第4話 日常
絶望の淵で現れた光であるユアに相応しい男になりたい。そのためには強い魔法師になる必要がある。
新たな目標を見つけたセイヤはそれまでとは目の色が違った。
就寝前には肉体を作るためのトレーニング、朝はいつもより早く起きてランニングを始めていた。そして学園ではこれまで以上に精を出して学問に勤しんでいる。特に不得意な魔法の実技でも自分にできることを考えて試行錯誤していた。
普段からセイヤに無関心の周りは変化に気づいていないが、ずっと一緒にいるユアだけはセイヤの努力を知っている。本当に少しずつではあるがセイヤは目標に近づいていた。
「今日も走るの……?」
「うん、早くユアに相応しい男になりたいからね」
それはまだ太陽が地平線に姿を現し始めた冷えた早朝のことであった。いつものようにランニングへ向かおうとしたセイヤの前にユアが姿を現す。その服装は動きやすい運動着であり、セイヤはすぐにユアの思惑を理解した。
「私も行く……」
セイヤが本格的にトレーニングを始めてから一週間が経とうとしている。まだ目に見えた成果が出ていない段階だが、ユアが同行を申し出る。
「僕はいいけど大丈夫?」
「多分……」
この一か月、同じ屋根の下に暮らし始めてセイヤにもわかったことがある。
それはユアが朝にとても弱いということだ。いつもギリギリまで寝ているユアがセイヤよりも先に起きていることは非常に珍しい。
普段は制服に着替えたセイヤが部屋まで起こしに行って寝ぼけたユアの着替えを手伝わされるまでがお決まりなのだが、今日のユアは既に着替えも済ましている。
(そういえば最近ベッドに潜り込んでくる回数が少なかったような……)
セイヤが居候を始めたての頃は朝起きたらベッドにユアがいたということは日常茶飯事であった。心臓にも家族にも悪いから控えるようにと言っても、ユアは寝ぼけて間違えてしまったというだけで改善することはなかったのだが、二週間ほどが経つと次第に頻度は減っていた。
それでも三日に一回の割合で起床時にユアがいたのである。ところがトレーニングを始めてからは一回も潜り込んでは来なかった。そればかりか夜も早くベッドに入るようになっていたのだ。
ユアはセイヤの袖を掴むと僅かに口角を緩ませる。
「これで朝も一緒……」
セイヤがユアの言葉に笑顔で応えると二人は朝焼け街に繰り出すのであった。
それはとある夜のことであった。
セイヤが自室で一冊の本を読んでいると扉がノックされる。この時間にセイヤの部屋を訪れる来客は一人しかいない。
ノックの主はセイヤの返事も効かずに扉を開けると姿を現す。
「どうしたの、ユア」
「明日の予習をしにきた……」
ユアの手にはセイヤが読んでいたものと同じ表紙の本があった。その本は学園の座学で使われる参考図書である。
「なら一緒に読もうか」
「うん……」
返事をするとユアは部屋の中へと入る。そして椅子に座って本を読んでいたセイヤの膝の上へと腰掛ける。
「えっと、ユア?」
「なに……?」
「椅子は空いているよ?」
「知っている……」
セイヤの部屋には来客を応接する大層な椅子は準備していないが、普通の椅子は完備している。しかしユアは普通の椅子には目もくれずにセイヤの膝の上へとやってきた。
「いや……?」
膝の上に腰かけたユアが見上げるように聞いてくる。
「別にいやって訳じゃないけど……」
「なら問題なし……」
ユアは一人で納得すると持ってきた本を開いて読み始めてしまう。セイヤは困ったような表情をしたが、仕方がないと自分の読書に戻る。
こうして二人の間には紙をめくる音だけが聴こえるのであった。
それは学園での事であった。
セイヤがトレーニングを始めたのと時を同じくして、ユアにもある変化が訪れたセイヤの変化とは対照的に学園中がユアの変化に気づいていた。
そもそもユアはセナビア魔法学園でも有名人である。
