2001春-2
山道を降り、温泉に向かって田舎道を走らせてすぐに、窓の外を見ていた親父がちょっと停まってくれと制してきた。
人家が途切れて町のはずれらしいそこには小さな神社があった。
朱の小さな鳥居の傍らに一本の見上げるほどの大樹がそびえ立っていた。
春の彼岸を過ぎたばかりでまだ桜には早かったが、その樹は満開の花をつけている。白っぽい薄紅色の小さな無数の花が靄のように樹を包んでいるのは壮観だった。
「やっぱり、咲いていたなぁ・・・・」 幹に触れんばかりに近づいて、親父は花を見上げていた。
「江戸彼岸桜だ。ソメイヨシノより早く咲く。この樹は樹齢300年だと言われてた。・・・・ここで、志穂と・・・お前の母親とよく待ち合わせたもんだ」
「母さんとは中学の時知り合ったんだろ」
「ああ・・・たった15でこの女だと決めた」 息子の前で、何のてらいもなく親父は口にした。
「後にも先にも・・・・あんなに好きになった女はいない・・・この町を出て行くとき、18になったら迎えに来るからと約束した。18の誕生日にこの樹の下で待ってろと」
小さな頃、母さんが俺に繰り返し聞かせてくれたおとぎ話。
「それでも、18になる頃には世間のことも少しは判ってきた。連れて行けば不幸にする。だから、別れようと思ってここへ来たのに、あいつが俺に向かって手を伸ばした時にそれを掴まずにはいられなかった。あの頃の俺は――志穂が何よりも大事だった」
「じゃあ、どうして母さんを放り出すみたいなことをしたんだ」
俺は親父を責めずにはいられない。母さんは不幸だった。そうなるとわかって連れて行ったのは親父なのだから、なぜ最後まで守ってやらなかったのか。
「照也の父親が死んだとき、俺にとっては志穂より組の方が大事になった――そういうことだ」
桜の樹から離れると、親父はもういつものヤクザの組長の顔に戻っていた。
「俺が死んだら、あの墓に入れてくれ」
それきり、二度と母さんの話に触れることは無かった。
宿では酒を飲んで、親父は自分の話はせずに俺の東京での暮らしを聞いていた。
朝になると宿の前には組の車が迎えに来ていて、親父はそのまま上部団体の本部のある町へ戻っていった。
母さんと香苗さんが住んでいたマンションはそのまま香苗さんに住んでもらうことにして、他にも母さんの名義になっていた不動産がいくつかあった。
どこへ出しても後ろ指一つ指されない公明正大な財務のもので、ほとんどをそのまま俺が相続する形になった。
その整理や書類手続きで、葬儀から二週間ほど東京へ帰ることができなかった。
地元の不動産管理会社には俺が名義上社長になったが、今まで通り仕事を続けてもらうことにした。みんな俺が首藤組の組長の実子だと承知しているから異議もなかったし、仕事自体は今までとなんら変わらないはずだ。
10人ほどの社員と顔合わせの食事会を焼き肉屋で開いた。
そして――13年ぶりにカイが俺に会いに来た。
「火、貸してくれよ――ヒロさん・・・」
それだけで、相手がカイだとわかった。