第32話 ※巻島視点
マヤにとって有堂悠全という男は、これまでの誰よりも素敵な男性に見えてしまったのだろう。
聞けば、これまでお付き合いしたのが春雪と哲臣の二人、しかも二人とも浮気をしたっていうのだから、マヤからしてみれば、男という存在そのものが許せない生き物という目で見えてしまってもおかしくない。
そんな中、奥さん一人を信じ、裏切られてしまった有堂悠全という男は、マヤから見ればどこまでも清廉潔白な男で、これまでの誰よりも素敵に見えてもしょうがない存在であるとは言えるのだが。
だが、それだけはあっちゃいけない。
何があっても悠全だけはダメだ。
「お前、悠全はユリカの旦那さんだぞ? 今だって二人は離婚していないし、いずれ元に戻るからユリカだって今の現状を受け入れているのに」
「分かってる、でも、ゼン君はユリカさんとは離婚してくれるって、私に約束してくれたから」
「それはそういう風に流れるようになってるだけの話だ! マヤ、悠全だけはダメだ! お前、何考えてんだよ!」
「……とりあえず、いろいろとありがとう、電話、切るね」
「あ、おい! マヤ! くそっ……マジかよ」
その後、何度連絡しようともマヤは電話には出ず、しまいには悠全が家にも帰って来ないと、ユリカからの連絡まで来ちまう事態に陥っちまった。
どうにかしないといけない。
マヤと悠全を強制的に別れさせる何か。
考えに考え抜いた俺は、一人の男の存在を思い出した。
「……そうだ、屋炭がいる」
ユリカを諦めきれていない屋炭をぶつければ、悠全も考え直すかもしれない。
正直、屋炭一人でどうにか出来るとは考えてはいない。
だが、何かしらの打開策のキッカケにはなる可能性は秘めている。
今はもう、それに賭けるしかない。
屋炭の連絡先は、以前調べた時に把握済みだ。
「はい、屋炭ですけど……誰でしょうか?」
非通知設定なのに、電話には出るんだな。
「お前、有堂ユリカのこと、まだ諦めてないよな?」
「なんですか急に」
「有堂ユリカ、離婚するぞ」
「……え、離婚?」
「今なら旦那が味方してくれる可能性がある、月曜日の朝六時三十分発の新幹線に有堂が乗る。有堂の顔は分かるよな?」
「分かるけど、どうしてその情報を僕に?」
「善意の第三者だ、じゃあな、頑張れよ」
通話を終了すると、なぜか、寒気がした。
とてつもないミスを犯してしまったのではないか。
そんな気がして、ならなかった。
それからの一週間は、正直三人のことよりも自分のことで精一杯な日々だった。
「君が、裏で指示していたみたいだね」
どこでどう情報が漏れたのかは知らないが、俺が屋炭について調べていたことを、上層部が把握しちまった。
「巻島君、君へと出向の辞令を出させてもらうよ。会社命令だ、拒否も出来るが……まぁ、そこは君に任せる」
出向命令の拒否は、そのまま解雇まで繋がる。
それに条件だけ見れば高待遇だ、今よりも給与は倍以上に高い。
それだけに、俺が掴んでいる情報が危険、という意味でもあるのだろう。
「……わかりました」
受け入れるしかない。
これは、しょうがないことなんだ。
「悟……悠君、全然連絡取れなくなっちゃったよ」
俺が身辺整理を終えた金曜の夜、ユリカから連絡が入った。
泣き過ぎてそのまま消えてしまいそうな声色に、自然と眉間にシワが寄る。
「少し、会って話をするか」
ユリカと待ち合わせをしたのは、以前三人で顔合わせをしたのと同じ店だ。
やってきたユリカは綺麗ではあるものの、険のある顔は他人を寄せ付けない。
「ねぇ、マヤちゃんはどうしちゃったの……?」
隣に座るなり、俺へと問う。
隠す必要は、何もない。
「マヤは、俺達を裏切った」
「裏切った……?」
「ああ、悠全に本気で惚れちまったらしい」
ユリカは呆然とした顔で俺を眺めた後、手の中にある酒を手に取り、淋しげに眺める。
「悠君、良い人だもんね」
「……そうだな」
「一緒にいると、気づくと惚れちゃってるんだよ」
「ああ、違いない」
「へへっ、やっぱり私の見る目に間違いは無かったって事だよね。世界のどこを探しても、あんなに素敵な人はいない。ずっと一途で、絶対に裏切らない。だから私は悠君のことが好き、裏切るなんてこと、したくなかったのにな」
ほろほろと流れ落ちる涙が、彼女の声を震わせる。
「すまなかったな」
「……ううん、いいよ。一番悪いのはアイツだけど、二番目に悪いのは悠君に黙ってた私だから。それに、データ削除には成功したんだから、悟には感謝してる。本当に、ありがとうね」
一体俺は、何をやってるんだろうな。
俺はずっと、お前のことを泣かせたくなかった。
なのにまた、泣かせちまってる。
今も昔も、これからもずっと。
きっと、俺はお前を泣かせちまうんだ。
「実はな、こうして会えるのも、これが最後になるかもしれなんだ」
「……え、そうなの?」
「ああ、出向の辞令、出されちまってな」
「そう、なんだ。……ねぇ、それってもしかして、私のせい?」
どうして、俺の心配なんかしてるんだ?
