16ダース・野心を打ち砕く者
みやかわクリニックは、
心療・摂食障害の治療を主に宮川早生が立ち上げた。
院内には幻想的なパステルカラー絵で彩られている。
宮川にとって、今でも忘れられない患者がいる。
___養父母を殺害した少女、緒方香菜という少女だ。
彼女が少年院送致、となった際に彼女の担当主治医だった。
今にも消えてしまいそうな
少女の事が数年が経過した今でも忘れられない。
彼女はそれよりも強く記憶に爪痕を残す人間なのかも、
と思いながら、ココアを飲んだ。
罪を犯しながらも、
それとは反比例する様に、衰弱していく。
それは時に痛々しい、と思う程に。
あれから素早く、宮川早生が立ち上げた、
緒方香菜の治療プログラムは難を要した。
けれども宮川も何千人と罪を背負う患者と
相対してきた中で、本当は心が戸惑いを覚えてしまった。
緒方香菜のケースは360℃違っていたのだから。
生きていても、無意味。
緒方香菜は何処か自暴自棄的で、
心身共に酷く憔悴仕切っていた。
生きる事を止めている___。
第三者の視点から見ても
宮川が始めに思ったのはそれだった。
少女はまるで、全てを拒絶し、時を留めている様だった。
生への拒絶。
それは全てに見切りを付けて、諦観を抱いている様に見えた。
その姿は衰弱仕切った、今にも壊れてしまいそうな儚さ。
向き合う中で、思い始めた。
____彼女は、本当に、養父母を殺したのだろうか。
宮川は元々、女性看守と並行した医師だった。
周りは養父母を無慈悲に殺害した、
冷酷非情な娘と噂を立てているけれども
一番近くで診察していた宮川から見えた、彼女はそうは見えない。
大人の穢れを知りながらも、
何処か惰性的な無垢な少女。
何よりも夫妻を慕い、
二人の為に生きている健気さは見ただけで分かる。
寧ろ、その二人に対して無慈悲になる事の方が難しいのではないか。
(演技とは思えない)
そんな疑いすら現れる程に。
いつしか宮川早生の瞳に緒方香菜は、
加害者ではなく、被害者遺族の様に見えて仕方が無かった、
最初は点滴を要しての経口補水、
でも最初の頃はいつの間にか、点滴の針が投げ出された。
血管も痩せていたから、採血でも至難の業だった。
低下する体重を抑える為に
彼女を拘束ベルトで留めて、と決断を下した。
人間観察と心配の意を含めて、宮川はずっと少女を見詰めていた。
ベッドで拘束ベルトを嵌められる時も、彼女は抵抗しなかった。
されるがまま、その姿は、まるで壊れた人形の様だった。
けれどもそれが入口で流動食を口にするまで、
普通の食事が摂られるまで、時間を要した。
最初の頃から出所するまで
ずっと暗闇の中で、紙に悔恨の思いを書き綴っていた。
痩せ細った指先が血に濡れても、彼女は変わらなかった。
「ごめんなさい………ごめんなさい……私がいなかったら、
生まれてこなければ…………」
ぎり、と軋む何か。夢に魘された時は
涙声になりながらも、耳を塞ぎずっと悔恨を胸にすすり泣いていた。
悔恨を言葉にする少女はか細く、そしてそれは懺悔そのもの。
女性看守の中には、演技が上手い、パフォーマンス、と
冷ややかな眼差しを向けられていたが、宮川医師は納得出来なかった。
緒方香菜 19××年 3月16日生
【病名】
・PTSD (心的外傷後ストレス障害)
・神経性無食欲症(神経やせ症)
・強迫性障害
・自傷行為
・失声症
備考:全て様子観察中である。
カルテは残っている。
緒方香菜には5年から10 年の不定期刑が下されたものの
それ以上に心神喪失と衰弱が全てを呑み込む程に勝っていた。
7年目の夏、保護観察処分として離れる事が決まったものの、
今、彼女を見捨ててしまったらと、危うさを感じて
宮川医師が引き留めていた___。
社長室に通される。
高価な調度品に包まれた世界は、別世界に訪れたようだった。
けれども海外メーカーの調度品は、ところどころ、傷痕がある。
散らかったデスク。
