2ダース (回想) 秘密と内緒
准の視線です。
妹に、言えないこと。
妹に、内緒に秘密にしている事は沢山ある。
願うならば、
“この秘密”は墓場まで持って行きたい。
____そうすれば、あの子も傷付く事はないだろうから。
香菜はあまり自分自身の事を知らない。
それは兄である准が教え伝えていない事も影響している。
一緒に暮らし始めてから数年が経過しているが、
安易に胸の内は明かせないままでいた。
窓際には強風と雨粒が叩き付けられている。
准は憂いた瞳で、頬杖を着いてぼんやりと、
窓の向こう側に降る雨の世界を見詰めていた。
(香菜が、本当の事を知ったら、どう思うのだろう?)
それを思うと、喉元に苦い味が広がる。
(いつ、どうやって、伝えればいいのだろう?)
もどかしさが募る。
名もなき傷心の少女。
せめて深き傷心を追った分、心穏やかに過ごして欲しい。
香菜の置かれていた過去を知り、その姿を見た時に、
切実にそう思い、誓った。
彼女が育った孤児院でも
かつて引き取られた養父母からも
彼女は名を与えられていなかった。
名付けにセンスの自信もないまま、彼女
孤児院の帰り道。
突然、兄と名乗って現れた自身の事を
影を落とした双眸をぼんやりと一瞬だけ
此方に向けてすぐに伏せられていた。
そんな時、
淡い風に吹かれた、花の香りに触れて微笑んだ。
本人は無意識だった、いやしていない、と言うけれど
無垢な微笑みに、菜の花のように強い意志を名に込め
香りは風にも似ていると思い、香りとし“香菜”と名付けた。
名付け親になったくらいで
無論、親らしい事も、兄らしい事も出来ていない。
“香菜が傷心を追う事になった原因の一部は、
自分自身にもあるのだから”。
「………手紙?」
美琴がそう告げると、准は額に手当て項垂れた。
准の手元には、空白の便箋とボールペンが虚空を彷徨っている。
いつもなら白い世界を優雅に踊っているのに、
今日はそれがない。
「言葉って難しいな。真っ直ぐの時もあれば
曲がって伝わる時もあるし」
「どうしたの。急に詩人みたいに」
「……香菜の事、口頭を上手く伝えれる自身がないから、
手紙にすればいいと思ったんだ。でも言葉が浮かばない」
美琴は神妙な面持ちを佇ませた。
きっと香菜が受け止めるにはあまりにも重荷だろう。
けれど伝える責任は此方が何処かであるのではないか。
「………それ、いつ渡すの?」
美琴が訝しげに、視線を送る。
准は口許で指先を支えたまま、静かに首を捻った。
「香菜が成人した時に……かな」
「あと4、5年ね。数字で例えると簡単だけど
長そうで短い様に思うわ。複雑だから………ね」
美琴の声音と表情が影と共に沈む。
香菜に対して、どう綴り残せば良いのか。
解けはしない絡まった糸の様な螺旋は答えを遠ざける。
それは複雑味を帯び、繊細な秘密を、告げにくくさせた。
暫く准は項垂れ、
その姿を見守る様に寄り添っていた美琴だったが
ドアの音がして二人共に我に返り、准は平静を取り繕う。
玄関に向かうと、姿見の前で自身を見詰めている少女。
養父母に気を遣い、
リビングのスライド式のドアは
必ず一センチ開けて空気を読んでから“ただいま”と告げる。
一緒に暮らして数年経つというのに彼女は、
大人の顔色を伺う癖が身に付いていた。
引き取った時は傷だらけだったのに、
今ではその過去すら遠い昔を見詰めているようだ。
大人びた雰囲気と儚い透明感。
目鼻立ちのくっきりとした顔立ちは端正だ。
黒髪のストレートロングヘアには天使の輪が
存在感を示している。
華奢で清楚な出で立ちが、その儚さを増長させた。
ただ今も昔も変わらないのは、
何処となく“物憂げな虚空の双眸”だ。
それだけが、彼女が抱える過去の傷の象徴とも呼べる。
香菜の成長に、喜びと共に複雑さを抱えている。
妹が純粋に大人になる事は喜ばしい事なのだが、
“言えない事”を思うと、心は重りに鎖が錆付く様な錯覚。
無意識のうちに
必然的にまた彼女を傷付けてしまうのではないか。
彼女は何処か掴めない。
自分自身の事について、何も聞いてこない事は
顔色を伺っているのど敢えて聞かないのではないかと思う。
それは遠慮でもない。脳裏にないというのは聡明な彼女には
有り得ないだろう。
責任と役目。
香菜を引き取ると決めた時から、ずっと思っていた事だ。
「…………」
淡い風に煽られる。
髪が乱れるのを気にして、頭を抑え
すかさず、手櫛を通す。
その時だ。
マフラーとの摩擦なのか、指先に静電気が迸る。
何でもない事なのに、香菜は芒洋と手のひらを見詰めた。
吐息は白く、やがて空へと消えた。
(………私は、生き人なんだ)
今でも夢の中に溺れている感覚が否めない。
この一瞬一秒がスローモーションのように見えてならない。
けれども砂時計のように日々は積み重なり、時間は進んでいく。
夢見心地という感覚は否めず、
何処か己は現実には生きていない様な気がするのは
昔からの癖だった。
ネグレクトと虐待からの、
解離性障害から始まり自己防衛の為に欠落させた心。
過去は振り返りたくはない。
____心に薬味が広がるから、ただ、
(___私は、何者なのだろう?)
