第22話
金曜日の夜。
名古屋での一週間を終えた後、僕は自分の家へと向かった。
——今から帰る。
ユリカへと送ったメッセージの返信は、未だ来ていない。
(別に、どうでもいいか)
既読にすらなっていないのだから、僕への愛情も冷めた、ということだろう。
恋愛を楽しむ女なのだから、恋愛を楽しめないのであれば、一緒にいる意味がない。
僕の方も、完全に熱が冷めた状態だ。
そんな僕が家に帰る理由はただひとつ。
私物を回収する、それだけだ。
(そもそも、メッセージを送る必要もなかったかな)
もう、僕とマヤとの関係を偽装する必要もないし、ユリカが何を言おうが僕達は離婚する。
阻むものも誰もいないし、むしろ、それを望む人が多いぐらいなのだから、離婚しないという選択肢は既に存在しないと言ってもいい。
面倒なのはユリカが弁護士を立てて来た時だけど、今のところそういった通知書は届いていない。
協議離婚で終わるのならば、それが一番早くて良い。年単位で時間が掛かるということは、それだけ長くユリカと接しないといけないということ。
もう、僕は一秒でも早く、彼女と別れたい。
これ以上無駄な時間を過ごすのは、ごめんだ。
(……)
二人で過ごしたマンションへと到着する。
有堂と書かれた表札のある玄関。
スマートフォンをかざし、鍵を開ける。
『凄い、この家スマートキーなんだね』
頭の中に、いつかの日のユリカの声が響く。
スマートフォンをかざし、何度も開けたり閉めたりして、ユリカは楽しそうに笑っていた。
『スマートフォン連動の鍵なら、忘れ物の多いユリカでも、忘れることはないでしょ?』
『もう、そういうこと言う?』
『財布に鍵に提出物に……』
『あーあー! 分かった分かった! 降参! そんんな指折り数えたりしないで! 私が悪うございました! ……もう、悠君の意地悪!』
しょげるユリカの頭を撫でると、それだけで笑顔になってくれたんだよな。
『そんなところも大好きだよ、ユリカ』
『うぅ、あんまり嬉しくないよぉ』
あの頃のユリカは、僕だけを好きになろうと、必死になっていた時期……ということかな。
交際している時も浮気の一切をしなかったし、結婚してからもずっと、彼女は僕だけに尽くしてくれていた。
それが当たり前だと思っていたのは、僕が甘かったということなのだけど。
玄関を開けるも、室内は暗く。
廊下を抜けてリビングへと足を運ぶも、そこに彼女の温もりは存在しない。
(珍しいな……いつも家にいるのに)
屋炭との関係が破綻している今、ユリカは他に相手がいないはずだ。友達もいないし、今の彼女を相手にするとしたら……。
……いや、違うか。
友達がいない理由が、違う。
僕一筋になる為に、あえて友人との距離を取ったんだ。
学生の頃、ユリカの周囲には沢山の人がいた。
俗に言うカースト上位、ユリカの周囲には自然と人が集まり、その中心にいつもユリカはいたんだ。
だから、交際している時は不安だった。
いつか、裏切られるんじゃないかって。
『悠君、ありがとう』
『……何が?』
『全部』
『全部って、何さ?』
『全部は全部だよ。悠君だけは、何もかも私を最優先に考えてくれる。そんな人、他にいないよ』
何もかも最優先。
そういえば、そうだったかな。
この家にある家具も全部、ユリカが欲しい物、ユリカが使いやすい物を選び、購入したんだ。
カウチ型のソファ、黒いテーブル、ちょっと大きめのテレビに、二人で遊ぶ用に買ったゲーム。
壁にも棚にも旅行の写真が飾られ、部屋のいたる場所に僕たちの思い出が残されている。
キッチンだってそうだ。
数回使っただけで使わなくなったパン製造機とか、お揃いのお皿とか、無駄に買い集めた調味料とか……あの頃は本当に、幸せだったのにな。
別れが本物になると、惜しくなる。
どうやら、この言葉は本当らしい。
(だからと言って、もう戻れないけどね)
もう、決めたことだ。
いつまでも感傷に浸るのは、良くないな。
思い出は、僕にはちょっと綺麗過ぎる。
マヤの家に持っていく荷物をまとめよう。
そして、僕の帰る家へと、向かうんだ。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」
突然の絶叫に、心臓が止まるかと思った。
「悠君がいるーーーーーーーーッ!」
振り返ると、ユリカがいた。
僕の方を指さし、そして叫んでいる。
「悠君、悠君悠君ゆうくんユウ君悠君!」
「な、ちょ、ユリカ?」
どたばたとブーツを脱ぎ散らかし、転げ落ちるように僕へと近寄りしがみついてきて、そして倒れる。
「いっつつ……な、なに?」