ソファーに佇む麻緒は、鞄から携帯端末を取り出し、
音声録音のファイルを開けた。
「守山綾様。
先日、専任弁護士の件ですが、今抱える案件が終了次第、
エスケープクロックホールディングスグループの顧問・専任弁護士となる事をお約束致します」
その言葉に、綾の顔色に恍惚さが満ちる。
膨らんだ野望や野心と共に、これで安泰だと綾は安堵する。
加えて麻緒は携帯端末での響介の誓約書である音声データ、
誓約書を差し出す。
元々、渡す様にと、響介から頼まれていたものだ。
綾は微笑みが絶えない中で、麻緒に尋ねる。
「で、涼宮弁護士の案件、いつ終わるのかしら?」
「(それは、相手方様の事もありますし、私には分かりません。
今日は、顧問・専任弁護士になります、という証拠を
夫から預かりました。………正式な予定は未定だと思って下さると幸いです)」
顧問・専任弁護士の責務は承る。
けれども今の案件が終わるまで、待って欲しい。
元々、綾の感情の導火線は短い。
エスケープクロックホールディングスグループの弁護士の席に座る事は決定したのに。
____肝心な本人がいない。
「貴女は、いつ終わるか、把握してるの?」
「………(いいえ)」
麻緒は肩を落として、書き込み続ける。
「(…………夫は仕事を家庭では持ち込みません。
前にもお伝えした様に、私は
普段は多忙な分、家庭では寛いで欲しいのです)」
「出来た妻だこと」
つい口走ってしまった嫌味。
麻緒に背を向け、綾は親指の爪を噛んだ。
それは、危うくまた相手に手を上げる程、感情的に責めてしまいそうだからだ。
相手は専任顧問弁護士の妻。
それに先日の探偵事務所での一件もある。
同じ事を繰り返してしまえば、涼宮響介にも
妻である麻緒を通して何かが伝わってしまえば。
(全てが終わってしまう)
それが頭の隅にありながらも、
自分自身の怒りが、鎮める事が出来ない。
(どうして、泳がすのよ………早く決めてよ!!)
けれども。
(お父様に、軽蔑されて、見捨てられるのは無理。
それだけは、なんとしても嫌)
此方が不利になるだけ。
そして、綾が最も恐れる傑に嫌われて、軽蔑されるだけだ。
それだけはなんとしても避けたい。
(耐えないといけないのは分かってる……)
綾が無言だ。
無機質に麻緒は首を傾けながら、
(まさか己の、感情と戦ってるの?
貴女は、毒を吐きたそうに………)
「解ったわ。帰って貰っていい。気をつけてね」
「…………(有難う御座います。失礼致します」
けれども聞いてしまった。
歯車が軋む様な、歯軋りを。
天秤の皿はまだ傾かない。砂時計は始まらない。
____それが、守山綾の焦燥感だと言うことを。
とあるタワーホテルのレストランフロア。
粛々としながらも凛然とした雰囲気はどことなく和やかな気がした。
響介にエスコートされるままに、麻緒は角の窓際の席に座った。
響介から呼び出された先は、
高級ホテルのレストランフロアでの、ディナー。
夜景に視線を寄せた時、濃紺の空に光りがひとつ、またひとつ。
夜景を見下ろすと絶える事のない人々の息遣い。
きっと、ベッドタウンの光りが耐えないのだろう。
あの日から
麻緒を包む世界は昔の西洋映画の如くセピアカラーだ。
それは漆を塗られた底なし沼の絶望を目の当たりにした日から変わらない。
だからこそこの夜景も、
この双眸が写す何処か非現実で眩しく、何処か場違いな気がした。
『(今日はどうされたのです?)』
無機質なメッセージアプリのチャット。
掴めない距離感、酷い程の他人行儀。
その距離感は変わることは決してないのだ。
利害関係の一致、というだけで、互いに傍に居るに過ぎない。
現に響介の顔を見かけるのは、2ヶ月ぶりだ。
最高裁まで発展した離婚調停の案件に翻弄されていた彼は大丈夫なのだろうか。
けれどもポーカーフェイスが大の得意で
その面持ちは、叔父に似た柔和な微笑みを称えたままだ。
響介は、鞄から静かに縦長のケースを差し出す。
それを麻緒の前に差し出した。
