【転校生と青蛙】5
「……水流さん、よかったのか? あいつらと一緒に行かなくて」
「うん……ちょっと、疲れちゃった……から」
夜の8時を過ぎ、暗い影を落としている学校へと向かう伊南さんと葵の後ろ姿を見ながら問いかける。
雨福さんとは校門の傍で下ろしてもらい、車を見送ってから僕達も解散した。
車から降りる直前、雨福さんに呼び止められた時はさすがに身の危険を感じたけどな。
雨福さんは親父の息子である僕のことがどうにも気になるらしくて、僕の手を両手で掴んで『ワタシの息子のお嫁さんになって欲しいアル!』とわけのわからないことを言っていたから慌てて逃げてしまった。会ったこともない息子の嫁になんかなれるか。そもそも僕は嫁じゃないし。
「楓くん……今日は……ありが、とう」
「えっ?」
未だに手に残る雨福さんのしっとりとした手の感触が忘れられなくて身震いをしていた僕に、水流さんが声をかけてくる。
「その……私を、部活に誘ってくれて……嬉し、かった……」
暗がりでよく見えないけど、水流さんははにかむように笑った。
「私、もう帰る……ね。楓くんも気をつけて」
「ああ、水流さんも」
今は夜の8時過ぎ。さすがに家のそばまで送った方が良いだろうか。でも男と2人きりで歩くのは抵抗があるだろうしな……。
そんなことを考えながら返事をした僕の前で、不意に水流さんが立ち止まる。
「え、と……」
言い淀んだ様子の水流さんは、小さく息を吸い込んでから震える声で言った。
「私のことも、さゆって……呼んで?」
水流さんが、ぎゅっとスカートの端を握る。その手が小さく震えている。
「わかったよ……さゆ。また明日」
何だかちょっと気恥ずかしいな……。僕の照れくさい気持ちを感じ取ったのか、さゆは目を丸くしてから今度こそ沸騰しそうなくらい顔を赤らめ、大きく頭を下げてすぐに駆け出していった。
女の子を呼び捨てで呼ぶなんて初めてだったせいか、ちょっとドキドキする。
いつまでもこんなところに居ないで早く帰ろう……。僕は駅の方角に向かって歩きだそうとしたが、どこからか不気味な声が聞こえて立ち止まった。
『こっちに、来い──』
ざわ、と全身が総毛立つ感覚。
すぐさま振り返った僕は、やがて声の正体に気づくとため息をついて学校の門を潜った。
「水くらい自分でやったらどうなんだ、お前」
じょうろで花壇へ水をやるついでに、年季の入った木の根元に水を注ぐ。
すっかり花は落ちてしまったが青々とした葉っぱは健在だった。
「うるさいわね……園芸部でしょ」
「園芸部じゃない。オカルト研究部員だ」
木の幹に寄りかかっている少女が唇を尖らせてそっぽを向く。
緑色のスカーフを付けた制服姿の少女、椿女こと、姫野椿。
椿の木の精霊を自称する妖怪だ。
「ねえ、それ何?」
椿女が僕の手に下げた袋に目をとめて訝しげに問いかける。
「水着だよ、明日からプール開きなんだ。冥鬼の分も買った」
「へえ……」
そう言った椿女は、何か含みのある様子で水着を眺めていた。
「……何だよ」
「別に。あんた本当センスないわね」
……き、聞くんじゃなかった。
椿女は僕を傷つけたことなんかこれっぽっちも気にしていない様子で木の幹に背中を預ける。
「それより……さっき校門の前で女の子といい感じだったみたいだけど、あんまり得体の知れない奴に近づくのは感心しないわ」
「さゆは別に得体の知れない奴なんかじゃ……」
言い返すつもりはなかった。けれど椿は、親の仇でも見つけたような顔で僕を睨む。
「あんた、陰陽師狩りに狙われてるのよ。少しは他人を疑いなさい。もちろん友人だって例外じゃないわ」
「僕に友達を作るなってことか?」
「まあそれが一番手っ取り早いかしらね」
……何だそれ。僕は少しムッとして、じょうろをひっくり返して木の根元にかけてやった。
すると、驚いた椿女が慌てて木から離れる。
「きゃあっ! つ、冷たいじゃないっ!」
「水が欲しいって言ったのはそっちだからな」
カラになったじょうろを片付ける僕の後ろから、椿女の恨み言が聞こえてきた。
「何よ、柊に似てかわいくないわね!」
不機嫌そうな椿女を放って視線を焼却炉へ向けると、そこには見慣れない石の板があった。
葵が言ってたのはこれのことだろうか。
「本当に石の板だ……何だろうな、これ」
石の板を眺める僕の後ろで椿女の小さな足音が聞こえる。
「まるで人為的に折られたみたいね」
「こ、怖いこと言うなよ……」
僕はその石の板に近づいて、文字なのかひび割れなのかよくわからない模様を指でなぞった。
「……ん、待って。これってもしかして……」
ふと、椿女が僕の傍で小さな声を上げる。
その時だった。
「きゃああああッ!!」
突然、絹を裂くような悲鳴が聞こえた。
間違いない──伊南さんの声だ。
「へ、変質者か!?」
「何ビビってるのよ……男のくせに」
