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5ダース(回想)不透明な存在感





 時計が深夜2時を差していて、手を止めた。

数学の数式が無機質的に踊っていてそのまま、机に伏せる。


成績を維持する為にと始めたものも、 

すぐ時間が経過してしまうものだ。



 眠りに着く前に、

スクールバッグの中身を確認していると、 

ポケットに入れた名刺が目に留まる。

    

 あの時、

名刺を貰ってから咄嗟に仕舞った。

日々に追われていて存在すら忘れかけていた矢先。


 咄嗟に付いた嘘。

この細やかな町では浮世離れした容姿。

地味で平凡な自身に声をかけられる心当たりがない。




 メゾネットタイプの緒方家は、

2階に香菜の部屋、一階はリビングルームと夫妻の部屋。

ドアを開けるとリビングルームが見渡せて

暗闇で兄がパソコンに向かっている背中が見えた。

仕事の邪魔をしてしまったら忍びないものの、

隠し事をするのは後ろめたい気がした。




「………兄さん」

「おや、香菜。こんな時間にどうした?」



 キーボードに置いた手を止め

回転式の椅子をくるりと、こちらに向ける。

兄は変わらず頬杖を付いたまま、優雅な佇まいを見せている。




「……これ、貰ったの。

私が持っていていいのか、

分からないから、兄さんに渡すね」



 香菜から渡されたのは、一枚の名刺。

それまで眠たげに生返事を返していたのだが

名刺を見た刹那、瞬く間に眠気が覚める程の慟哭を覚えた。

それはスタンガンを浴びた様な稲妻が、脳裏に(ほとぱし)



“エスケープクロックホールディングスグループ


取締役監査役 室長:守山 綾

          Aya Moriyama.”


 香菜は准の様子を伺いながら、目を丸くする。

表情を悟られない様にしながらも、

穏和な声音で 准は香菜に尋ねた。



「香菜、これ、誰から貰った?」



 香菜は目を伏せている。




「……昨日。誰かは分からない。女の人に貰ったけれど

名刺を見ても分からなくて」

「そうか。じゃあ、兄さんが持っておくな」

「……うん。おやすみなさい」

「おやすみ」



 空間に漂う不穏な調和。機敏な表情の変化。

微細な粒子が見えるかの様にそれは

心臓が鼓動を打つ用に呼吸をする様に解り、香菜は感じ取る。

ちらりと見た兄の横顔は、片手で名刺を持ちながら

恐らく名刺の相手を調べている、と思った。



 その眼差しは、複雑味を帯びた神妙なものだった。



(なんだか、不味い事をしたのかな……)








 名刺には、名前と役職、携帯番号。

ベランダに出ると濃紺の夜空の淡い風が頬を撫でた。

何処か憂いの感情に呆れが混じり、思わず溜息を吐く。



(哀傷は、エゴへと変わったのか)



 携帯端末に番号を打ち込むと、

数回のコールの後で彼女は応答した。



「貴方から電話が来るとは意外だわ」


 


 思惑を孕んだ声音だというのは分かる。

准は横目に冷めた表情を見せると、



「香菜に会ったのか」

「……あの子、香菜って言うの? 



 そうよ、何か悪い? 

別に良いじゃない? それとも貴方の許可はいるの?」

「ああ」


 

 平然と怜悧な声音で准は告げた。 

基本は娘の意思を尊重しているものの、

姉にだけは“会わせたくない”。



「随分と娘には過保護なのね、だから否定されたりするのよ」

「………否定?」



 夜空の風が、冷笑を誘う。



「貴方は写真の少女を娘だと肯定した。でも娘は否定したわ。

過保護のせいで内心は疎まれているんじゃないの?」


 毛先を(もてあそ)びながら、謳う様に綾は告げる。

それを聞いて准は香菜に対する安堵感と成長を感じた。

恐らく、自己防衛の為に言ったのだ。


 身を護る為に

保身の常套句を彼女は告げたのだろう。



 准は、意味ありげに、微笑んだ。



「_____“残念でしたね”。香菜の方が上手(うわて)だ」

「………‥……え?」



「最後の忠告です。香菜には近付かないで頂きたい。

哀傷を抉る様な真似を繰り返したくないから」



「………ねえ、何故、あの娘に干渉するの?

過保護過ぎるわ。もう16にもなるんでしょ? 