幼い頃、大人から何度も聞かされたのは
自身は孤児院に置き去りにされていたこと。
語り部は人によって、儚く悲哀に、そして時に怪訝で妬みめいている。
孤児院にいる子供達は
事情がある子ばかりだが、自身が特異に思われ扱われていた。
それは腫れ物に触るみたいに。
経緯が経緯故に、
見たこともない母の性格やその母性本能批判している言葉は、
此方からしてみれば母親を通してからの娘へ向けられた
容赦ない槍のようだった。
8才になる年だった。
突然、兄という人が現れて迎えに来て引き取られたこと。
大人から身内はいないと滾々(こんこん)と教えられてきたのに。
けれども兄は
自らの両親の事を一度も口にした事もなく、
両親に関するものも証拠は存在せず、聞かされた事はない。
香菜から尋ねる事もなかった。
それは、両親の代わりといっても過言ではない二人が居たので、香菜にとっては二人が平穏と安堵の象徴そのものだったから。
他は要らないと思っているから。
けれども、不意に過る。
(___私は、本当に妹………?)
本当は現実逃避がしたくて、
勝手に脳裏がそう思い込んでいるのではないか。
これは優しい夢を見ているのではないか、との思いは絶えない。
足が地についていない宙に浮いた感覚は、
香菜から酷く現実味を奪っている。
欠落してしまった感情。
元から茫洋とした軸のない心を、自身ながら軽蔑している。
そんな夢見心地だと思ってしまうこの世界で、
優しい兄と義姉しか要らない、と思ってしまうのは贅沢だろうか。
兄と義姉が現れてから、香菜の世界は優しい色彩に満ちた。
冷たい水面から這い上がり、今、暖かい空の下にいる。
「右側のお椀にご飯、左側は主食の鮭のムニエル。
右側奥のお椀はお味噌汁、ご飯の手前にある小皿が副菜だよ」
「有難う」
箸を持たせて、丁重に説明する准。
美琴はお礼を言い微笑んでいる。
そんな兄夫婦を見詰めながら、香菜は何処か自身が
邪魔者ではないのかと思っていた。
引き取られてから、二人は香菜に献身的に接してくれた。
いつどきもなんどきも嫌な顔を一つせず。
当時は恋人だった美琴も、
他人である自身を温かく迎え入れてくれた。
兄は身内だと仮定しても、彼女自身は全くの他人なのだ。
拒否権や考えはあってもいいものなのに。
分け隔てない2人に自然と気を遣ってしまう。
「さあ、食べよう。頂きます」
「頂きます」
「………頂きます」
准が席に着くと、手を合せる。
テーブルには美琴が作った暖かな料理が並んでいる。
「そうだ。香菜、電話が来て、兄さん驚愕したよ」
「え? なになに?」
何処かむくれた子供の様な声音。
そう告げた准に、微笑ましく美琴は尋ねる。
香菜はぎこちなく固まりながら視線を伏せると、ごめんなさいと呟く。
「まだ本題に入る前に謝らない、いい話なんだから」
「……え?」
本能的に謝る癖が蘇る。
学校から電話が来たら、自身が何か悪い事をしたのでは、と
思い心当たりを探しながら背筋が凍り安堵出来ない。
潜在意識の本能が警告するのだ。迷惑をかけたくないと。
「学校で書いた作文が、町長さんに表彰されたんだろう?」
「そうなの!?」
美琴が拍子抜けした様に驚いて、
隣にいる准を見詰めた後、向こう側にいる香菜に視線を向けた。
「話によれば
回覧板と、新聞に載ったと言うじゃないか。
役場に足を運んで町長さんから表彰されたって。
『お兄さん、知らないんですか』って言われて顔から湯気が出そうだったよ」
「ふふ、なによそれ?」
「とてもすごい事なのに。どうして内緒にしてたんだよ」
「それは………その………言う程の事でもない、と」
姿勢を前に寄せ、