そんな必要、どこにもないってのに。
「いや、違う。俺の成績が認められただけだ」
「……そうなんだ。ねぇ、悟」
「ん?」
「————————」
油断した。
いつもと変わらない、相槌を打って顔を向ける。
その瞬間に、ユリカは俺の頬に、キスをした。
「ユリカ、お前」
「友人として、ね」
泣き笑う顔は、どこまでも印象深くて。
「そうだな、友人として、だな」
「ふふっ、そ、友人としてね」
心のどこかで眠る淡い恋心が目覚めてしまいそうになっちまって、抑え込むのが大変だった。
☆
「……あれ? 悠君、帰って来てるのかな」
ユリカの家まで送ると、彼女の家の灯りが点いていた。
「これは、最後のチャンスかもしれないな」
「……そだね、目一杯甘えてみる」
「ああ、そうだな。世界一可愛い奥さんが甘えるんだ、きっと成功するさ」
「へへっ、なんか、妙に優しいじゃん」
「俺はずっと優しいつもりなんだが?」
「そういえば……そうかもね、悟、ありがとう」
「ああ、行ってこい」
その日の夜、きっとユリカは悠全へと、自らの気持ちの全てを暴露したのだろう。
暴露し、そしてそのまま撃沈した。
アイツの事だ、きっと成功したら俺へと連絡を寄越すに違いない。
喜びで大爆発しちまいそうな笑顔と共に、ありがとうを連呼したに違いないのに。
土曜日、双方から連絡があった。
日曜日に、悠全と会う約束をしたと。
これまでの全ては無かった事とし、初対面として二人は対話をし、これからの全てを決めると。
結末は見えているようなものだった。
ユリカと悠全は離婚し。
マヤと悠全が再婚する。
また、泣かせちまうんだろうな。
気が重い、ただただ、気が重かった。
日曜の昼、俺は一人、家にいた。
だから、有堂家で何が起こっているのか、知ることが出来なかったんだ。
「え……、ユリカが、刺された?」
全てを知ったのは、事件の翌日。
間抜けな俺はマヤの連絡を受けるまで、事態の把握を出来ていなかったんだ。
「ユリカさんだけじゃないの、ゼン君も一緒に屋炭に襲われて、それで、助けたんだけど、二人ともかなりの怪我でね……」
膝から崩れ落ちる。
屋炭をけしかけたのは、俺だ。
少し考えれば分かる事だっただろうに。
屋炭に残る感情は、二人への怒りだけだ。
何もかも失ったアイツがすることと言ったら、略奪じゃない、完全なる復讐だ。
「ごめんなさい、私が裏切ったから」
受話器の向こう、マヤは泣きながら謝罪する。
「違う……裏切ったのは、俺だ」
マヤじゃない。
今回の計画の全ての責任は、俺にある。
何もかも、俺が悪い。
「巻島、来てくれたのか」
見舞いに行くと、痛々しい姿で横たわるユリカと、手に包帯を何重にも巻いた悠全の姿があった。
事の重大さに、潰れそうになる。
ユリカはもう、以前のようには笑えない。
生きてはいるものの、もう、戻れないんだ。
「巻島、僕、ユリカと寄りを戻すことに決めたよ」
何も言えずにいると、悠全から俺へと語りかけてきた。
「実はね、屋炭と僕とは、裏で繋がっていたんだ。ユリカと別れる為に必要なことだと、勝手に勘違いしてしまっていたんだ。……バカだよね、本当に、どこまでもバカだと思う」
そのセリフは、俺が言うべきセリフだ。
「巻島が言っていたことを、もっと深く考えるべきだった。僕たちの気持ちはずっと前から決まっていたんだ。僕はユリカから離れることは出来ないし、ユリカも僕から離れることは出来ない。なんで、もっと早く気づかなったんだろうね……もっと早く気づいていれば、僕はユリカを守れたかもしれないのに」
その場で何もかも暴露したかった。
今回の件の黒幕は俺だ。
俺がユリカとマヤ、そして悠全を利用した。
「悠全、実は————」
我慢出来なかった。
言葉が喉から出そうになった。
だが、その声は出ることは無かった。
ユリカの左目が、俺を見ている。
——このままでいい。
彼女の目が、そう語っているように見えた。
だから、何も言えなかった。
悠全がユリカの側にいること。
これは、ユリカが一番に望んだことだ。
謝罪すら出来ず、何もすることが出来ず。
ここは、ユリカと悠全だけの聖域だ。
二人だけの聖域に、俺はいることが許されない。
「悠全、実は俺、出向することが決まったんだ」
口から出せたのは、どうでもいい、至極どうでもいい内容だった。
お前達の側から居なくなる。
それだけを告げて、俺は病室を後にした。
このまま俺がいなくなれば、これまでの問題は何もかも解決して終わる。
そう、思っていたのに。
「巻島君」
マヤから告げられた言葉。
「実はね、私……ゼン君の子供、妊娠しているの」
最大級の問題が、まだ、残っていたんだ。




