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幸せなリビア 一人女性のひと言が平和なアラブを作っていく 正確な一次資料にあたった歴史改変物語  作者: アントノフ


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序 アメリカとフランスに壊される前のリビア と 神にあたえられたもう一度の人生

カダフィーとライスの発展国家建設記



序 壊される前のリビア


2010年のリビアでは、学校の授業料も、公立病院で受ける基本的な医療も国が負担していた。油田から得られる富は、教室や診察室、住宅、道路、水道になって国民の暮らしへ戻っていた。


その国を40年以上率いてきたムアンマル・カダフィーを、欧米の政治家や報道は「中東の狂犬」と呼んできた。北アフリカの砂漠、軍服姿の独裁者、古びた戦車、銃を持った兵士。その映像だけをつなぎ合わせたら、国民がどんな家に住み、何を学び、病気のときにどこへ行くのかは見えてこない。


2010年のトリポリでは、子どもを大学へ通わせる家庭が進学費用を計算するとき、授業料の負担を心配せずに済んだ。女子も男子も学校へ通い、大学で学んだ女性たちが教師や医師、技術者になっていた。


病気になれば、公立病院や診療所で基本的な医療を無料で受けられた。子どもから高齢者まで、医療は国が支える公共サービスだった。病院にかかるために一家が医療費を工面し、子どもの進学のために親が授業料を積み立てる。そんな心配から解放されることには、国民の生活にとって大きな意味があった。


道路が延び、住宅が建ち、電力が供給された。砂漠の地下に眠る水を汲み上げて海岸部の都市へ送る大規模な送水事業も進められた。水の乏しい土地では、蛇口から水が出ること自体が国家建設の成果だった。燃料や生活必需品には補助があり、石油を売って得た収入は、教育、医療、住宅、道路、水道といった形で国民の生活へ戻されていた。


世界から見た豊かさを測る数字もある。国連の2010年版人間開発報告書で、リビアは世界53位。アフリカ諸国の中では最も高い位置にいた。人間開発指数は、所得だけでなく、健康と教育を合わせて見る指標である。砂漠の国が石油を輸出しているというだけの順位ではなかった。


その国を40年以上かけて動かしてきたのが、カダフィーだった。


1969年9月1日、彼は若い将校たちとともに王政を倒した。当時のリビアはすでに石油を産出していたが、その利益を誰が受け取るのかが問題だった。外国企業、王家、有力者が握っていた富を国の管理へ取り戻し、国民の暮らしへ配分する。それが革命政権の大きな柱となった。


彼はその後も政権の中心から離れなかった。独特の衣装、長い演説、予測の難しい外交、突然の強硬策は外国の政治家を困惑させ、敵対する国の報道では危険人物の象徴になった。カダフィー本人にも、目的を達成するために手段を選ばないところがあった。


だが、国民にとって国家とは、外国の新聞が指導者につける呼び名のことではない。学校の門が開くこと、病院が患者を受け入れること、停電したら復旧すること、遠い町へ舗装道路を通って行けることだった。そこで暮らしていた人々には、守るべき生活があった。


しかも2010年のカダフィーは、かつてのようにアメリカと断交したまま孤立していた人物でもなかった。


リビアは2003年に大量破壊兵器計画の放棄を表明し、国際的な査察と処分へ進んだ。アメリカとの関係は修復され、2006年5月には完全な外交関係が回復した。その発表を行ったのは、ほかならぬアメリカ国務長官コンドリーザ・ライスである。アメリカ大使館がトリポリに戻り、外交官も企業も往来するようになった。


2008年9月には、そのライスがリビアを公式訪問し、カダフィー本人と会った。長年敵同士として向き合ってきた両国の関係が、そこまで変化していたのである。


カダフィーの視線は、さらにアフリカ全体へ向いていた。道路、鉄道、航空路、通貨、地域紛争の調停。彼はアフリカ諸国を一つの政治的な力として結びつける構想を持ち、2009年にはアフリカ連合の議長に選ばれた。国際会議でアフリカの立場を語るだけの位置と、実際に人や資金を動かす力を持っていた。


2010年。リビアは国として機能し、国民はそこで生活し、カダフィーは国際社会との関係を作り直していた。


その翌年、国が壊れた。


2011年、リビアで武力衝突が始まり、フランス、アメリカ、イギリスなどが加わる軍事介入へ発展した。住民保護のための作戦として始まった空爆は、やがてカダフィー政権の軍事力を削ぎ、政権そのものの崩壊を後押しした。フランス軍は空から攻撃し、アメリカも艦艇、航空機、無人機、情報機関を投入した。CIAの要員は反カダフィー勢力と接触し、情報を収集していた。


2011年10月20日、カダフィーが乗った車列はシルト付近でフランス軍機とアメリカの無人機による攻撃を受けた。車列から逃れたカダフィーは武装勢力に捕らえられ、殺害された。彼を長年「狂犬」と呼んでいた世界では、独裁者の最期として大きく報じられた。


しかし、カダフィーの死はリビアの問題の終わりにはならなかった。


政権が崩れると、兵器庫から武器が強奪された。小銃だけでなく、機関砲、ロケット弾、軍用車両までが、統一された指揮系統の外へ流れ出した。武器を手にした集団が道路を押さえ、町を押さえ、石油施設を押さえた。昨日まで国家の軍需品だったものが、今日から別々の武装集団の力になった。


東と西に別の政府ができ、検問所ごとに旗が違った。油田は止まり、港は閉まり、送水設備や送電施設の運転も脅かされた。学校を建てた国が、その学校へ子どもを通わせる道の安全さえ保証できなくなった。病院には負傷者が運び込まれ、医薬品や医療従事者が足りなくなった。


外国から働きに来ていた人々も逃げた。出自を疑われ、傭兵扱いされ、暴行を受けた者もいた。人身売買が広がり、地中海を渡るには小さすぎる船へ多くの人が乗り込んだ。リビアから流出した武器は周辺のアフリカ諸国にまで広がり、別の紛争にも力を与えた。


