第一章 ゲームの中では、少しだけ強かった
朝、目覚まし時計が鳴るより少し前に、悠真は目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗い。
カーテンの隙間から入ってくる光も、朝というより夜の続きのようだった。
布団の中でしばらく天井を見てから、悠真は手を伸ばした。
机の上に置いてあるゲーム機の画面を確認する。
昨夜、途中で眠ってしまったせいで、充電ケーブルがきちんと差さっているか気になった。
残量は八十三パーセント。
「よし」
小さく呟いて、悠真は布団から出た。
「悠真ー。起きてる?」
ドアの向こうから母親の声がした。
「起きてる」
「なら、早く着替えて。朝ご飯できてるよ」
「分かった」
そう返事をしながら、悠真はもう一度ゲーム機を見た。
起動するつもりはなかった。
ただ、見ただけだった。
それでも画面を一度触る。
昨日の戦闘結果が表示されていた。
チーム戦。
勝利。
個人評価、最高ランク。
そして、その下に小さく表示された文字。
――MVP。
悠真は少しだけ笑った。
学校では、特別目立つほうではない。
勉強ができないわけでもない。
できるわけでもない。
体育も普通。
走るのも普通。
友達もいる。
いないわけではない。
ただ、何か一つだけ誰にも負けないものがあると聞かれたら、悠真は迷わず答えられた。
ゲームだった。
特に、今世界中で流行しているこのゲーム。
正式名称は長いので、みんな単純に「クロスギア」と呼んでいる。
人型機動兵器を操り、都市や荒野、宇宙ステーションなど、さまざまな戦場で戦うオンラインゲームだ。
単純な対戦ゲームではない。
機体ごとに性能が違う。
武器にも癖がある。
地形によって有利不利が変わる。
仲間との連携も必要になる。
強い機体を持っているだけでは勝てない。
だから悠真は好きだった。
勝てない相手がいると、どうして勝てないのかを考えられる。
一度負ければ、次に試せる。
二度負ければ、別の方法を試せる。
三度負けても、まだゲームは終わらない。
現実とは違う。
失敗しても、もう一度始められる。
「悠真!」
「今行く!」
母親の声に急かされ、悠真はゲーム機を机に戻した。
階段を下りる。
食卓にはトーストと卵、それから小さなサラダが置かれていた。
「おはよう」
「おはよう。今日は早いね」
「目が覚めた」
「珍しい」
母親は笑いながらコーヒーを飲んだ。
悠真は椅子に座る。
「昨日、また遅くまでゲームしてたでしょ」
「してない」
「その返事の速さが怪しいんだけど」
「十一時前には寝た」
「十一時前は小学生には遅いの」
「でも、昨日はイベントが……」
「イベントより睡眠」
母親は即答した。
「明日からもっと早く終わらせる」
「その言葉、先週も聞いた」
「今週は違う」
「どう違うの?」
「……気持ちが違う」
「それは一番信用できないやつ」
悠真は笑った。
母親も笑った。
特別な朝ではなかった。
世界中で何かが起きているわけでもない。
誰かが世界を救っているわけでもない。
ただの平日の朝だった。
悠真にとっては、それが普通だった。
学校へ行って。
授業を受けて。
友達と話して。
家に帰って。
宿題をして。
それからゲームをする。
それだけだった。
少なくとも、その日の朝までは。
*
放課後。
悠真は家に帰ると、ランドセルを床に置いた。
「ただいま」
「おかえり。手を洗って」
「分かってる」
「宿題は?」
「先にやる」
「本当?」
「本当」
母親は少し疑うような顔をした。
「じゃあ、終わったらゲームしていいよ」
「うん」
悠真は自分の部屋に入った。
宿題を机の上に広げる。
国語。
算数。
昨日なら先にゲームを起動していたかもしれない。
でも今日は違った。
昨日の戦闘で、一つ気になっていることがあった。
敵の動きだ。
あの機体は、最後の三十秒だけ動き方が変わった。
