1996初夏-1
靖彦がマカオから帰ってきた。
「一週間、どうしてた?」
「母親の見舞いで田舎に行って――昔の知り合いに会ってきた」
「そうなんだ」
探るような表情で俺を見たが、それ以上は聞いてこなかった。
靖彦はマカオへ行く前に比べると苛立った感じが薄れて、奇妙に穏やかで俺にはひどくよそよそしく映った。
俺の眼の奥には、ちらっと見かけただけのカイの姿がまだ消えていない。俺のいない6年間を一人で生きてきたカイ。
そして、カイのいない6年間を生きてきた俺に、靖彦は結局なんの影も落としていなかった。
「そうなんだ・・・」
もう一度繰り返して、靖彦は笑った。感情の抜け落ちた、取ってつけた仮面のような笑顔だった。
「マカオのお土産」
居間のガラステーブルの上を、きれいにリボンのかけられた小さな箱が滑ってきた。
「――開けてみたら?」
金と黒のストライプのリボンを解くと、中に入っていたのは精緻な彫金の施された鈍い金色のデュポンのライターだった。
手に取らないままじっと見ているだけの俺に焦れて、靖彦が手を伸ばして持ち上げ、底面の「Hiro」と刻印された名前を見せた。
「ジッポはスーツには似合わないだろ。これ使えよ」
手渡されたライターは、ジッポの無骨な重さとは比べようもないほど軽く華奢で、掌にすっぽりと収まった。
蓋を開けると澄んだキィーンという音が反響した。背筋がぞくりと震えて、一瞬で虜になるような開閉音だった。
不意に、ジッポしか知らないカイにこの音を聞かせてやりたいという子供の自慢じみた思いが湧きあがって、胸が塞いだ。
肺腑を震わすようなこの澄んだ音を、聞かせてやりたい相手は――もう果てしなく遠くにいるのだとこれを聞くたびに思うに違いなかった。
マルボロを取り出して咥え、火をつける。ライターが変わったからと言って煙草の味が変わるわけではないとわかっているのに、肺に入ってくるのはひどく苦い煙だった。
「ヒロ君、僕にも火をつけて」
自分の煙草を咥えて、靖彦が身体を寄せて来ながら言った。
その顔の前にライターを差し出して火をつけてやった。らんちゃんがカイにしてやったように。
もう一度、キィーンと蓋の開く音が響く。
「この音聞くたびに、あげた僕のことを思い出してくれるだろ」
すぐ傍らで覗き込んで笑う靖彦の大きくて濡れた目は、俺の姿を映してはいなかった。
そして見返す俺の眼にも、きっと靖彦は映っていなかっただろう。
※ ※ ※
靖彦が帰国した三日後、銀竜会の加納から携帯に連絡が入った。
ずいぶん久しぶりだったが、指定されたのは加納の店ではなく、渋谷の駅前にあるマクドナルドの二階席で待ち合わせた。
バニラのシェイクを啜る、黒服の中年男は奇妙に目立っていた。
「久しぶりの故郷の水はどうでした?オヤジは元気でしたか」
俺の動静はちゃんと承知してると言いたげに、加納は目を細めて笑いかけてきた。
「親父とは会わなかったが、ショーヤとは飯食ったよ。お前のことは何にも言いつけてないから安心しろ。こんな真昼間から、何の用だよ」
「三つ葉の御曹司とは最近どうなってるんです。色々噂がとんでますよ」
「どうせ、ろくでもない噂が耳に入ってんだろ。靖彦には財布代わりになってもらってただけだ」
薄ら笑いをしていた加納の顔が表情を消すと、ぐいっと近づいてきて声を落とした。
「博之さんと御曹司の関係がどうかなんて知ったこっちゃないですけどね。あの人の周辺にきな臭い気配がある。あんたが関わりがあると、こっちまでとばっちりが来る心配をしてるんですよ」
「マッポ(警察)が動いてるのか・・・・ギャンブルか。違法カジノだろ」 薄々感じていた不安がいきなり現実味を帯びてきた。
加納は持っていた茶色の封筒から、コピーした紙の束を取り出して俺の前に置いた。
「これ、明日出る週刊誌の記事のゲラ刷りを手に入れたんですがね。
あの御曹司とは早く手を切って方がいいですよ。首藤組が痛くもない腹を探られる前に」
「週刊誌ってスキャンダルを扱うんだろ。派手に遊び回ってることとか、やっぱりカジノあたりを嗅ぎつけたのか」
「それと――あの金の出所(でどころ)」 加納はふっと目元を緩めて、残ったシェイクをずずっと飲み干した。
加納が封筒を残して帰った後、高校生らが大声で騒いでいるマックの片隅で俺はその週刊誌のコピーを読んだ。
10ページにわたる特集記事は普通なら5分もかからないで読み終える量だったが、最初の行から頭に入ってこずに、俺は同じ行を何度も目で追うだけで手に汗が滲んだ。
靖彦が湯水のように浪費している、恐ろしいほど巨額の金はどこから湧き出しているのか。俺はそんなことさえ、見当もつかないほど馬鹿のままだった。
【悲運の御曹司の反乱!!】――触るものすべてを黄金に変えるミダス王の呪いは、ついに靖彦を捉えたのだ。