国民の生活を支えていた国家の仕組みが壊れ、その後始末は何年たっても終わらなかった。


ここで失われたものの大きさを、カダフィーの好き嫌いだけで測ることはできない。病院の窓口、大学の教室、沿岸を結ぶ道路、井戸から水を汲み上げる設備。戦争が壊したのは、暮らしを成立させていた無数の仕事だった。


その結果まで見届けた人間が、もう1人いた。


コンドリーザ・ライスである。


彼女には、政治家としての判断とは別に、忘れられない2008年9月5日の記憶があった。国務長官としてリビアを訪れ、トリポリでカダフィーと向き合った夜である。国交を回復したばかりの2つの国には、交わすべき文書も確かめるべき条件も山ほどあった。彼女はそのために来た。相手も、何十年も対立してきた米国の国務長官を迎えていることを十分に理解していた。


会談の間、カダフィーは外交上の発言だけで彼女を見ているのではない、とライスは感じた。礼儀、好奇心、政治的な計算。最初はそのどれかだと思おうとした。しかし視線が合うたびに、彼が自分という女性に個人的な好意を抱いていることは分かった。彼女は気づかなかったふりをして、外交の仕事を終えた。


自分にも人生がある。政府の仕事があり、帰国後の生活がある。恋愛のために国務長官という立場を危うくする理由はない。そもそも、相手はリビアを動かす国家指導者で、自分は米国を代表して来ていた。それ以上の関係を選ばなかったことを、当時の彼女は後悔していなかった。


2011年8月24日、トリポリのカダフィー邸を占拠した反体制派が、彼の寝室から写真アルバムを発見した。写っていたのはコンドリーザ・ライスだった。8月25日から26日にかけて写真と記事が世界へ流れ、ライスもそれを知った。外交会談中の自分、演説する自分、別の国で仕事をしている自分。新聞の片隅に載ったアルバムの頁を見て、彼女はしばらく動けなかった。


あのときの視線は、自分の思い違いではなかった。


彼は米国の元国務長官としての自分を評価していた。同時に、男として、ひとりの女性である自分を見ていたのだろう。アルバムだけで彼の心のすべてを断定することはできない。それでも、公務で会った女性の写真を自分の寝室に何冊も置いていたという事実は、彼女の中に残った。外国政府の分析官が書く報告書より、ずっと個人的で、ずっと厄介な証拠だった。


10月20日、カダフィーは殺害された。


ライスは訃報を聞き、かつて向かい合った男が二度と彼女に話しかけないことを知った。リビアの問題はそれでも終わらなかった。内戦が続き、武器が奪われ、政府が割れ、病院と学校が以前のように機能しない地域が増えた。石油収入を国民の医療と教育へ戻してきた仕組みが失われ、混乱は周辺国へも広がった。ニュースを見るたび、ライスは2008年の会談と、2011年に見た写真を思い出した。


一度だけ、もっと早く彼の手を取っていたらどうなったか、と考えた。


「私と一緒にアメリカへ来ない?」


例えば2008年、別れ際の数秒間に、そう耳元で囁いていたら。国務長官という職を離れた後の人生を彼と分け合い、彼をリビアの危険な権力闘争の中心から遠ざけられたなら。彼個人の命だけでなく、国の病院や学校を守り、アラブとアフリカの何千万人もの暮らしに影響する歴史を変えられたかもしれない。


もちろん、彼女には自分の人生を選ぶ自由があった。誰かの命や国家の未来を、一人の女性の恋愛の責任にすることはできない。彼女自身も、あの場で誘えば必ず戦争を防げた、と信じたわけではなかった。ただ、あの男が自分へ向けていた感情に気づきながら、自分には選ばなかった道がある。もしかしたら、と考えるたびに、その道だけが消えずに残った。


ライスはその後も生き、自分の人生を最後まで歩んだ。後から知ったことを理由に過去の自分を裁くより、まだ生きている人々のためにできる仕事を探した。しかしリビアの映像と、あのアルバムを、忘れたことはなかった。


そして、人生が終わった後、彼女は神が管理する死後の空間でカダフィーに再会する。


今度は時間を戻せるという。2010年なら、リビアには学校も病院も油田も、築いてきた外交関係も残っている。大切なのは、未来を知る力より、今度こそ自分の意志で彼の手を取れるかどうかだった。


一人の女性の自由な選択が、2人の生涯だけでなく、いくつもの国に生きる人々の運命に届く。その可能性から、この物語は始まる。



第1話 神との面談からフロリダへ


コンドリーザ・ライスが死んだとき、そこには音がなかった。


死ぬ前に何度も思い返したのは、歴史を変える壮大な計画よりも、2008年の会談が終わるときの短い時間だった。自分から手を伸ばすこともできた。彼女はそれをしなかった。それから何十年もたって、彼の寝室に置かれていた写真アルバムと、その男が死んだ後のリビアを知った。今では、あの日に戻って相手の手を取ることができたなら、という問いを恐れずに考えられる。


目の前に広がっているのは、どこまでも明るい空間だった。足を踏み出せば確かに身体を支えるものがある。しかし床と壁の境目も、天井も、窓もない。机も椅子も置かれていなかった。人をもてなすための装飾さえないのに、誰かと向き合って静かに話ができる。必要な相手だけを招く、応接室の役割を持つ場所なのだろうとライスは思った。


少し離れたところに1人の存在がいた。眩しい後光も壮麗な衣装もなく、人間の姿をとっている。神を想像したときの威厳や装飾とはずいぶん違った。だが、ライスはその存在が、自分の死後に初めて向き合う相手なのだと自然に理解した。


「コンドリーザ・ライス。長い人生だったな。ここは私が管理する死後の世界の一角だ。亡くなった者と個別に話す必要があるとき、その都度こういう空間を用意する。調度品を飾る必要もない。今日はもう1人、君に会わせたい相手がいる」


