2001春-5
今夜中に発つときっぱりと言うカイに促されて、俺たちはベンツに乗り、町中に再び戻った。
首藤組の組事務所は繁華街の立派なビルに移っていた。
親父はもう上部団体の本部がある町へ戻って行ったから事務所にはいないはずだ。
「ここで待ってろ。金を取ってきてすぐ戻るから」
エアコンをつけておくためにエンジンをかけたまま車を降りようとして、俺はポケットに入れていたキーを車の中に残した。
金属の鍵のないスマートキーを、カイが物珍しそうに手に取って眺める。
捉えどころのない不安にかられて、俺は手帳を破って携帯の番号を走り書きした。
「行き先が決まったら連絡しろ。金をもっと送ってやる。仕事も探してやる」
紙切れを押し付けて、もう一度、念を押さずにはいられなかった。
「俺が戻るまで待ってろよ、カイ」
助手席に座ったカイは、黙ったまま頷いて――笑った。
校門で俺の出てくるのを待っていたカイの姿を思い出す。校舎から出てくる俺を見つけて――嬉しそうに笑った。
監視カメラが並んでいる入り口のインターホンを押すと、「誰だぁ」野太い返事が聞こえてきた。
「首藤博之だ。小森のおやっさんはいるか」
しばらくがたがたと雑音が聞こえた後、「ほんとだ、組長のとこの博之さんだ」
俺の顔を見知った奴がいたらしく、やっとシャッターが上がり、部屋住みらしい若い組員が三人迎えに出てきた。
「小森のおやっさんはもう自宅へ戻ってますけど・・・」
「金庫の鍵預かってるのは誰だ。急ぎの金が要るんだ。明日銀行が開いたらすぐ返すから、少し融通してくれ」
「金って・・・いくら要るんです」
明らかに困惑した表情で顔を見合わせている。
カイはいくら必要なのだろう――50と言ったが、それではきっと足りないはずだ。あとで送ってやるとしても、取りあえず100は渡してやりたい。
「100貸してくれ」
「ちょっと待ってもらえませんか、小森のおやっさんに連絡して来てもらいますから」
時間がかかればカイは行ってしまう――ふいに焦燥感に駆られて、俺は手近な一人の襟首を掴み上げた。
「明日返すって言ってるだろうが!お前らの組長の実の息子の頼みが聞けねぇのか!」
千種中の頭、南軍騎兵隊と紅蓮のトップだった首藤博之に誰が逆らうというのだ。
だがその神通力も今は効き目は薄れたのか、残る二人の男は咄嗟に身構えて俺の前に立ち塞がった。さすがに組長の息子に殴り掛かるわけにはいかないのだろう。
騒ぎを聞きつけたのか、二階からどたどたと足音がいくつも駆け下りてくる。
「その強盗まがいに金を渡してやれ」
照也の一声が、殺気立ったその場をたちまち沈めた。
事務所の奥のでかい金庫の中には、俺の想像通り現金の束が積み上げられていた。
「いくら要るんだ」
「100」と言いかけて、「200」と言い直した。俺の銀行口座にはベンツを買うのに底まで浚ったから、たいした額は残っていないはずだ。だが、いざとなったらベンツを売ればいい。
あれほど憧れて執着したベンツだったが、カイの前には価値のない鉄の塊に思える。
「明日には必ず返せよ」
積み重ねられた札束の山から二つ取り上げて、照也は俺に投げてよこした。
「なんだ、女とごたついてでもいるのか。お前も隅に置けないな」
俺は礼も言わずにひったくって、すぐに外へ戻ろうとした――早くしないとカイが行ってしまうのではないかという不安から逃れられない。
薄笑いしていた照也の顔が、何かに気づいたように不意に強張った。「――カイ・・・か」
照也に腕を掴まれる前に、俺は事務所を飛び出していた。
この金を持って、ベンツに乗って、カイと二人で逃げよう――突然に天から降ってきた幸せな啓示。
遅くはない。まだ間に合う。
東京でもいい。外国でもいい。カイと二人、並んで走って行けるなら。
――シャングリ=ラでも。
事務所から少し離れた電柱の脇に停めておいたベンツは、神々しいまでに白く輝きを放っていた。
ほとんど聞こえないほどの静かなエンジンの音。車内はエアコンが効いて心地良い暖かさに包まれていた。
カイの姿は消えていた。
シートの上には俺が携帯の番号を書いてやった手帳の紙と残しておいたキーが、ひっそりと置かれているだけだった。
カイは一人で、シャングリ=ラに行った――俺を残して。