1996初夏-3
「靖彦さん、借り入れた融資は新規事業のためでしたよね。まさか、この記事に書かれているように本当にカジノで散財したんじゃないでしょうね」
弁護士があくまで事務的な態度を崩さずに聞いてくるのに、靖彦が冷やかに返事を返す。
「この記事を書いた記者はマカオにも来てましたよ。現地取材で僕にインタビューしたいと申し込んできましたが、断りました」
「今現在、融資額のうちどれくらいが残っているんですか」
「使い果たしたって言ったでしょう。ゼロですよ。こういうの、からっけつというんだっけ?」
靖彦は俺の方を振り返って悪戯っぽく笑ってみせた。
いきなり立ち上がった母親が振り上げた手で靖彦の頬を打った。
「何が可笑しいのよ!自分のしでかしたことがどういうことかわかってるの!」
喚いてまた振り上げた手を、俺が後ろから掴んで止めた。
「うるせぇんだよ、クソババア」
この女が一生耳にすることが無かっただろう真実を俺が言ってやった。
靖彦がくすりと笑うのが見えた。
「あの株券の半分はあなたとお母様のものですが、残りの半分は一族の他の方たちの所有するものです。横領の嫌疑をかけられて告訴されるかもしれませんよ」
弁護士は赤い血が流れていないかのような冷静で感情の無い声で事実だけを告げた。
「それに、三つ葉本社の方でも見過ごしはしないでしょう。旭通運への株譲渡の無効を訴えてそちらも裁判沙汰になりかねません」
「そう、忙しくなりそうですね。儲けるチャンスですよ」
嫌悪感をにじませた声が弁護士に投げつけられた。
ヒステリーを起こして気を失いかけた母親を残して、弁護士は今後の対処に走るべく部屋を出ていった。
泣きわめき続ける母親を靖彦が宥めるように抱きしめる。
「どうして、どうしてこんなことをしたの!亡くなったお父さんに申し訳ないと思わないの!あの会社はあなたのものなのよ!」
「お母さん・・・・週刊誌が知らないことを教えてあげましょうか」
切ないほど優しい声で、靖彦は母親を胸に引き寄せた。
「僕は三年前に自分のDNA鑑定をしたんですよ。僕とお父さんの間には99.9%の確率で親子関係はありませんでした」
母親は声を失くした。
「どうしてそんなことをしたかって?お父さんの最後の半年間――何もわからなくなって・・・昔のことしかおぼろげに覚えていなくなって僕の顔さえ見忘れたお父さんが、僕を天宮と呼び続けたからです。30年も昔のお父さんの秘書だった天宮さんですよ」
母親が悲痛なうめき声をあげてすすり泣き始めた。
「興信所を使って調べさせたら、天宮さんはもうとっくに亡くなっていましたが、昔の30代頃の彼の写真はそっくりでした――今の僕の顔と。
だから、あの三つ葉通運は僕のものじゃない、あの家も、あの一族も。僕のものと言えるのは――あなただけですよ、お母さん」
すすり泣きに肩を震わす母親を靖彦は抱きしめていた。まるで諸共に地獄へ引きずり落とそうとするかのように。
「ヒロ君、出て行ってくれないか。君はここにいてほしくない」
靖彦ははっきりとした声で俺を拒絶した。
「明日週刊誌が出れば、マスコミが大挙してここにも押し寄せてくる。君も巻き込まれる」
俺に何ができるのか、わからない。それでも、俺の足は動かない。
「ヤクザの息子に傍にいられては迷惑だということがわからないのか!」
聞いたことのない靖彦の突き放すように鋭い声が俺を撥ねつける。
屋上の金網の向こうで落ちて行くキキの姿と靖彦が重なる。
どんなに手を伸ばしても届かない。
「これは君にはなんの関係もないことだ。誰に対するのかもわからない、僕だけの個人的な復讐だよ」
鞭打たれるようにその場を出ていくしかなかった。
使っていた部屋に入り、バッグに手当たり次第に服を詰め込む。考えてみれば、下着まで靖彦の金で買ったものばかりだった。
俺が持ち込んで部屋に残っていたのは、ジッポのライターぐらいだろう。
俺はテーブルの上にデュポンのライターを置いた。靖彦がマカオの土産だとくれた物も返すべきだろうと思った。
「これはヒロ君の名前入りだから、返してもらっても仕方ないだろ。持っていてくれ」
俺の手にもう一度ライターを押し付ける靖彦の頑なな声が揺らいだ。
泣き腫らした目をした母親が靖彦にしがみついたまま、ちらりと俺を見た。一気に老けて年齢相応の顔に見える。
ドアを閉める前に、もう一度振り返った俺に、
「ヒロ君・・・僕もいつか一緒に行きたかった――シャングリ=ラへ」
濡れた大きな目で靖彦は笑いかけ、それきり二度と俺を見なかった。