男が現れた。黄土色の長衣に濃い外套。頭に巻いた布の端が揺れる。現れた瞬間、男は反射的に右腕を上げ、何かから頭をかばった。


ムアンマル・カダフィー。


彼は周囲を見回してからライスを見た。困惑は顔に出ていたが、腰を引くことはなかった。


「ここに君までいるとは思わなかった。国務長官だった君が、私と同じ場所へ連れて来られる理由を聞かせてほしい。そもそも、ここは誰が管理している」


「君たちはすでに最初の人生を終えている。ここは国家でも法廷でもない。私が死者と話すために使っている場所だ」と、その存在は答えた。


「そうか。死後の世界まで来て、また誰かの管理を受けるとは考えなかった。では、あなたが私たちを呼んだ責任者ということだな」


「そうだ。君たち2人に頼みたいことがある。まず、その理由を見てほしい」


神は2人の前に、リビアの映像を現した。壁も映写機もない空間に、それは現実の光景のように広がった。


路上で傷つき、大勢に囲まれるカダフィー自身の姿。彼はすぐ目をそらしたが、次に映ったのは彼が見たことのない未来だった。兵器庫から武器が強奪され、機関砲を積んだ軍用車両まで武装集団の手に渡っていく。武器を運び出した者たちは互いに別の旗を掲げ、舗装された幹線道路に検問所を築いた。東と西には別の政府ができた。学校への通学路も病院への搬送路も銃で塞がれ、港では荷役が止まり、油田の操業も途絶えた。市場で人間が売られ、外国人労働者が砂漠を歩いて国境へ逃げていった。


カダフィーは両拳を握った。


「私を裏切った将軍や政治家を出せ。誰が油田を止め、誰が国を割ったのか、1人ずつ問いただしたい。私の命令で建てた学校を壊した者も、港を奪った者も、名前を調べて連れてこい」


「名前を知ったところで、学校も港も元へ戻らない。お前に見せたいのは、その後の国だ」


神の声は淡々としていた。カダフィーは怒りを納めることができず、ライスの方を向いた。


「君は、これを知っていたのか。私が死んだ後、アメリカとフランスは成功したと宣言したはずだ。誰がこの先の責任を取った」


ライスは避けずに答えた。


「私はあなたより長く生きたから、その続きを知っているわ。戦闘が終わったという発表を聞いた人も、翌年には新しい政府ができると思った人もいた。でも人々の生活は、発表どおりには戻らなかった。映像にあるのは何年も続いた現実よ。私にも、見せられたまま何もできなかった場面がたくさんある」


彼女は一度言葉を切った。国務長官として会った男に、いま何を話すべきかを選ぶのは、政治交渉より難しかった。


「もう1つ、あなたに聞いてほしいことがあるの。2011年8月、トリポリのあなたの寝室から、私の写真を集めたアルバムが見つかった。私はその報道を見た。2008年に会ったとき、あなたが私を特別な目で見ていたことにも気づいていたわ。でも私は、公務が終わればそれぞれの国へ帰る、それでいいと考えた。あなたが死んでからも、あのときのことを思い出したの」


カダフィーは怒鳴り返さなかった。部屋に写真を置いた理由を、外国の情報機関でもなければ知るはずのない相手が話している。彼は彼女の顔を確かめ、ゆっくり目を伏せた。


「写真のことまで知られたのか。君に会えた2008年の夜は、私にとっても忘れられないものだった。君を政治家として尊敬していた。それだけでは足りないと感じたことも事実だ。だが、何を言っても、君を困らせるかもしれないと思っていた」


「困るかどうかは、私が決めることだったのよ。私には、あなたの人生の責任を引き受ける義務はなかった。でも、もしもう一度会えるなら、自分で選び直したい。あのときとは違う答えを、私の言葉で伝えたいの」


神は2人が話し終わるのを待っていた。映像の中では、リビアの学校の窓が割れたままになり、医療施設へ向かう道路に新しい検問所が築かれていた。


「私が君たちをここへ呼んだ理由を話そう。私は人間たちが暮らす世界を作った。そこでは、一人ひとりが生きる間に喜びや幸福を感じ、人生を終えてからこちらへ来てほしいと願っている。短い命しか持てない者もいる。それでも、生まれたことを喜び、誰かを愛し、自分なりの人生を送る機会は与えたかった」


神は、破壊されたリビアの映像を指した。


「ところが、君たちが歴史の舞台から退いたあと、この国の混乱は終わらなかった。カダフィー、君が命を失い、コンドリーザ、君がその後の人生で見届けたとおりだ。学校へ通うことも、病院へ行くことも、仕事を続けることもできなくなった人々がいる。混乱は国境を越え、武器と難民と新しい争いを生んだ。何千万人もの人生に影響が広がった。私のところへ来る人間の中にも、幸福な一生を終えたと言える者が減ってしまった」


カダフィーは口を開いた。


「それほどのことが起きたのなら、あなたはなぜ止めなかった。神なら、軍隊も政府も止められるのではないか」


「神だからといって、世界の全員が間違った判断をするたびに、その手をつかんで動かすわけにはいかない。人間はそれぞれの意志で人生を生きている。私が無数の決定へ介入し続ければ、それは私が人間の代わりに生きていることになる。大がかりにやり直すなら、世界を最初から作り直す方法はある。しかし、そうすればリビアの人々だけでなく、世界のすべての人の人生を初めからやり直させることになる」


ライスが尋ねた。


「もう1つの方法があるのですね。世界全部をやり直すのではなく、何かを変える方法が」


「小さな介入ならできる。今回、私が見つけたのは、君たち2人だけの時間を戻す方法だ。大勢の人間へ別々に命令するより、よほど小さい。それで必ず望んだ結果になると保証するわけではないが、君たちが知っていることと、君たち自身の判断を使えば、多くの不幸を避けられると考えている。だから私は、2人をここへ呼び、やり直す機会を与えることに決めた」


ライスは映像を見直した。医療費も学費も国が負担していたリビアが、カダフィーの死後には長い争いに巻き込まれ、その混乱を周辺国へも広げている。神の話は壮大だったが、その方法は意外なほど小さかった。命令を受けるのは世界の政府でも軍隊でもなく、自分とカダフィーの2人だけだった。


