1996初夏-5
店を一歩出た途端に、俺の膨れ上がった憤りは跡形もなく消えた。
靖彦のことも生島のことも、俺に罵倒する資格は無い。
今の俺の周りに仲間と呼べる奴はもう誰もいないのだ。並んで立っていたカイは――もう、傍らにいない。
――俺たち、天下を取ったよね、ヒロさん・・・
生島のいうように、あれはガキの遊びだった。ただの過ぎ去った一瞬だけの幻の栄光だった。
故郷の町とは比べようもない、途切れることのない喧騒とまばゆい光の溢れた不夜城の都会で俺はたった一人で立ち尽くしている。
15の時から10年たった今も、俺は何一つ成長していない。いまだにガキのままだ。
目の前で俺の手をすり抜けて堕ちて行く人間を捉えることができない。
救い上げるなどと偉そうなことは言えないが、せめて手を伸ばせば届く人間になりたい。
煙草を一本抜き出して咥え、風を避けながら火をつけた。
デュポンの蓋を開ける澄んだ音が響く。俺の節くれた手には似つかわしくない繊細で上品なライター。
火がついたのを確認して、ゆっくりと煙を吐いた。ずっと変わらないマルボロの香り。
歩き出しながら、右手に握っていたライターを力いっぱい遠くへ投げ捨てた。
どこかで微かにきぃーんと響いた気がしたが、それが俺の聞いたデュポンの最後の音だった。
俺は高田のおっさんに頭を下げて、【レインボーエステート】に戻った。
今度こそ、本気で仕事を覚えようと思っていた。
※ ※ ※
靖彦が逮捕されて、一週間ほどたった7月の半ば、旅行会社から携帯に連絡が入った。
靖彦の名前で申し込まれていたフライトとホテルの予約の日が迫っていて、連絡がつかないからと俺に電話してきたらしい。
「すでにお支払いはいただいているのですが、資料や航空券をお送りする先がなくて困っております。ご出発日はあと1週間もないので、早急にご連絡をしたいと」
「俺に何の関係があるんですか?柘植の実家に連絡を入れてみたらどうです?」
「いえ・・・――」 相手の沈黙は靖彦の事件を承知しているからだろう。
やがて渋々と言った口調になって、
「実は、ご同伴者様のお名前が首藤博之さまになっております・・・・お申し込み時に、柘植さまが、ご同伴者様には内緒で驚かせたいのだと仰っておられましたので、今までご連絡を差し上げるのを控えていたのですが、さすがに日時が迫り、当方としても困り果てておりまして・・・」
郵送では時間がかかるから手渡したいと、東京駅にある旅行会社のカウンターを指示された。
今更と思ったが、出かけて行って受け取った資料を開けてみると、シンガポールへの三泊四日の日程が組まれていた。
出発日は7月25日。俺の25歳の誕生日だった。
宿泊先ホテルは、シンガポールの――Shangri-La hotel
申込日時は、靖彦がマカオに出発した朝――俺がシャングリ=ラに行きたいと泣いた夜の翌朝だった。
「・・・・・全部、キャンセルしてくれ」
「これからでは大幅にキャンセル料がかかりますし、宜しければ柘植さまの代わりの方の変更を承りますが」
「俺、パスポート持ってないんだ」
それで、カウンターの女は黙った。
靖彦は週刊誌の動きをいつ知ったのだろう。薄々は察知していたかもしれないが、実際に知らされたのはマカオにいる時だったのではないか。
だから、帰国した時にはもう覚悟を決めていたのだろう。
それでも、燃える火に飛び込む蛾のように靖彦は引き返すことをしなかった。
燃え尽きるまで飛び続けて――自ら望んで滅びに向かうようなその姿を、俺は手も伸べずに見ていただけだった。キキの時と同じように。
ただの紙切れになったシンガポール行き予約表を、俺は記念に貰って帰った。
パンフレットに載っているシャングリ・ラ ホテルは緑の溢れた豪華な天国のように写っていた。
だけど、そこに俺の知る人間は誰もいない。
※ ※ ※
靖彦の母親は資産を処分した金で一族への弁済を済ませたが、刑事告訴は取り下げられなかった。
半年後、東京地方裁判所は靖彦に執行猶予なしの懲役4年の実刑判決を言い渡した。控訴はされなかったから、判決はそのまま確定し、靖彦は収監されることになった。
三つ葉通運と旭通運の争いは長引いたが、翌年六月の三つ葉通運の総会では旭側が大株主として出席し、社長の真壁は失脚した。その後の社長に就任したのは靖彦の叔父である柘植真一だった。
靖彦から聞いたことのある、あの駆け落ちしたが二年で戻ってきたヘタレの叔父さんだった。