1996梅雨-7
新幹線に乗るつもりで中央駅まで戻った。
緑の窓口で東京までの切符を購入して出てくると、
「ヒロさん」
ポンと肩を叩かれて振り返った目の前に、カーディガン姿の女が立っていた。
主婦らしい地味目な格好に一瞬気づかなかったが、笑った顔は中学の不良(ワル)の女の番だった阿部洋子に違いなかった。
「なんだ、ようこか。見違えたぜ。すっかりまともに見えるな」
ふふと笑ってようこは俺の前でくるりと一回りして見せた。
「ヒロさんもすっかり東京の人間に見えるよ。元気にしてた?東京の大学に行ったと聞いた時は、信じられなかったけどね」
「裏口からこっそりとな。お前はどうしてたんだ。高校辞めたって聞いてたし、レディースも抜けただろ」
「若い時はキャバ嬢やってたんだけど、その後知り合いのスナック手伝ってて・・・・九州から転勤してきた男を捕まえた」
「だまして捕まえたのか」
「えー、大体のことは知ってるよ。それでも私がいいんだって」
左手の結婚指輪を見せて、晴やかに笑った。幸せそうだった。
指定席の列車を変更して、駅ビルの中のコーヒースタンドでしばらく一緒に過ごした。
互いに知っている昔の仲間の消息を語り合う。
女たちはたいてい水商売に入り、ようこの様に幸福な結婚を掴むものは稀で、転落していくものが多かった。
「ケータは扇町のホストクラブじゃNo.1張ってるよ」
「あいつ、中学の時からモテてたものな。ホストは天職だろうさ」
「ヒロさんだって結構モテてたじゃない」
「俺?まるっきりだったよ。女はケータが一手に引き受けてただろ」
「ヒロさんは気がついてなかっただけだよ」
ようこは昔の様に、俺よりずっと年上の訳知りの女の顔をしていた。
「ヒロさんを好きな子は結構いたんだ。でも告ろうなんて考えてる奴は、私らが呼び出してちょっと忠告してやってたんだ」
「ひでぇ。なんでケータはよくて、俺はだめなんだ」
「ケータはいいんだ。みんなのケータだからね。でも、ヒロさんは惚れた女ができたら一途になるタイプだろ。そいつに夢中になって、仲間も放り出しかねない」
ようこのまともに見つめてくる視線は、昔も今も俺よりずっと俺のことを知っていた。
「私らはね、仲間と馬鹿やってるヒロさんが好きだった。南軍騎兵隊や紅蓮に夢中になってるヒロさんを見てたかったんだ」
「お前、俺に刺繍の入ったリストバンドをくれたじゃないか」
「そんなことあったね。キスもしたっけ」
自分で言って、慌てて周囲を見回すようこに笑いがこぼれる。昔の濃い化粧をしていた時より、ずっときれいで優しい顔になったと思う。
「ヒロさん、武田綾香のこと気にしてただろ」
誰にも知られていないと思っていたことを、ぎくりとするほど正確に言い当てられた。
ようこはガラス窓の外の、新しく建って間もない仰々しい外観のシティホテルを指さした。
「先月、あそこで武田綾香の結婚式があったよ」
その知らせは、それほど衝撃をもたらさなかった。武田綾香のことはもう遠い思い出の影でしかない。
「中学の時の友達も式に呼んだらしいけど、もちろん私らは呼ばれなかった。相手はヒロさんも知ってると思う。委員長だった牧。大学出た後、中央信金に勤めてるみたい」
教壇の前に立って、あれこれクラスに指図していた生真面目で眼鏡の細い奴。俺らの前では逃げ腰だったが、それでもタックの入ったボンタン風をこっそり穿いていたくらいの度胸はあった。
「あいつとならお似合いだな。二人とも、最初から俺らとは別の世界の住人だった」
ようこがくすくす笑いながら立ち上がった。
「ヒロさんが難しいこと言えるようになったなんて、東京の大学行ったのも無駄じゃなかったね。子供を保育園に迎えに行く時間だから、じゃあ」
「子どもがいるのか」
「女の子。私に似て将来美人になるよ。可愛いんだ」
ようこは子供の頃、母親に虐待に近いことをされていたという噂を思い出す。
「ヒロさん、こっちに帰って来るの?私は夏に九州に戻る旦那について行くから、もう会うことも無いかもしれないね」
「ああ・・・・元気でな。出戻って来るなよ」
余計なお世話――べぇっと舌を出して俺の額を軽く小突くと、ようこは手を振りながら店を出て行った。
俺はもう一度、窓の外のホテルに目をやった。真新しく光り輝くような白亜の建物は、中学生だった頃の武田綾香によく似ていた。
俺と結婚しなくてよかったに違いない。かあさんの様に、決して幸せにはなれなかっただろう。