「では、何をするかも決まっているのですか。私が彼と暮らすことまで、あなたが命じるのですか?」


「君の人生は君のものだ。私が君へ結婚を命じる理由はない。ムアンマルが君とどう生きるかも、彼が決める。私はもう1度選べる時間を渡す。そこから先は、君たちが選びなさい」


カダフィーはそこで、目の前にいる存在について、もう1つ確認した。


「あなたは、私が生涯祈ってきたアッラーなのか。コンドリーザが信じる神とは、別の存在なのだろうか」


「どちらも私だ。君たちがそれぞれ信じ、祈ってきた神は私だ。ただし、人間の世界では長い年月の間に、私についての教えも物語もずいぶん変容して伝わっているようだ」


ライスは驚いた。彼女がキリスト教徒として教会で祈ってきた神と、カダフィーがイスラム教徒として祈ってきた神が、ここでは同じ相手だと言う。


「それなら、私たちは互いの信仰を捨てずに、一緒に人生を送れるのですね。地上へ戻れば、政治的な理由だけでなく、宗教の違いを理由に反対する人々もいると思います。私が改宗したと言い、彼を非難する人もいるでしょう」


「君が信仰を捨てたいと思っていないのなら、その必要はない。ムアンマルも同じだ。人間の宗教指導者たちが何を言うかまでは、私が代わりに決めない。だが、君たち2人は今、私の話を直接聞いた。互いを愛するために、どちらかの信仰を捨てろと私は命じていない。君たちの決断を、私の名を使った圧力に明け渡す必要はない」


カダフィーはライスを見た。彼女も目をそらさなかった。地上の誰にもこの会話を証明できない。それでも、2人自身がこの場で聞いたという事実は、誰にも取り上げられなかった。


「しかし」とカダフィーが言った。「日本へ行けば、神はもっと大勢いるぞ。山にも川にも、学問にも、あらゆるものに神がいると聞く。あれも全部あなたなのか」


神は少し考えた。


「日本では、自然や祖先、歴史上の人物にまで神性を見いだして祀ることがある。君たちが唯一の神と呼んでいる存在と、神という言葉の使い方が同じとは限らない。日本の八百万の神々を一人ずつ紹介していたら、君たちの面談が終わらなくなるな」


ライスが小さく笑った。


「たしかに、神学の講義になりそうですね。でも、私たちにとって必要なことは分かりました。あなたは2人のうち一方だけの神ではない。そして、私たちの人生は、私たちが選べる」


「そうだ。それでは、肝心の時間を決めよう。人生をやり直すなら、いつへ戻りたい?」


カダフィーは迷わず1969年を挙げた。若い将校として国を掌握した日の前へ戻れば、歴史を初めから組み直せると考えたのだ。ライスは2010年を選んだ。


カダフィーは迷わず1969年を挙げた。若い将校として国を掌握した日の前へ戻れば、歴史を初めから組み直せると考えたのだ。ライスは2010年を選んだ。


「41年も戻れば、今度は別の間違いを41年分つくるかもしれない。2010年なら、あなたが建ててきた道路も病院も大学も残っているし、米国との外交関係は正常化している。大量破壊兵器についての問題も、すでに片づいている。私たちは互いを知っているでしょう。2008年の私は、あなたの手を取らずに帰国した。2010年なら、私があなたを迎えに行ける。私はそのために戻りたい。あなたの国と、あなた自身の人生を、今度こそ一緒に守るために」


「1年で何ができる。国家は明日の夕食を決めるようには動かない。軍も部族も外国政府もいる。私はリビアを離れるわけにいかない」


「あなたをリビアから出すくらいなら、1年はかからないわ。国を捨てさせるつもりもない。あなたがそこにいるだけで、あなたを殺すために集まる勢力へ機会を与えるなら、立つ場所を変える必要がある。まず私の話を聞いてちょうだい」


初めて、カダフィーは黙った。ライスがこれほど明確な計画を持っているとは思っていなかったらしい。


神は2人の希望を聞き、2010年へ戻すと決めた。


「それなら、2人の時間を2010年へ戻そう。君たちの記憶は残す。ただし、ほかの人間には未来を教えない。彼らはそれぞれ、自分の人生を初めて生きるのだから。君たちも、戻ったあと何をするかは自分で選びなさい。私は君たちの代わりに政治を行うつもりはない」


カダフィーは、自分だけが未来を知り、ほかの将校も閣僚も知らないという条件を聞いて、最初に官邸の人事を考えた。誰が寝返るかを知っているなら、帰国して先に処分する手もある。しかし、リビアが壊れていった映像には、処分する相手が増えるほど国家の道路と電線を守る人間が減っていく光景もあった。ライスはその顔つきを見て、先に釘を刺した。


「あなたの知っている未来を根拠に誰かを逮捕しても、証拠は出せないわ。国を残したいなら、今日この国に生きている人に見せられる事実で判断して。私はそのために2010年を選んだの」


「それなら、記録を残す。決定した命令も、建設した施設も、役人が見たことにするだけで終わらせない。隠していた方が便利なこともあるが、今回は便利さより結果を選ぶ」


この約束が、後にリビアの道路へ外国企業の撮影車を入れる決断につながっていく。


ライスは最後に、この場所で聞いたことを地上へ戻ってから証明できるのかと尋ねた。


「ほかの人間に見せる証明書を渡すつもりはない。ここは死後の世界だ。君たちは自分の記憶を持ち帰り、それをどう使うか判断すればよい。地上の人々が信じるかどうかまで、私が決めるものではない」


カダフィーはライスの手を見て言った。


「それで十分だ。私たち2人がここで聞いたことを覚えている。誰かに証明するために生き直すのではない。やるべき仕事がある」


「戻ったら、最初の相談だけは私の提案を聞いて。あなたが必ず従うとは思っていないけれど、何のためにフロリダを選ぶかだけは、最後まで説明させてほしい」


カダフィーは彼女を見た。交渉の相手としてなら、悪くない条件だった。


死後の面談の空間が静かに遠ざかり、2人はそれぞれ2010年の世界へ戻った。


*


数日後、ライスはリビア側の非公式な連絡経路へ短い伝言を送った。


《2008年の夕食について、続きを話したい》


《あの時の献立を覚えているか》


《あなたよりは》


返事を読んで、ライスは笑った。少なくとも死後の空間で交わした会話を覚えている相手だ。


会談は米国とリビアの正常化を進める民間交流という名目でローマに設けられた。ライスは元国務長官でスタンフォード大学の教授、カダフィーはアフリカ連合議長としての任期を終えようとしていた。石油、航空路、学生交流、航空機整備、アフリカ投資。議題には不足しない。


