1996梅雨-5
「おい、ヒロ。もう一軒付きあえ」
店を出たところで、タクロウさんが俺の肩を掴んで離さない。
ショーヤは笑って帰って行き、他のみんなもマリンさん以外は「また始まった~」と言わんばかりに姿を消した。
「可愛い子のいるスナックがあるんだよ。おら、行くぞ」
「タクロウさん、結婚してるんじゃなかったっけ」
「素面の時は、奥さんに頭が上がんないんだけどね」
マリンさんがこっそり言ったのが聞こえたらしく、危なっかしい足取りでタクロウさんが殴りかかろうとした。
「てめぇ、どこに目をつけてる!」
傍らを通りかかった男にどこか触れたのか、ドスの効いた声が飛んだ。
「服が汚れたぞ。洗濯代貰おうか」
お決まりの台詞を吐いてきたのはどう見てもヤクザのチンピラだ。後ろにもう二人、同じような派手な柄のシャツの男たちがいる。
まさか、と思いながら酔った目を凝らしたがカイではなかったことにほっとした。
「まだきれいなまんまじゃねぇか。洗濯代が欲しいならもっと汚してやるか!」
俺が気を取られている隙に、タクロウさんが相手の顔に一発ぶちかましていた。さっきまでの酔いがどこへ行ったかと思うような、圧倒的な迫力で蹲ったところを蹴りつけている。
「まったく、毎度こうなんだから」
マリンさんもぼやきながら、飛びかかってきた後ろの連中に突進していった。こうなれば俺もやるしかない。
あとはもう三対三で殴り合いになったが、周りに集まってきた野次馬が囃したてる中で、
「おう、タクロウじゃないか!助っ人してやるヮ」
飛び入りの加勢があったりして、あっと言う間に決着がつき、男三人は地面に転がっていた。
「紅蓮を舐めんなよ!」
血の混じった唾をぺっと吐きながら、タクロウさんが昔と同じセリフを投げつけていた。
そのまま、歓楽街の細い路地にあるスナックに連れて行かれた。
あまり流行っている様には見えない狭い店だったが、カウンターに年増の女とぽっちゃりとした若い女が入っていて、それが店のママとバイトの「らんちゃん」だった。
顔はまあまあだが胸の大きいらんちゃんが、タクロウさんのお目当てらしかった。
タクロウさんはカウンターに座ってらんちゃんと差向いになったが、俺とマリンさんはテーブルの方へ腰を下ろした。
「紅蓮はまだ走ってるんですか」
「たいした数じゃないが、紅蓮って名乗ってる奴らはいる。まあ、俺たちが紅蓮と認めているのは、お前の次のハガの代までだな。今のご時勢はマッポ(警察)の取締りも煩くなったし、族の時代も終わってるよ」
梅干し入りの焼酎を飲みながら、マリンさんもぼやきが入る。
「お前らと走ってる頃が一番楽しかったなぁ~」
「そらが単車を調達してくれて、陸さんのところでカウルをつけてもらったことがあった」
「おぉ、あのザリもいい走りしてたよな。そらは要領がいいから、自衛隊でも上手くやってけるだろうよ」
俺たちの欲しいものを、いつもどこからか見つけてきたそら。
楽しそうに笑って、不器用な仲間たちを繋げるように気配りを忘れなかった。
そらの優しさは、二人の兄に可愛がられて育まれたものだと今でも羨ましい。
「みさちゃ~ん、ビールお代わり~~」
奥のテーブルの酔客がカウンターに向かって、空の瓶を振り回しながら叫んでいた。
「はいはい、自分で取りに来てよ。こっちは忙しいんだからさ」
ママが笑いながら返事をし、カウンター越しに手を伸ばして客にビール瓶を渡した。
客もへらへら笑いながら瓶を受け取るついでに、ふざけてママの胸を揉んでいった。
「やだぁ、たぁさんのエッチ」
嬌声を放って払いのけるママの手首に、金色のブレスレットが見えた。
昔、中学の修学旅行でカイが美佐ちゃんのために買った、赤いガラス玉のルビーが嵌め込まれた金のブレスレット。
照明の薄暗いスナックで濃い化粧をしていても、女は40過ぎに見えた。昔はきれいだったのかもしれないが、荒んだ年月が崩れた影を落としている顔。
俺がじっと見ているのに気がついたのか、にこりと商売用の笑みを返して、煙草を手に取った。
真っ赤に塗られた口に咥えた煙草にマッチを擦った火がつけられ、俺の方へ視線を向けたままゆっくりと白い煙が吐きだされた――カイによく似たきれいな形の薄い唇から。