4.マグロではなくサバですの?(終)
一時間後、アルフレッドは王城の長い廊下を走っていた。
普段の気品ある佇まいを殴り捨て、息を切らし駆ける王太子の姿に、すれ違う年若いメイドたちが驚いて足を止める。
その瞬間、アルフレッドの胸に言葉にできない感動が押し寄せた。
(見える……!顔が、ちゃんと人間の顔が見える……っ!!)
ついさっきまで、エラ呼吸をするタラやホッケにしか見えなかった年頃の娘たちが、今はごく普通の少女の顔として視界に映っている。
世界はこんなにも、人間の顔で溢れていたのだ。
走りながら、アルフレッドはつい先ほど学園のホールで行われた、ミアへの取り調べを思い出す。
『の…呪いって何のことですか…!?私、ただの、魚屋の娘で…!!』
アルフレッドの失脚を狙う術者かと思われた、栗色の少女――ミアには、驚くほど呪いの自覚がなかったのだ。
彼女はただ、憧れの王子様と仲良くなりたい一心で、古本屋で見つけた怪しげな古い本に載っていた『恋のおまじない』を試しただけだと白状した。
『学園に通う頃にしっかり効果が出てほしくて、だから毎日、売り物の魚を活造りにして、神様にお祈りしてただけなのにぃぃ……!!』
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら供述するミアに、アルフレッドは頭が痛くなった。
呪いの効果については完全に無自覚。だが、効果を強めるために毎日新鮮な魚の活造りを大真面目に捧げ続けていたせいで、数日で解けるはずの呪いが三年間も持続されていたのだ。
トゥーニャの仮説は正しかった。そして――。
『もうおまじないなんて試しませんので、許してくださいぃぃぃ!』
その言葉がミアの口から飛び出した途端、アルフレッドの視界を覆っていた呪いが、ガラスの割れるような音を立てて粉々に砕け散ったのだった。
「はぁ、はぁ、……トゥーニャ……っ!」
階段を二段飛ばしで駆け上がり、目指す部屋へと突き進む。
呪いが解けた今、すぐにその顔が見たかった。
三年間、あの絶望的な視界の中で、ずっと自分の手を引き、支え続けてくれた、あの愛しいマグロ――いや、最愛の婚約者の本当の顔を、今度こそしっかりとこの目に焼き付けたかった。
息を荒くしたアルフレッドは、ついに彼女の部屋の扉の前へとたどり着き、勢いよくそれを押し開けた。
「トゥーニャ!! 呪いが解けたぞ!!」
「あら…?」
そう言っておっとりとした動作で振り返ったのは、ふわふわとしたグレーヘアと、刻まれた目尻のシワが愛らしい………どう見ても祖母世代の女性。
アルフレッドの思考が急停止する。
(トゥ、え?誰??しかし、トゥーニャの部屋にいたということは……。そして、この普段のトゥーニャにそっくりな、おっとりとした仕草。もしや……!)
激しい動揺のあまり、3年間の魚類識別訓練で鍛え上げられた王子の脳細胞が、とんでもない方向へと全力疾走を始めた。
「トゥーニャ…??…お前……年齢、サバ読んでたのか…?」
「マグロではなくサバですの?」
「!?」
後ろから聞こえてきた、三年間聞き続けてきた声音に、アルフレッドは思わずビクッと飛び上がった。
慌てて振り返ったそこにいたのは、一人の年若い令嬢。
照明の光を浴びて艶やかに輝く黒髪と、まるで深海から掬い上げたかのように黒く、キラキラと輝く瞳が印象的な、息を呑むほどの美少女で――。
「黒い、ダイヤ……」
「やはりマグロの話…??
どうかなさいましたか?アルフレッドさ…」
言い終わるよりも早く、アルフレッドは彼女の華奢な体を、二度と離さないとばかりにしっかりと抱きしめた。
「お前がトゥーニャなんだな…!!」
「あ、アルフレッド様!?どうされましたか!?その……お祖母様が見ておりますが……っ」
「あら、トゥーニャは、照れるとすぐ顔が赤くなる癖はまだ治ってなかったのねぇ」
そう言って、うふふと上品に笑う御婦人。
(そうか、トゥーニャのご祖母だったのか……。
トゥーニャには、そんな可愛い癖もあったんだな。……これからは、俺もそれが見られるのか)
その喜びを噛み締めながら、アルフレッドは、珍しく慌てている婚約者の言葉をあえて無視して、しばしの間、その温かな抱擁を全力で満喫するのだった。
――呪いが解けてからひと月後。王城の執務室で、アルフレッドはしみじみと呟いた。
「……トゥーニャが可愛い。なんだあれ。語彙力無くなるくらい可愛い」
「トゥーニャ嬢は昔から可愛いですよ。それをマグロだと言ったのは殿下です」
淡々と書類をめくりながら返してきた側近に、アルフレッドはギロリと視線を向けた。
「お前は三年前のトゥーニャの姿も見てるのか…。……呪いたい」
「すごく物騒!!!やめてください、せっかく呪いから解放されたんですから!」
理不尽な八つ当たりに震え上がる側近をよそに、アルフレッドは手元の資料――今回の『王太子呪詛事件』の書類――に目を落とした。
術者である魚屋の娘・ミアについては、『王子と仲良くなりたい』以外の意図が皆無であったこと、そして本人が泣いて猛省していることから、極刑は免れることとなった。
下された処分は、厳重注意と呪いの古本の没収。そして、今後しばらくの間、王城へ毎朝、新鮮な最高級魚を格安で納品することが、罰として課せられた。
この通常ならば軽すぎる処罰を聞いた時、トゥーニャは「まあ、毎朝美味しいお魚がいただけますのね」とおっとり喜んでいた。さすがは元マグロ、圧倒的な風格。
こうして、長きにわたるアルフレッドの、妙齢の令嬢たちが魚に見える呪いは幕を閉じ、国には再び平和が訪れたのだった。
――それから数年後。
めでたく成人し、誰もが羨む仲睦まじい夫婦となったアルフレッドとトゥーニャ。
二人の初夜の翌朝、王城の侍女たちの間で、ある単語が盗み聞きされ、まことしやかに囁かれることとなる。
「トゥーニャ様がおっしゃってた『マグロ』ってなんのことかしら?」
「あれじゃない?ベッドの上で無反応ってやつ」
「もう!トゥーニャ様がそんな事おっしゃるわけないじゃない!」
「じゃ、夜ご飯のリクエスト?」
「確かにお二人ともマグロはお好きだけど……なんなのかしら…?」
それがベッドの上での話だったのか、夜ご飯のリクエストだったのか、それともただの昔話だったのか…。
真相を知るトゥーニャは、今日もおっとりと笑うのだった。
(めでたし)
♪魚魚魚〜魚を食べると〜
って頭の中でずっと流れてた。