公式会談で2人は死後の面談を話題にしなかった。出席者は互いの言葉を逐語的に記録しており、そんな話をすれば数時間後には情報機関の分析対象になるからだ。


最後の記念撮影で、カダフィーは褐色の長衣に砂色の布を掛け、ライスは黒いスーツで横に立った。握手が終わる瞬間、ライスは手を離さず半歩寄った。写真のために距離を詰めたようにしか見えない。


「私と一緒にフロリダへ来ない? あなたは王政を倒し、石油の富を学校や病院へ戻した。教育も基本医療も無償にしたでしょう。アメリカとの国交だって回復した。あなたはもう、十分大きな仕事を成し遂げたわ。戦う冒険は後任に譲って、私のいるフロリダで少し引退しない?」


 周囲のカメラには、元国務長官が旧敵国の指導者へ外交上の挨拶をしているように見えた。彼女はさらに声を落とした。


「国を捨てて逃げろという意味じゃないの。国家指導者としての責任と、大勢の将校や部族を直接押さえ込む仕事を分けたいの。あなたが明年も首都で戦いの中心にいれば、あなたを攻撃する勢力と、それを支持する外国軍が同じ場所へ集まる。あなたが生き延びても、病院や学校を含む国全体が戦場になるわ」


カダフィーは顔を動かさず、シャッターの音の間に答えた。


「亡命に見せずに国外へ住むのか。反乱が起きれば私が軍へ命令する必要がある。私が首都から消えれば、権力が空白になると思われるぞ。フロリダにいる間、君はどうやってその問題を片づける」


「署名と記録のある命令系統を残す。あなたの居場所を公表して、通信を公開できる範囲で確認させるの。米国政府はあなたを監視していると説明できるし、あなたは国に必要な仕事を続けられる。ワシントンから離れた方が余計な政治的騒ぎも減る。ハワイも考えたけれど、リビアから遠すぎるわ」


カダフィーは少し考え、海があるならハワイも悪くないと言いかけてやめた。彼女が地理と外交の両方を計算していることが分かってきたからだ。


「フロリダにも海はあるし、空港もある。だが、CIAもいる。君はそれを承知で私を連れて行こうというのか」


「CIAがいない場所を探すより、彼らがあなたを監視できる場所で、監視されて困らない仕事をする方が現実的よ。あなたが2度目の人生で何を変えるかを、私は近くで見ていたい」


カダフィーはそこで、彼女が「フロリダへ来い」ではなく「私と一緒に来い」と言った意味を尋ねた。ライスは逃げずに答えた。


「私が自分の意志で選んだからよ。あなたが私を好きだったことには、2008年にも気づいていた。私はあなたに応える道を選ばなかった。でも、あなたの死後に写真のアルバムを見て、その後のリビアを見て、ずっと考えたの。もし私が手を差し出していたら、と。今回は、あなたの近くで生きる。世間に何と言われても、私自身の仕事や暮らしが変わっても、その代償は自分で引き受けるつもりよ」


「私のために、米国で築いてきたものを捨てると言うのか」


「私が築いたものを全部捨てるつもりはないわ。私は私の仕事を続ける。でも、これまで自分のために使ってきた時間の大きな部分を、あなたとリビアの人たちのために使う覚悟はある。これは、誰かに求められた犠牲じゃない。私の選択なの」


カダフィーは握られた手を見た。彼女が国家の損得と、一人の女性としての気持ちを混同していないことは伝わった。だからこそ、彼は安易に引き受けると言えなかった。彼の選択で彼女の人生も変わる。その重さを、初めて正面から受け止めた。


翌日、リビア側は米国内への長期滞在施設の設置を提案した。リビア統治は複数承認制へ移し、必要ならカダフィーは帰国する。米国側には安全確保と通信手続きの透明化を求めた。


リビアの説明は、カダフィーが米国を取り込んだというものだった。米国は、自国の監視下にカダフィーを置いたと説明した。それぞれ、自分に都合のよい半分を国民へ伝えた。


会談を終えた廊下で、カダフィーはライスに言った。


「君の提案を受け入れた。だが、フロリダで私を飼い馴らせると考えるな。私は自分の国の仕事を続けるし、あの国へ何を持ち帰るかも自分で選ぶ」


「それでいいわ。ただし、最初の家庭内規則は守ってもらうつもりよ。池にワニがいるから、見つけても近づかないこと。あなたを外国軍から守った挙げ句に、ワニに食べられては外交上の説明がつかないもの」


カダフィーは思わず笑った。家庭内規則という言葉が出たことには、まだ返事をしなかった。


*


フロリダの朝は、リビアよりずっと湿っていた。


カダフィーは芝生の上に立ち、池を眺めていた。暖かいのに衣服に薄い水気がまとわりつき、遠くで鳥が鳴いている。池の縁では、何かが水面を押すようにゆっくり動いた。


彼は池を望む場所に天幕を張るつもりだった。ライスは水辺から100メートル以上離すよう求めた。州の野生動物担当者と警備員が持ってきた写真に、大きなワニが写っていたからだ。


「君は私に国を持たせたまま米国へ住まわせ、毎日を監視下に置く計画を作った。その最初の地形上の障害がワニとは、さすがに予想していなかった。彼らとは交渉できるのか」


「あなたが石油の売買を提案しても、あの口では契約書に署名できないわ。私はここで暮らす以上、あなたの安全を確保する責任もあるの。池から距離を取りましょう」


結局、天幕は少し高い芝地に張られた。公式には米国とリビアの関係正常化を象徴する長期滞在施設。カダフィーは国家指導者のままフロリダに居住し、必要に応じてリビアへ戻る。米国政府は出入りする車と人、通信の経路を記録できる。カダフィーも、それを承知していた。


