第4話
ユリカの朝食を口にし、飲み込む。
毎朝用意されている朝食。
なぜだか今日は、食べれる気がした。
食べれる気がして、食べてみたら、食べれた。
他の男に抱かれた手で作る料理なんて。
そう思っていたはずなのに。
「……吐かない、の?」
エプロン姿のユリカが僕の横に立ち、首をかしげながらも、吐かないことを確認してくる。
不思議そうな顔をしたユリカは、なんと表現したらいいのか分からない顔をしながらも、それでも僕が食べてくれることを喜んでいるように見えた。
なぜ吐かないのか。
それは、僕も彼女と同じぐらい穢れているから。
認識した途端、不思議と吐き気が止まった。
「良かった」
その笑顔の意味は、一体なんなのか。
聞けるはずもない質問と共に、ご飯を飲み込む。
☆
「そうか、じゃあ荒療治は成功したってことだな」
タバコの煙を美味しそうに吸い込むと、巻島は笑顔でそう言った。
「それじゃあ、治療も終わったってことで、花桐さんとの生活にもピリオドを打たないとだな」
花桐さんとの生活を終わらせる?
何をふざけたことをと笑いで返すと、彼は口に含んだ煙を僕へと向けて吐き出してきた。
「嫁さんの浮気を許す為に始めた遊びだろ? お前まで本気で浮気してどうするよ?」
「……遊び?」
「一瞬だけでも浮気をした、その事実は花桐さんと別れても消えないんだ。お前はそのことを胸に秘めたまま、嫁さんの浮気が終わるのを待ちわびれば良い。浮気なんて結局遊びなんだからよ、いつかは目が覚めるもんだ。目が覚めた後は、お前さんだけに尽くす、良い嫁さんに変化してると思うぜ?」
僕の肩を軽く叩くと、彼は二本目を口にする。
「別れるのが辛いってんなら、それほどまでに良薬だったってことだ。良薬口に苦しって言うだろ? 我慢してでも、飲み込んどいた方がいいと思うぜ?」
花桐さんと別れなくてはいけない。
言われてみれば、それは当然のことだ。
ただ、それは離婚をしない前提の話。
離婚を決意したのであれば、花桐さんと別れるなんて選択、出来るはずがない。
『先日はありがとうございました。来週は都内を散策しませんか? 有堂さんとなら、ただ歩くだけでも楽しいと思うんです。……ごめんなさい、素直に伝えますね』
一拍開けてから、送られてきた彼女の本音。
『私、有堂さんに会いたいです。とっても、会いたいです』
まるで少女のように書かれた文章に、僕は酔いしれる。
断るなんて選択肢は、僕には存在しない。
当然の如く了承のメッセージを送ると『良かった』とだけ返ってきて、そしてまた僕は笑みを浮かべてしまうんだ。
でも。
(ユリカと付き合ってた時も、こんな感じだったっけかな)
不意に頭に浮かんできたのは、六年くらい前、まだ彼女だった時のユリカとのやり取りだった。
届いたメッセージに一喜一憂して、僕もマメにメッセージを送って、返事が遅いと不安になって、彼女はそれを笑って。
(そういえば、いつからメッセージを送らなくなったんだろう)
僕達の間から、言葉が消えている。
それがいつからなのか、なぜ消えたのか。
見上げた空には沢山のウロコ雲があって、僕はそれを眺めながら、遥か彼方になってしまったユリカとの日々を、一人、思い馳せる。
それはまるで走馬灯のように。
浮かんでは消えていく、儚いものだった。
☆
「有堂さん」
僕を見つけるなり花桐さんは子犬のように駆け寄ってきて、そして目の前まで来ると立ち止まり、後ろ手にしながら恥ずかしげに視線を上げてくる。
「あの……、その……、ちょっと、恥ずかしいこと言って良いですか?」
どうぞ? と言うと、花桐さんは僕の手を両手で握りしめ、瞳を潤ませこう言った。
「凄く、会いたかったです」
耳まで真っ赤にさせながら出てきた言葉に、僕も一撃でKOされてしまった。
頭の天辺から足の爪先まで茹で上がった状態でデートをしてもいいのだけれど、僕達は世間様から見たら許されないことをしているんだ。
今日のデートは都内。
改めて、気を引き締めないと。
紅葉へと出かけた日から一週間、これで僕達は四週連続でデートをしている。
どれだけ鈍い人でも、さすがに勘ぐる。
ユリカの行動だって少しづつ変わってきている気がするし、花桐さんの旦那さんだって疑ってくるはずだ。
もしかしたら、本当に離婚するのではないか?