最初は単純な接近攻撃。
次に遠距離射撃。
そして最後。
味方の一機を追い込んだところで、突然攻撃を止めた。
あれが偶然なのか。
それとも、何か条件があったのか。
悠真には分からなかった。
だから、もう一度試したかった。
宿題を終わらせる。
ノートを閉じる。
「終わった」
リビングから母親が顔を出した。
「本当に?」
「見て」
悠真がノートを渡す。
母親はざっと確認した。
「……今日はちゃんとやったね」
「だから言ったでしょ」
「じゃあ、一時間だけ」
「二時間」
「一時間半」
「……一時間半」
「よし」
許可が出た。
悠真はすぐに部屋へ戻った。
ゲーム機を起動する。
ログイン。
いつもの画面。
いつもの音。
見慣れた機体が格納庫に並んでいる。
その中の一機を選択する。
「今日はこれ」
昨日の戦闘で使った機体だった。
画面が切り替わる。
チームメンバーが集まり始める。
知らないプレイヤー。
何度か一緒に戦ったプレイヤー。
それぞれ違う場所からログインしている。
誰も、現実の悠真を知らない。
誰も、悠真が普通の小学生だとは知らない。
彼らが知っているのは一つだけだった。
このプレイヤーは強い。
戦闘が始まる。
悠真は前に出た。
敵の射線を見る。
味方の位置を見る。
地形を見る。
そして、一歩だけ下がった。
味方の一人が叫ぶ。
『なんで下がるんだ?』
「来る」
『何が?』
「右」
次の瞬間。
建物の影から敵機が飛び出した。
『うわっ!』
味方が慌てて後退する。
悠真は横から回り込んだ。
敵機が振り向く。
撃つ。
避ける。
距離を詰める。
一発。
二発。
三発。
敵機が倒れる。
画面に表示が出た。
――撃破。
『今の読んでたの?』
「たぶん」
『たぶんって……』
悠真は笑った。
ゲームの中では、少しだけ強かった。
それだけだった。
特別な能力があるわけでもない。
未来が見えるわけでもない。
ただ、何度も遊んでいるうちに、相手が次に何をしたいのか、少しだけ分かるようになった。
だから勝てる。
それだけだった。
その夜。
悠真がゲームを終えようとしたときだった。
画面が突然暗くなった。
「……?」
通信障害かと思った。
しかし、すぐに画面中央に一つの表示が現れた。
普段のゲーム画面には存在しない。
赤い文字。
それだけだった。
――【緊急世界イベント】
悠真は瞬きをした。
続いて、もう一行。
――【ワールドボスが出現しました】
「……ワールドボス?」
そんなイベントは、今日の予定にはなかった。
いや。
今まで一度もなかった。
悠真が画面に手を伸ばす。
その瞬間。
母親の声が、部屋の外から聞こえた。
「悠真? まだゲームしてるの?」
「……うん」
「もう終わりにして寝なさい」
「分かった」
悠真は返事をした。
けれど、画面から目を離せなかった。
最後に、もう一つの通知が表示された。
――【現実世界におけるイベント同期を開始します】
悠真は意味が分からなかった。
数秒後。
スマートフォンが鳴った。
テレビも、同時にニュース速報を表示した。
母親の声が止まる。
「……悠真?」
部屋の外から聞こえてきた声は、さっきまでとは違っていた。
テレビから、ニュースキャスターの声が流れる。
『現在、東京湾上空において、正体不明の巨大物体が確認されています』
悠真は立ち上がった。
ゲーム画面には、まだ赤い文字が表示されている。
――【WORLD BOSS】
その下に、名前が表示された。
悠真はその名前を知っていた。
何度もゲームの中で戦った。
何度も攻略動画を見た。
何度も倒した。
だからこそ。
画面の向こうに映ったその姿を見た瞬間、悠真は言葉を失った。
「……嘘だろ」
ニュース映像の中で。
東京湾の水面を割って。
一体の巨大な機体が、ゆっくりと立ち上がった。
それは。
悠真が毎晩遊んでいるゲームの中にしか存在しないはずの機体だった。




