魔王を連れてきても」
ネルフィアの目が大きく開く。
「本当ですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「温泉くらい、誰でも入っていい」
「……ありがとうございます!」
ネルフィアが深々と頭を下げる。
その横で。
グラウが静かに呟いた。
『主』
「なんだ?」
『これで魔王が来るぞ』
「そうだな」
『王国も黙ってはいない』
「……そうだな」
『戦争になるかもしれない』
「……」
俺は温泉を見る。
白い湯気が、青空へゆっくりと昇っていく。
「俺は――」
俺は小さく呟いた。
「ただ、温泉に入りたいだけなんだけどな」
その日の夜。
王都では。
「魔王軍四天王ネルフィアが、消息を絶った!」
という報告が入った。
そして魔王城では。
「ネルフィアから通信です!」
「何と言っている?」
魔王が聞く。
通信魔法に映ったネルフィアは――
満面の笑みを浮かべていた。
『魔王様』
『最高の温泉を見つけました』
「…………」
『今すぐ来てください』
「ネルフィア」
『はい』
「仕事は?」
『全部忘れました』
「…………」
魔王は頭を抱えた。
だが。
次の瞬間。
彼女の顔から笑みが消える。
『それと――』
「なんだ?」
『私の呪いが、消えました』
「…………」
魔王の表情が変わった。
「……詳しく話せ」
『はい』
ネルフィアは答える。
『私を救ったのは――』
その名前を聞いた瞬間。
魔王は目を見開いた。
『カイルという男です』
「……カイル?」
その名前は。
王都で勇者パーティーから追放された男と――
同じ名前だった。