なのに鳥籠に閉じ込める様な真似を、養父のガードが固すぎる。


貴方は合理的思考でしょ? 無駄な事は何もしない筈よ。

傍に置いていてあの子は、貴方に何かを(もたら)してくれるの?」

「………いいえ」

「だったら、何故!!」



 綾は声を荒げる。

感情的な声音に思わず、携帯端末を耳から遠ざけた。



「此方が、あの娘に(もたら)すんです。

救えなかった“あの娘の代わり”に。

不器用な真似でもそうするしかないから」


 “あの娘”に。

その言葉に綾は絶句して、手の力が抜けた。




「これは、完全なる俺のエゴです」

「じゃあ、ひとつだけ訊くわ。

貴方………まさか、“あの娘”の存在を知っているの……?」


 携帯端末を持っている手が震えている。

電話の向こう側からは重い闇の沈黙を佇ませた。

電話の向こうから焦燥感に苛まれているのが、

手に取る様に分かる。


 多少なりとも罪悪感はあるのだろうか。

そう思いながらも悟りを開いた微笑みを浮かべて


「………どうでしょうね」



 淡々とそう告げた。

含みのある言い方に綾は凍り付く。



「ただ、あの日には戻れない事は確かでしょ。

だから見てみたくなった。もしも、“あの娘”がいたのならばと。


 ただ、それだけ。合理的主義に見えて

それは今の俺は感情(エゴ)で動いているのかも知れませんね」

では、と区切って通話を終えた。



    



 室長室で、綾は机に項垂れた。

身体に力が入らなくなる程の消耗を感じながら、机に伏せる。

准は“あの日”を終えて、何かを知っているのだとしたら、

何を悟ったのだろう。



 そして何を行動に移したのだろう。

 どこまで知っているのだろう。



(………仕方なかったのよ)



 けれども、

准があの時、あの娘について、知っているとしたら?





 不意に浮かんだ疑念。

守山家から飛び出した理由が、実は守山の束縛から離れる為、





___それ以外に裏があったと言うのならば?




(切り札を握っているのは、案外____)





 不透明な思惑が確信に変わる。

____准は何かを知ってしまったのだと。

“あの事”が、(おおやけ)になってしまえば、 

世間は黙っていない。


 たちまち守山財閥は崩壊し、価値や信用を奪われる事だろう。

どちらにしろ、このままでは守山財閥の存在感が危ぶまれる。 


(______だったら)




 







 生きている上で、無意味な事はあるのだろうか。



 平穏無事に生きる中で、

自身の生きているという実感が欲しい。

その気持ちだけは、心を呪縛し続けている。



(いや、違和感に慣れていないだけ?)



 本当は求め過ぎているのかも知れない。

兄と義姉に引き取られて優しい平穏を知り、 

やっと呼吸する事が出来た。


 だからこそ生まれた違和感は、

香菜は無視をする事が出来なかった。


 自尊心と尊厳が無かった世界にいた頃、

ぞんざいな闇の世界に自身の個性や自我等は求められていない。



 マリオネットとなり、踊り続ける。

自我は要らない。主の感情さえあれば良いのだ。

求められるものだけを抱けばいい。


 ただ凍傷の如く冷めていく心も要らない。

主の仰せのままに生きれば良いのだと思う様になってから

香菜は自分自身が分からなくなった。





 だからこそ、緒方家に迎え入れられた時、

自身がどれだけ虚しく空白な人間なのか、痛感したのだ。

………そう思う感情は、現在(いま)もどこかで生きている。



 矛盾と違和感。

もうそれらを投げ捨てればいい。

思考放棄してもよいのだ。



(私は、充分に幸せなのだから)



 今日は准がいつも呼んでいる経済雑誌の番外編と

美琴が微笑みそうな新聞記事の内容欄が載っているから

早く点訳をし、作って見せないと。






 新聞配達を終えて、少し早めに帰宅した。

けれども異変の香りは、香菜はすぐに気付いた。


 頬に触れたひんやりとした冷気。

リビングルームのドアのすりガラスから伺える 

淡い黄色の照明の灯っていない。


 必ずと言って良い程に、

微笑ましく待ってくれる美琴の存在感を感じ取れない。




 あの頃に抱いた、

まるで、世界にひとりぼっちでいる様な感覚が

デジャヴの様に襲う。



 香菜は何処か不可思議に思い、

警戒心を募らせながらリビングルームの扉を開けた。






____ただいま、は言えなかった。






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