失うと理解した途端、その価値に人は気づく。
下手な行動をされる前に、僕達は行動した方がいいのだろうけど。
「私、お弁当作ってきたんです。都内でも広い公園って結構あって、そこだと小さいけどテントもレンタル出来るんですよね」
今はまだ、甘い時間を過ごしたい。
「人の目が気になるのは、何も私たちだけじゃないってことですよね」
だって、こんなにも花桐さんが素敵なのだから。
予定していた公園へと二人で向かうと、しばらく二人だけで散策し、まだ残る赤に染まる枝葉を眺める。
その後、僕達は予定通り、公園の管理所から小さなテントをレンタルした。
ワンプッシュで開く簡単な仕組みだけど、中に入れば大人二人は余裕で寝転べるし、出入り口のファスナーを閉めてしまえば、他からの視線は中まで届かなくなる。
予想以上に良いテントに、僕達は年甲斐もなく喜び、そして二人仲良くテントへと入り込んだ。
「本当なら、お弁当箱を用意するべきなのですけど」
申し訳なさげに花桐さんが肩下げのバックから取り出したのは、使い捨ての容器に詰められたお弁当だった。
僕達は浮気、不倫の関係なのだから、証拠が残るお弁当箱を用意する訳にはいかない。
別に気にしてないよと言うと、彼女は微笑み「ありがとう」と口にする。
その代わりと言ってはなんだけどと、僕は自分では箸を持たず、あーんと口を開いてみた。
「はい、あーん……、ふふふっ、なんだか学生時代に戻ったみたいですね。こんなことでも、有堂さんとだと胸がトキメイてしまいます」
それは僕も一緒だ。
自分からやっておいてなんだけど、本当にしてくれるとは思わなかった。嬉しくて座っていた膝を上下にパタパタしてしまうぐらいには、嬉しかった。
半分ぐらいお弁当を平らげたあと。
ふと、この前のことを思い出した。
「どうかしましたか?」
花桐さんは僕の変化にすぐに気づく。
とてもありがたい。
隠し事をしたくないのは、元々の性分だ。
「これまで食べられなかった奥様の料理を、食べることが出来た……のですか?」
コクリと頷く。
ユリカも僕も浮気をしている。
同じ土俵に上がったが故の変化。
そう、思っていたのだけど。
「多分、その理由は違うと思います」
花桐さんは真剣な眼差しのまま、僕へと告げる。
「有堂さんはもう、奥様を愛していないのだと思います」
「……僕が、ユリカを愛していない?」
「愛していないから、怒る理由も悲しむ理由も存在しない。執着心が無くなった……とでも言いましょうか。有堂さんの中ではもう、奥様は赤の他人に近い存在なのだと思いますよ」
ユリカが何をしても気にならない。
言われてみれば、その可能性の方が高い。
「だって、私も同じですから。旦那が何をしていようが、全然気になりません。ある日突然死んだとしても、涙の一滴も出ないと思いますよ」
言いながら、花桐さんは僕の首へと手を回してきて、そのまま唇を重ねてきた。
桜色のリップの味が僕の唇に残り、それをペロリと舐めると彼女は微笑み、さらにもう一度、上書きするように深く、ゆっくりと重ねてくる。
とても、愛にあふれるキスだった。
「有堂さんがいなくなったら、号泣じゃ済まないと思いますけどね」
離れたくない。
このまま一緒にいたい。
その想いは、日に日に増していくばかりだ。
☆
「おかえり」
帰宅すると、当然のようにユリカが僕を出迎える。
「ただいま」
社交辞令のような挨拶だけを交わし、そのまま風呂場へと向かおうとしたのだけど。
「ねえ、ちょっといい?」
急に、呼び止められた。
素直に従い足を止める、すると。
「明日、一緒にお出かけしない?」
「……どこに?」
「都内の公園」
彼女が指定してきたのは、今日、僕と花桐さんがデートへと向かった公園だった。