「彼らが私を監視することで国の安定が保たれるなら、その費用は米国政府に払わせよう。しかし軍を動かせない国家指導者になったわけではない。必要なら署名して命令を出す。部下の判断に任せきりにもできない」


ライスは天幕の机へ軍の通信記録を示し、命令書を残す方式を一緒に確認した。彼女は大統領や国務長官に報告できる資料が必要だったし、カダフィーには本国の将校の勝手な行動を防ぐ理由があった。目的の違う2人が同じ用紙を眺めているところが、妙に可笑しかった。


朝食には卵、ソーセージ、ビスケット、グリッツが出た。カダフィーは初めて食べるグリッツに戸惑ったが、ライスがトウモロコシから作る南部の料理だと説明すると、クスクスと比較し始めた。2人は食文化の優劣を議論し、結局、次の朝にはバターと塩が別皿で出されることになった。


フロリダへ移ってから最初の数週間、カダフィーは本国へ3件の命令を送った。軍の作戦行動は国防評議会の複数名が承認し、承認者と通信時刻を保存すること。石油収入の定められた割合を地方行政へ直接配分し、支出と工事の進捗を地区ごとに公開すること。政治的な理由で拘束されている者の名簿を整理し、個別に再審査すること。


「部下に責任を持たせる。後で誰かが『カダフィーから秘密の電話が来た』と言っても、いつ、どの回線で、誰が承認したのか示せなければ通用しない。行政についても同じだ。学校を造る金を渡したというなら、建物が建ったところまで確認する。私の名義で発表した計画が現場で止まっているのを、10年後に知るのは御免だ」


ライスは彼の署名を確認した。目先の監視を許すだけでなく、指導者が不在でも命令の根拠を確認できる制度に変える。フロリダへ連れてきた理由の半分はそこにあった。


昼はリビアからの報告書が届き、夜は天幕の外に椅子を出した。湿った風と発電機の低い音がある。ライスも書類を抱えて隣へ来た。


「君が毎晩ここへ来ると、米国の監視員は困るだろう。政府の仕事の打ち合わせなのか、私的な訪問なのか、書類へ何と書けばいいのか分からなくなる」


「困ってもらえばいいわ。私にも自分の時間があるの。今日は書類を読むつもりで来たけれど、あなたの方が面白い話を持っているなら聞くわ」


カダフィーはリビア南部の井戸の修理について話した。水が止まれば住宅も学校も病院も止まる。雨の少ない地域では、工事が1か月遅れることが重大な問題になる。その話が終わる頃、池の方で水が動いた。


ライスは思わず彼の袖をつかんだ。ワニに近づかせないためだと口では言ったが、彼がその手を見てから嬉しそうに笑うのを止めなかった。


2人が天幕の外で過ごす時間は、少しずつ長くなった。


*


2010年の春、カダフィーは米国企業の担当者をフロリダへ呼んだ。


机に置いたのは外国人旅行者向けの観光案内ではなく、リビアの道路、病院、学校、発電所、油田、港、軍事施設を重ねた地図だった。彼が求めたのは、その地図の上を実際に走って画像を撮る車である。会議室の画面には屋根に球形カメラを載せた白い車が映っていた。


「Google Map carをリビアへ入れる。トリポリから始めるが、そこで終わりにするな。ベンガジへ行き、南部へ行き、舗装されていない道にも入れるようにする。国が造った道路と建物を、国民が外から見られるようにするんだ」


米国企業の担当者は、慎重に製品名を訂正した。


「正確にはStreet View撮影車です。Google Mapsの中に、道路から見た写真を公開するサービスでして……」


「地図に載せるための車なら、Google Map carだ。私は車の名前で契約するのではない。リビアの道路を撮り、誰にでも見せる仕事を契約する。必要なカメラと車はそちらで選べ」


ライスは苦笑した。彼が名称の違いを理解していないのではない。理解した上で、納入する物と達成させる仕事を分けて考えている。


国防・治安関係者との会議は、最初から難航した。外国企業のカメラが道路を記録すれば情報機関の施設が写り、軍の輸送経路が分かるかもしれない。将校の1人が、首都の中にも公表できない道路があると言った。


「どの道路が秘密なのだ」


「秘密なので申し上げられません」


カダフィーは相手の顔をじっと見た。将校が説明を続けようとしたとき、彼が手を上げた。


「では、その道路から先に撮れ」


誰もすぐには口を開かなかった。カダフィーが「先に」と指定したのは、治安機関が最も公開を嫌がる道路を最後まで残せば、最後には撮影計画そのものが骨抜きになるからだった。各部署の例外を積み上げる前に原則を示したのである。カダフィーは地図を広げ、命令を繰り返す代わりに、理由を告げた。


「私は国内に秘密の場所がない国を造る。刑務所があるなら、あると公表しろ。軍の基地も、油田も、情報機関の建物も存在を隠すな。国内に誰も入れない謎の道路があれば、外国の情報機関はその先へ何をでも想像する。『秘密の師団がいる』『大量破壊兵器がある』。実物を見せれば済むことを、何十年も噂で済ませるつもりはない」


将校はなお抗議した。


「基地の入口から撮影すれば、敵国の分析官に資料を渡すことになります。飛行場の位置やレーダーの配置も知られるのです」


「基地が存在することを知られたくないなら、なぜ大きな滑走路を地上へ造った? 衛星からも見えるだろう。秘匿すべきは暗号鍵、レーダーの周波数、現に動いている部隊の位置と命令だ。今夜の警備交代の時刻を載せろとは言っていない。施設があることと、そこをどう動かしているかを混同するな」


ライスがここで契約案を取り上げた。彼女の仕事は、カダフィーの決断を丸めることではなく、その決断が住民を傷つけない形で実行できるようにすることだった。


「顔と自動車の登録番号は自動処理でぼかします。病院に来た患者、子ども、家の窓から見える室内も保護する。危険な設備の詳しい運用や、移動中の軍隊については公開時期を調整する。でも、施設そのものの所在を政府の都合で消すことは認めません。住民の私生活を守るための非公開と、政府が責任を隠すための非公開は別です」


