1996初夏-2
マンションに帰りつくと、靖彦は居間のソファに座って昼間からワインを飲んでいた。
そのボトルとグラスの乗ったテーブルに、俺が手にしているのと同じ記事のコピーが置かれていた。
「お帰り、早かったね」
俺の手の雑誌社名の入った封筒を見やりながら、靖彦は普段と変わらない静かな声で、
「もうヒロ君も読んだんだ――明日この内容の記事で発売されると出版社から知らせてきたよ。まあ、よく調べたよね。大体のとこは合ってる」
「おまえ・・・あの金」 三つ葉通運の取締役としては死刑宣告を受けたにも等しい記事を前にして、靖彦は他人事のように微笑んでいる。
「ヒロ君も一杯飲んだら?」
俺のグラスに赤いワインを注いだ。靖彦の好きなシャトー・マルゴー。俺が唯一覚えたボルドーワイン。
「それ飲み終わったら、ここから出て行ってくれる?」
否を言わせない決定事項を淡々と伝えるように、俺の顔を正面から見据えて言った。
インターホンも鳴らないうちにいきなりドアが開いた。
声もかけずにつかつかと入ってきた女が戸口に立った俺に気づいて、一瞬ぎょっとしたように足を止めたが、驚いたのはこっちの方だ。
えらく金のかかった服を着たおばさんだというのが第一印象だったが、年齢と聞かれると何とも言い難い。
きれいな栗色の髪。皺ひとつない大理石みたいな肌は、巧みな化粧が施されて、手入れの行き届いたきれいな色のマニキュアとどこをとっても金がかかっているのがありありとわかるほど一種の人工的な不自然さが透いて見える。
「どなたかしら?靖彦は?」上から見下ろすような癇に障るもの言いで、俺をさっと一瞥しただけで眼を逸らした。
40半ばか、も少し上か。靖彦の女にしては年を喰い過ぎだろうと思ったが、居間のソファに座ったままの靖彦が、「お母さん、どうしたんです」と声をあげたから、
60を越えたはずの靖彦の母親だとわかって二度目の驚きだった。
この女が息子の失墜を憤って三つ葉通運の本社へ怒鳴り込んで行った母親なのか。
「これは何――!」
女は手に握りしめていた封筒を靖彦に突きつけた。
「週刊誌の記者が送りつけてきたのよ!明日発売の特集記事に載る内容だそうだけど」
封筒の中からプリントされた紙の束を取り出した靖彦は母親のヒステリックに叫ぶ声を無視したままぱらぱらと内容に目を通している。
血の気の失せた青白い横顔の食いしばった顎がひどく頑なに見えた。
「株券は今どこにあるんですか」
居間の入り口でいきなり声がした。後から入ってきてひっそりと立っていた男は一目で弁護士だとわかる風体だった。
「あなたが融資の抵当にしたいからと言って持ち出した株券はどこの銀行に有るの!」
母親に揺さぶられて靖彦が顔を上げた。
「株券は融資してくれた相手に渡してありますよ」
「じゃあ、そのお金を返して株券を取り戻しなさい」
「金はありません。全部使い果たしました」
薄っすらと口元が綻んで、靖彦は笑ったように見えた。
紙の束が靖彦の顔に投げつけられて、部屋の中に散乱した。弁護士が慌ててそれを拾い集めたが、大きく見出しの活字が読めた。
『悲運の御曹司の反乱!!』
俺が加納に渡されたものと同じ内容だった。
「株券はどこ!まさか、本当に旭通運に渡したんじゃないでしょうね!!」
母親はもう泣き叫んでいる。
同業の旭通運が三つ葉のライバル会社だということぐらいは俺でさえ知っていることだ。
「僕に融資してくれた旭通運に担保として渡してあります。融資の返済期限は6月の末で切れましたから、株券はもう彼らのものです」
「・・・・いくら・・・いくら借りたの・・・」
「この一年半の間に何回かに分けたから・・・・総額で50億ぐらいかな」
「靖彦・・・・あなた・・・・あなた、自分の会社を敵に売り渡したってわかってるの!・・・」
「僕の会社?真壁の会社ですよ、三つ葉はもう」
母親は足元が崩れ落ちて、弁護士が急いで抱え上げるようにしてソファに座らせた。
誰も俺のことなど透明人間のように見向きもしない。