「悠君の、バカぁぁぁぁあああああ!」
「え、え、なに? ホントに何?」
「どうして家に帰って来ないの! なんで悠君がいないの! アタシと結婚したんじゃないの!? アタシ悠君じゃないとダメなのにぃ!」
ポカスカと叩かれて、ちょ、痛い、何これ。
「うえええええぇぇん! 悠君じゃなきゃダメなのにぃ……ひっく、うえええぇぇぇん!」
「あ、あの、ユリカ?」
「捨てないでよぉ……アタシ、悠君、えっ……えっ……やらぁ、悠君と離婚とか、考えられないよぉ……ごめんなさい、ごめんなさい……うえええええぇぇ…………ひっく」
なにこれ、なんで急に謝罪とか。
ん? なんか、ユリカから酒の匂いがするな。
「あの、ユリカ、酔ってる?」
「ふぇ? うん、酔ってるよぉ? ひひっ」
泣きながら怒りだして、そして今は「いひひひ」と聞いたことのない笑い方で八重歯を見せている。
こんなに酔っ払ったユリカとか、これまで見たことないぞ。お酒は飲む方だけど、酔ってもシラフなことが多いのに。
「ひっく…………らぁってぇ、悠君、いないからぁ……ひっく、お酒れも飲むかぁってなってぇ……ひっく、それでぇ…………んんっ、飲んだ!」
「あの、ユリカ」
「んー? なぁにぃ? 悠君……きすぅ?」
「違くて、お酒、どのぐらい飲んだの?」
「んー……? んー……? ……ひっく、えへへ、わかんにゃい。ひっく……でもねぇ、アタシねぇ、ちゃんと一人で、飲んだよぉ? いろんな人が、誘って来たけどぉ、…………悠ぅ君います! って言って、断ったのぉ……えへへ……えらいぃ?」
これは相当飲んだな。
僕の上に馬乗りして、ビシッ! って手を上げながら応えてるけど。
ん? 握りしめてる紙……レシートか? 飲み放題……うぉ、飲んだ履歴だけでレシートが巻物みたいになってるんだが。
「とりあえずユリカ、コート脱ごうか」
「……うぅ? ああ、うん、いいよぉ。悠君と、えっちするぅ」
「しないよ」
「ええええぇ……? アタシ、すっごいしたいのにぃ……?」
「このままじゃ寝れないでしょ? まったく、明日が日曜日だからって、さすがに気を抜きすぎだよ」
馬乗りになった状態から、そのまま身体を起こしてっと。
「あー、悠君だー」
腹筋するみたいに身体を起こしたら、目の前にユリカの顔があった。
嬉しそうに目を細めて……本当に美人なんだよな、そこは僕も認めるさ。
「はいはい、僕はここにいるよ」
「えへへ……チュー」
抱きしめられてキスされて。
舌が無理やり口の中に入り込んできて、我に戻る。
「ん……、ふっ……」
「ユリカ、ダメだよ」
「えー? らって、悠君とアタシ、結婚してるんだよぉ? もっとキスするのぉ……んー」
「ダメだって。それ以前に、不倫してたでしょ」
「ふりん……?」
なんで分からないって顔してるんだよ。
「あのさぁ、ユリカが不倫したから離婚するところまで来たんだけど? そもそもどうして不倫なんかしたのさ」
「えー……? えっと…………ひまつぶ、し?」
人差し指を口元に当てながら、可愛らしく〝こてん〟って傾げているけど。
「それ、本気で言ってるの?」
「うん、本気、らよ? ひっく」
「だとしたら、最悪の暇つぶしだね」
まぁ、シラフの状態でも似たようなことを言われたけどさ。
危険な恋愛が好きという言葉、それは正に、暇つぶしで恋愛をしてしまうような性格とも言えるのだろうね。
「悠君、怒った?」
「ああ、怒ってるね」
「にへへ……」
「なんで笑ってるんだよ」
両手で口を隠すように笑い、そして目を三日月に歪める。
「らってぇ……アタシ、超Mだから」
「……は?」
「ドMなんらよ? 好きな人に怒られるの、好きなの……今も興奮して、ヤバいよ?」
捕まれた手が、強引に彼女の股間へと滑り込む。
思えば、僕はユリカに対して怒ったことは一度もない。
全て彼女の為に尽くすように行動していたし、何もかも彼女のご機嫌取りに徹していた。
だから、物足りなかった。
彼女の求めるものではなかった。
だから、不倫した。
「えへへ……うそ」
嘘じゃない。
スカートの奥。
触れてしまった感触で分かる。
ユリカがこんなにも濡れているのは、初めてだ。
「悠君……」
笑顔だった顔が、急に泣き顔になった。
「ごめんなさい……もう、他の人なんかに浮気しないから……ごめん……なさい…………ごめ…………」
「……ユリカ?」
「…………、ごめ…………さい」
僕に抱きつきながら、眠りにつく。
今夜のユリカが、彼女の本音。
心からの謝罪。
「…………バカ、もう、遅いよ…………」
ここに来て、僕の心が、揺れる。
絶対に、もう戻れないのに。