特級魔法師一族でありながら自身も上級魔法師の称号を持つ実力者であり、その優れた容姿からも注目度は高い。さらに魔法学園では珍しい留学生ということでユアに近づきたい学生は男女問わず多かった。
しかし入学早々にセイヤと行動を共にすることが多かったためか、未だにユアに近づくことができた者は存在しない。片や学園中から羨望の眼差しを向けられる由緒ある家柄の実力者と、片や学園中から忌避される何も持たないアンノーンという組み合わせは控えめに見ても浮いていた。
それまでセイヤに無関心だった者たちの中にはユアの一件で負の感情を抱く者たちもいたくらいである。ただしザックたちと違って直接的な行動に出る者がいないことは幸いであった。
そんな凸凹コンビに変化が訪れたのだ。
学園の生徒たちなら誰もが感じていた。ある日を境にユアがセイヤに近づきすぎているということを。
それまでもユアはセイヤの隣を歩くことが多かったが、常に行動を共にしている訳ではなかった。授業の専攻で離れることや、実習で違う班に割り振られることもあり、一日の三割ほどは別行動をしていた。
しかし最近は専攻別の授業や班分け実習でもセイヤから離れない。ユアは常にセイヤと行動を共にするようになっていたのだ。そればかりか物理的にも近づいていた。
ユアは四六時中セイヤの腕に抱き着く形で行動をしており、その姿はお気に入りのぬいぐるみを絶対に手放さない女児のようにさえ見える。周囲には二人の変化を見て邪推する者たちもいたが、二人に話しかける者は出てこないため真相は明かされていない。
ただユアの変化に一番困っていたのはセイヤであった。
「あの、ユアさん」
「なに……?」
「そんなにくっつかれると入れないんだけど?」
セイヤは自分の右腕に抱き着いているユアに戸惑いながら尋ねる。しかしユアは構わず歩みを進めようとした。
「気にしないで……」
「いや、ここ男子トイレだから!」
二人が立っている場所は学園の廊下であるが、目の前には男子トイレがある。周囲から好奇の目を向けられてセイヤが困惑する。
「でもセイヤ……一人になると虐められる……」
ユアは自らが隣にいることでザックたちへの抑止力になろうとしていた。現にザックたちはユアがいる場所ではセイヤに絡んでこない。
特級魔法師一族でありながら上級魔法師でもあるユアの前ではザックたちの掲げる大義名分も無意味になってしまうためだ。
「僕を守ってくれるのはうれしいけど、トイレくらい一人でできるから!」
「私は気にしない……」
「僕が気にするの!」
この世界で女子を片手に用を足せる思春期の男子が一体どれほどいるのだろうか。
「セイヤは気にしすぎ……」
「それは気にするよ!」
「もうお風呂で観られているのに……」
「それは!」
突然投下されたユアの爆弾発言に周囲がざわつく。
「聞いたか?」
「一緒にお風呂入ってるって」
「嘘だろ!?」
「そんな……ユアさんが男子と一緒にお風呂なんて……」
ざわつき伝播していく。
セイヤは知っていた。こういう話は尾ひれがついてあらぬ方向へ有り得ない話になって広がっていると。今さら否定したところで騒ぎは収まらないだろう。
「わかったよ、ユア。そのことは後で話し合おう」
「じゃあ早く行こ……」
「トイレは僕一人で行くから。ユアはここで待っていて」
少しだけ強い口調で懇願をしたセイヤにユアは不満げな表情を見せた。しかしこれ以上のやりとりは逆にセイヤを困らせてしまうと思い、ユアはひとまず身を引くことにした。
周囲では「お、破局か?」などという声が聞こえてきたが、セイヤは聞こえないふりをして男子トイレの中へと姿を消した。
その後ろ姿をユアは不満そうに見つめるのであった。
トイレに入り、ようやく一人になったセイヤは溜息をついた。そしてセイヤの溜息に反応するかのように誰かの声が発せられる。
「よう、アンノーン。待ってたぜ」
そこにはセイヤのことをニタニタと見つめるザックたちの姿があるのであった。
今日は5話まで更新します。