椅子の背もたれに身を預けると、准はやれやれと手を当てる。
香菜は膝の上に手を置いて、
しどろもどろになりつつ、准と美琴の互いに顔色を伺う。
高校のある授業で綴った作文が、
当日、視察に来ていた町長の目に留まり
香菜の作文は讃えられ町長から表彰された。
言うのほどの事でもない、と思い
日曜日に役場に足を運んで受け取ったら済む話だと思っていた。
カメラマンなのか、記者なのか分からない青年がいて、
当たり障りのない言葉を告げただけ。
騒ぐ周りの大人と香菜自身の温度差は酷く
香菜自身は特段、大した事だとも思わなかった。
それでも
准や美琴は、香菜の些細な事でも喜んでくれた。
むくれた子供じみた態度に、すかさず美琴が助け舟を出す。
「………貴方、子供みたい。
香菜ちゃんもお年頃なんだから
言いたくない事もあるでしょうに。
まるで兄じゃなく姑みたい。
………女心が分からないのは相変わらずねえ。ねえ?」
ご飯を集めながら告げる美琴は、
准に呆れ顔で香菜に微笑みを向けて同調の意を見せる。
香菜も誘われる様に、二度程、頷いて、呟く。
「………そこ? 君達の事は解っているつもりなんだけど」
「いいえ、分かってません。
私、お姑さんと結婚したのかしら。
そしで、天使の様な、香菜ちゃんに逢えたのかしら?」
「………ふふ」
准は固まる。
思わず香菜の表情がほころび、控えめに微笑みが溢れたからだ。
「兄さんも、美琴さんのお話が、おかしくて……」
香菜は過酷な幼少期の翳りの影響から、
あまり表情を変えない。
だからこそ、
准や美琴からすれば、些細な変化だって微笑ましい。
「でも、読みたいな。香菜が書いた作文。な、美琴」
「勿論、是非、読みたいわ」
「………それは、」
価値が分からず、ないものだと思い込んでいた。
綴った言葉達は子供じみた戯言だと思い込んで
新聞に掲載されたページは抜き取り、
回覧板も兄が目を通す前に抜いて、次に届ける時に戻した。
原本は机の引き出しに仕舞ってある。
二人は何も知らない。
「…………だからなのね」
「………え?」
美琴は、微笑ましく呟いた。
「准が何故ご機嫌だったの。まるで遠足に行く子供みたいに
今日の鮭のムニエルも准の希望だったし、
准は魚が苦手なのに可笑しいなって」
「………………」
確かに、兄は魚が苦手だ。
だから実は、香菜と美琴は鮭のムニエルで、
准だけは鶏肉の炒めものである。
料理の品物が別々なので
二人が喧嘩でもしたのかと香菜は内心は固まっていたのだが。
「お祝いと景気付けに、な。
でももっと、派手にやれば良かったかな?」
「嫌だ。私は美琴さんのご飯がいい」
「まあ、嬉しい事を言ってくれるわね。流石、私の、愛娘」
鮭のムニエルは、香菜の大好物だからだ。
香菜の言葉に美琴は控えめに微笑ましく、頬をほころばせた。
(せめて、微笑んでおくれ)
滑稽な煮え湯を飲まされ続けてきた分、
幸福を感じられる様に。
そんな中で、
携帯端末に着信音が鳴る。准の携帯端末だ。
失礼、と前置きを置いて、准は玄関の元に足を進め止める。
画面には知らない番号。
不審に思ったものの、画面をスライドして通話を受け取る。
「はい」
「_____」
「もしもし?」
応答はない。
「………………」
「もしもし? ……切りますよ?」
無言のまま、固唾を呑む音が伝わる。
電話の向こう側の相手の声が聞こえた。
「____私よ。解るでしょう?」
威厳に満ちた声。
一瞬だけ不審に思ったが、全てを悟った時、目を見開いた。
はて、電話の主とは………。
【訂正】
家族の食事シーンに関して
魚のメニューの表記が相違がありました。
長らく気付く事が出来ず、申し訳御座いませんでした。