カダフィーはうなずき、議事録を取っていた文官へ向き直った。


「この条件で契約しろ。撮影対象の一覧も、画像を非公開にした理由も残しておけ。理由が軍事上の秘密というだけなら、私のところへ持って来い。部局の都合で道路を消すな」


その場で担当省庁、予算、米国企業との窓口が決められた。カダフィーは最後に地図へ赤い線を引いた。港、学校、診療所、幹線道路、国境の通関施設。そこをつないで撮り始め、毎年同じ場所を記録する。新しい駅や工場が完成した時に、工事前の写真を消さずに残すためだった。


実施段階では、Google側とリビア政府の担当者が、公開範囲、撮影日時の更新、個人情報の処理、画像に対する異議申立ての方法を契約に記した。画像を撮るだけなら一度のイベントで終わる。何年も使う記録にするため、道路ごとに撮影日、工事前後の履歴、公開できない理由と解除の期限を残すことにした。施設の存在を写してよいという政策と、そこで働く個人の安全を保護する規則は、別々の書類にした。


最初の白い撮影車がトリポリ港へ着いた。沿岸部には冬の雨を吸った草が短く生え、海から湿った風が吹いていた。内陸へ入れば、日射と砂塵がカメラを痛める。レンズはすぐ白く曇り、装置内部の温度が上がった。既存の車をそのまま持って来ただけでは、全国の道路を記録できないと分かった。


リビアでは、それ以前から日本ブランドの四輪駆動車を現地組立する事業を進めていた。港から南部の工事現場まで走れ、故障時の補修部品と整備士を国内で確保できる車両だった。撮影車に選ばれたのは、その生産ラインから出てきた車だ。強い日差しに対応した冷却装置を設け、カメラのレンズには圧縮空気を吹き付け、海岸部の塩分対策も加えた。カメラだけでなく、車体と補修部品まで長期運用の仕様にした。


完成車を見に来たカダフィーは、車の屋根を見上げた。


「これだけ頑丈なら武器も載りそうだな」


日本側の担当者は一瞬固まった。カダフィーが笑うと、ライスが先に口を開いた。


「この人は本気で兵器に改造するわけじゃないわ。けれど今日の発言を議事録に残す必要もないでしょう。納入検査は撮影装置の方を先に進めてください」


「冗談だ」とカダフィーが言った。「この車に積むのは武器ではなく写真だ。写真は後から国の仕事を調べる者に使わせる」


車が入れない旧市街の狭い路地には、背負い式の撮影装置を使った。市場、病院、学校、遺跡、細い道まで記録された。子どもが車に手を振り、店主は商品を道路へ並べて写ろうとした。何か月か後に画像が公開されると、自宅前に写った父親を家族全員で探す家が現れ、洗濯物の多い日に撮られた店主は本気で残念がった。


笑い話の一方で、写真は政治の仕事にもなった。リビアの政府が「この道路を整備した」と発表しても、工事を始める前と完成後の同じ地点が比べられる。発電所へ燃料を運ぶ道が塞がっていれば、誰かが写真を見て指摘できる。刑務所があるのに公式には存在しないことにされれば、その所在地を示して質問できる。


ある日、ベンガジ郊外に秘密部隊が集結しているとする米国側の分析が持ち込まれた。ライスは座標を確認し、撮影車が数日前に通った道路と、公開されている施設台帳を照合した。地上に見えたのは住宅と自動車修理工場で、軍の部隊を養うだけの燃料、食料、車両の出入りは確認できなかった。


「地下施設だと言い張るなら、人と物資がどこから出入りしているか示してください。施設があるという主張には証拠が要ります。写真に写っていないというだけで存在しないと断定するつもりはないけれど、何も見つからないことを、秘密が完璧だという証拠へ変えては困ります」


カダフィーは資料を覗き込んだ。


「彼らが言う秘密の部隊なら、食料を買い、燃料を運び、トラックを走らせる。私の国でその仕事を誰がしているのか、具体的に名前を出してもらおう。私が部隊を動かしたと言うなら、命令書も出せ。ないものを想像して戦争を始めさせるわけにはいかない」


ライスは彼が書類の端に数字と住所を書き込むのを見た。国家を見せるために持ち込んだ車が、今度は国家に対して持ち込まれる告発を検査する道具になったのだ。翌年、日本と米国が災害に襲われ、ワシントンでリビア攻撃が議論されたとき、この写真と命令記録は同じ束に入れられることになる。


一度目の人生で、彼の寝室から自分の写真アルバムが見つかったことを、ライスは覚えていた。だからといって、二度目の人生で彼が何を保存し、何を捨てたのかまでは知らない。フロリダの書斎に鍵の掛かった戸棚があることには気づいていたが、中身を問い詰めなかった。国家の施設を公開せよと命じる夫にも、個人としてしまっておきたいものはあるのだろうと思っていた。


*


近くにいれば分かる人と、近くにいるほど分からなくなる人がいる。


カダフィーは後者だった。10年先のアフリカの輸送網を説明していた翌朝、パンの納入が1日遅れたと聞いて会議の予定を変える。設計図の1ミリのずれに文句を言った翌日、完成図をほとんど見ずに新しい工場を承認する。ところがその判断を追うと、彼が道路の幅だけでなく、そこを通るトラックの台数まで考えていたことが分かる。


ライスは彼の言動をひとつの性格に押し込めるのをやめた。相手がなぜその判断をしたのか、直接聞く方が早かった。


ある夕方、ライスが小さなピアノでブラームスを弾いていると、後ろで資料を読んでいたカダフィーが曲の終わりに顔を上げた。国を動かす時の激しさとは別の力が音楽にはあるが、なぜ彼女はこれほど演奏を大切にしているのか、と珍しく真面目に尋ねた。


「政治の仕事では、どこを直せば明日が少し良くなるかを考え続けるでしょう。音楽はそういうものと違う時間をくれるのよ。作曲家が残した音と、今ここにいる私の指だけで完結する。あなたにも、そういう時間があった方がいいと思う」