突然響いた悲鳴に驚いて思わずひっくり返った声を上げる僕に、椿女は呆れたようなため息をついてからやにわに僕の腕を掴んだ。
「な──何を……」
「勘違いしないで。このあたり一帯は私の縄張りなの。不審者が居るなら養分にしてやるんだから」
そう言った椿女は僕の腕を引っ張ると校舎の間を抜けて悲鳴があった方角へ向かう。
そこは伊南さんと葵が居るはずのプール。明日から体育の授業でようやく解放される場所だ。
「か、楓くんッ!」
伊南さんが悲鳴に近い声で僕を呼ぶ。
買ったばかりの水着を濡らしてプールサイドで震えていた。
「伊南さん、大丈夫か!? 何があったんだ?」
「あ、あた……あたしッ……」
伊南さんはぶるぶると震えたままプールを見下ろす。
彼女の視線を追うように暗がりのプールを注意深く見回すけれど、そこで妙なことに気づいた。
葵の姿がどこにもないのだ。
「伊南さん、葵は……?」
「……っない、わかんないよ、うそっ……どうして葵が……! 葵は関係ないのにっ!」
伊南さんはヒステリックに叫んで座り込んでしまう。
僕は慌てて伊南さんを支えようと手を伸ばすが、椿女によって首根っこを掴まれてしまった。
「馬鹿、まずは現場検証が先」
「ぐっ……し、絞まってる……」
椿女は平然とした様子で空になったプールを覗き込む。
そこにはバラバラになったビート板が散乱しており、プールの壁──排水溝の蓋がぶち抜かれている。
「妖怪の仕業……いや、陰陽師狩りか?」
「さあね──」
椿女はそう言うと、座り込んだままぶるぶると震えている伊南さんに視線を移した。
「ねえ、ここで何があったの? 震えてちゃ何も分からないわよ」
「おい、伊南さんは怖い思いをしたんだからそんな……うぐっ」
そんな言い方しなくてもいいだろう、と言いかけた時、椿女に腹を殴られた。
思わず蹲る僕のことなどお構い無しに椿女が口を開く。
「あなたの友達──助けたくないの?」
「と、もだち……」
伊南さんは震えながら椿女を見つめると、プールに視線を向けた。
「あ、あたし……葵とプールに来て、あいつはビート板を持ち込んでプールの中に入ったんだ……あたしはそれを見てたんだけど」
伊南さんが一度口を噤む。彼女の唇は紫色になっていた。
「と、突然……すごい音がして、プールの下から大きな蛇が……出てきて、葵を丸呑みにしたの……。あのバカ、あたしのことを庇って……」
そこまで言った伊南さんは両手で顔を覆ってしまった。
僕と椿女は顔を見合わせる。
「蛇の妖怪、か……」
「犯人の心当たりはある?」
椿女は、まるで僕を試すかのように笑ってい。
「いや──まだ分からない。けど葵が心配だ……すぐにでも助けださないと」
僕はそう言って伊南さんに向き直る。
「伊南さん、葵は僕が必ず見つけるから……ここから離れてくれ」
「む、無理に決まってるじゃん!めちゃくちゃ大きな蛇だったんだよ!?楓くんに何が出来るのよっ!」
「大丈夫」
僕は伊南さんを落ち着かせるように、なるべく冷静に言い聞かせる。
「僕が必ず葵を助ける」
伊南さんは何かを言おうとして口を開きかけるが、やがて泣きそうな顔で頷いた。
「わかった……でも、あたしもついて行くから。楓くん一人にさせらんないよ」
「私も居るけど」
椿女が小さな声で告げる。伊南さんは慌てたように体を起こした。
「あ、えっと……すみません! あたし、一年の伊南朱音って言います!」
「……姫野椿。三年生よ。急に動かない方がいいわ」
椿女は、立ち上がろうとしてよろめく伊南さんの手を掴む。少し緊張した様子だった伊南さんは元気を取り戻したらしくて、次第にいつもの調子が出てきたようだ。
「姫野先輩と楓くんだけであんな化け物とやり合うなんて危険すぎるよ。二人はあたしが守るから安心して!」
「いや、僕達は……」
「いいじゃない、ついてきてもらえば」
「おい……!」
勝手なことを言うな、と言いかけた僕を椿が睨みつける。
「人間風情が私に口答えするつもり?」
「は、はい……」
僕はその目ヂカラに圧倒されて萎縮してしまう。
その間に、伊南さんはプールの掃除用具入れからモップを持ってきたようだ。
「何かあったらこれで二人を守る。だから早くあいつを助けに行こ」
「……わかった」
僕は頷きを返すと、他人事のような顔をしている椿女、そしてモップを持った伊南さんと共に夜のプールへと入る決意を固める。
敵が妖怪と分かっている以上、冥鬼も呼ばずに挑むのは得策じゃないかもしれない。
だけど……時間をこれ以上かけちゃダメだ。葵が……友達が捕まっているんだから。
(僕がやるしか、ない……)
僕は御札の仕舞われたケースを服の上から握りしめた。
それに──いざとなれば椿女が居る。だから大丈夫だと、僕は心のどこかで楽観視していた。
この先起きることなど知る由もなかったんだ。