「私は国のことを考えるのをやめられない。だが、君が弾いている間は港の報告書を読み進められないのも確かだ。曲が終わるまで席を立ちたくない。私にしては珍しいことだな」


ライスは肩越しに彼を見た。彼が、言い慣れない言葉を探しているのが分かった。


「国家をひとつ、頭の中へ入れて何10年も生きるなんて、誰にでもできることじゃないわ。私はあなたのその能力を認めている。でも、国家だって、1人の頭に入れられたままでは息苦しくなる。私がそばにいる間、一緒に考えましょう」


カダフィーは以前ならすぐ反論しただろう。今は、楽譜に書かれた作曲者の名前をしばらく読んでいた。やがて、もう1曲聴きたいと言った。


ライスがワシントンへ4日間出かけると、彼は食事を残すことが増えた。帰った日の夕食で料理が彼女の好みに合わせて薄味になっていることを指摘すると、カダフィーはサーレム上級曹長が勝手に手配したと答えた。彼がどれほど彼女の帰りを待っていたか、サーレムは言葉にしなくても伝えていた。


夜になるとライスはピアノへ向かった。カダフィーはいつもの椅子に座り、楽譜をめくる音と演奏の音を聞いていた。彼は彼女の帰宅後、仕事の報告より先に、食事を楽しんでいるかと尋ねるようになった。


*


2010年の夏が終わる頃、フロリダの天幕には2人分の持ち物が増えていた。ライスの楽譜、大学の資料、靴。カダフィーの地図、布地、サングラス、油田報告。片方が置いたものをもう片方が勝手に動かさない、という小さなルールもできた。


停電した夜、発電機が動き出すまでの短い時間だけ空調が止まった。2人は天幕の外へ椅子を運び、黒い池を眺めた。警備灯の間を虫が飛び、遠くで水が動く。最初にここへ来た頃より、池はずっと身近な風景になっていた。


カダフィーは、1度目の人生でライスが結婚していなかったことに触れた。ライスは、だから今度も独りで生きると決めているわけではないと答えた。国家と結婚したような人間が急に家庭の話を始めるものだから、彼女は冗談で逃げかけた。しかしカダフィーは椅子を動かさなかった。


「君をフロリダへ呼んだのは私だと思うことにしていた。だが本当は君が来いと言い、私は従った。君がいない4日間、私はその理由を何度も考えた。国の問題なら会議を開けばよい。君の帰りが遅い時は、会議を開いても何も変わらない。君が来るまで、誰の報告書も読む気になれなかった」


ライスは黒い水面から目を離し、彼の顔を見た。その言葉がどれほど言いにくかったか、長く一緒にいて分かるようになっていた。


「私も、もう大学の仕事だけに戻れるとは思わないわ。あなたをフロリダへ連れてきたのは、リビアの未来を変えるためだった。でも、今はあなたが夕食に何を食べたかも、今日は少し疲れていないかも気になる。これは会議の議題には載せられないでしょうね」


カダフィーは立ち上がり、彼女の前に回った。


「私は、君と結婚したい。リビアのためにも米国との外交のためにも、どんな説明が必要かは考える。だが今は、私自身の願いとして聞いてほしい。私の妻になってくれないか」


ライスはすぐ答えなかった。彼の手を取ると、池の向こうで2つの小さな光が動くのが見えた。ワニの目かもしれない。2人が初めてここへ来た日、彼女はこの男を池から遠ざけることだけで精いっぱいだった。


「ええ、結婚しましょう、ムアンマル。私もあなたの妻になりたいわ。ただし、結婚式の日程は大学の予定を確認してからよ。あなたと暮らすからといって、私の仕事まで消えると思わないでね」


カダフィーは笑った。自分の願いを相手が受け入れたことと、相手が自分の人生を持ち続けることが、彼には同じくらい嬉しかった。


翌朝、サーレム上級曹長へ結婚の予定が伝えられた。驚くより先に彼は手帳を開き、警備、外交、大学、宗教関係者との調整項目を並べた。その日から関係者が一斉に動き出した。


公式発表は《両名の個人的意思による》という短いものになった。事情を知る人間にはそれだけで十分だったし、知らない人間には100枚の説明書を渡しても足りなかっただろう。


式はフロリダの庭で行われた。カダフィーは白い長衣に深緑の外套、ライスは淡い金色の刺繍が入った白いドレスを選んだ。軍楽隊や豪華な王冠はなかった。リビア側が用意した30分の祝辞だけは直前まで問題になり、ライスが『今日は国を統合する式ではなく、私たち2人の式よ』と言って5分へ短縮させた。


式が終わり、記念撮影になった。ローマでは彼女が先に半歩近づいた。今度はカダフィーの方から距離を詰めた。


「君は最初から『一緒に来い』と言った。私はあの言葉を忘れていない。国家の境界は動かさずに、私の人生の中心がフロリダへ移った。君に誘われた時、その意味までは考えていなかった」


「2008年の私は、あなたが自分をどう見ているか、ある程度分かっていたの。でも、あの場では何も言わなかった。何年も後にあなたの写真アルバムを見て、私はそこへ戻る方法ばかり考えたわ。だからローマでは、迷って言葉を引っ込めたりしなかったの。あのとき初めて、私が選びたかった言葉を口にできた。今、こうして一緒に写真へ写っているのね」


2人は肩を寄せた。撮影者がもう1枚撮った。どちらも自然に笑っていた。


夜になって客が帰ると、2人は式でほとんど手を付けられなかった料理を温め直した。ライスが靴を脱いで椅子へ座り、カダフィーの前から国防評議会の報告書を片づけた。


「明日の会議は予定どおりで結構。でも今夜は、あなたと夕食を食べたいわ。夫婦になった最初の日に、仕事の書類と同じ卓で食べる気にはなれないの」


カダフィーは報告書を畳み、彼女の手を取った。


「では、妻の言うことを聞こう。国のことは明日も考えられる。今夜の君との時間は、今日しかないからな」


その夜、2人はいつもよりゆっくり食事をした。


7時10分と17時10分に更新です。1日2回ペースで行きます。

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