「好きな方の腕を出して下さい」
「……………………」
無意識に利き手を差し出した。
自暴自棄となり、傷を刻んだ腕は今更、隠す気もない。
響介は箱の中にある、シルバーのブレスレットを麻緒の華奢な腕に着けた。
長さを調整されたブレスレットは、控えめに輝きを放っている。
ピンポイントのアクセントには露草色のチャームに。
チェーンの終わりのアクセントは、なにかの印。
麻緒は、不思議そうに眺めていると
「_____今日は、貴女の誕生日でしょう」
誕生日なんて、とっくに忘れていた。
きっと響介は緒方香菜のデータに基いて覚えてくれていたのだろう。
現に緒方香菜だった頃は、
今日が生まれた日だと疑う事もなく信じ生きてきた。
「………何を渡せばいいのか解らないので、
星座のアクセサリーにしました。魚座のブレスレットです」
だからか、
余ったチェーンのポイントは、魚座のマークなのだと気付く。
しかし麻緒はその双眸を伏せる。
「(私には……勿体無い代物てす)」
「お気になさらず。お返しされても困ります。
それに夫婦と説明する際にちょうどよいでしょう?」
彼は、何処までも合理的で論理的だと思う。
そうだ。涼宮麻緒である以上、涼宮響介の妻としての姿であらなければない。
これは単なる、“契約”。
「(素敵なプレゼント、有難う御座います。
素敵ですね。大切にします)」
素直にお礼を申し上げて微笑んで、頭を下げた。
けれども不意に気付く。
本当のものを、麻緒はひとつも持っていない。
人格、素性、誕生日。その他。
なんというべきだろうか。
白は何事にも染められていないから、何者にもなれる。
今は、涼宮麻緒、涼宮響介の妻。
だが。自分自身は白故に、何処か、何者でもなく、何者にもなれず
地に足が着いていない感覚を覚えてしまうのは否めない。
偽りの者には成れても、
本来の素性を知らない自身は、何処か現実で呼吸をしていても
存在感のない様な、そんな気がしている。
____その疑念は消えない。
『___寒い季節だったわ。
混乱しながらずっと時計を見ていたから日付は覚えているの。
娘が生まれたのは19××年の2月27日よ』
不意に脳裏に現れた、守山綾の声音。
自身の生を受けた日を知っても、心の水面は揺らがない。
孤児として名前のない生きた7年。
緒方夫妻の娘・緒方香菜として生きた8年、
涼宮響介弁護士の妻・涼宮麻緒として生き始めた現在。
自分自身は、
偽りの誰かの成れても、本当は誰でもないのかも知れない。
偽りの誰にも成れるという強みと本来の素性を知らないという天秤。
(………またいつか、
誰のものでもない人格になる日は来るのだろうか)
唯一、知ってしまったのは、
守山綾が、生みの母親というだけ。
ただそれだけだ。
後は自身は何者でもない。
守山財閥とは血縁以外、微塵も関係ない。
『貴女が濡れ衣を着せられた罪と向き合うと言うのならば
私は引き換えに協力し、貴女の未成年者後見人となりましょう』
あの日。響介は、そう告げた。
けれども
多感な思春期に、大人の穢れという罠にかかった絶望。
10代の未熟な少女が、そう簡単に割り切れる訳が無い。
叔父夫妻を殺めた真犯人を捜す、途方も無い現実。
不意に窓鏡に写る人物に、無意識に視線を向けた。
冷たい双眸。
(私は、何者だろうか)
『(………伝言、守山社長にお伝えしました)』
「有難う。助かったよ」
『(………どういうおつもりですか)』
「どういうもの、とは?」
『(………もしかして、乗り気ではないのかと)』
麻緒の回答に
響介は目を見開いて驚いた素振りを見せた。
あのボロボロの憔悴仕切った娘の面影はない。
何処までも聡明で博識ある娘に戻りつつある。
(だいぶと、高尚な娘に成長したものだ)
あの日の会食の時、響介が
エスケープクロックホールディングスグループの
専任弁護士にならないか、と持ちかけられた時から感じていた違和感。
今更、気付いた。
彼は、守山綾を、
答えも終わりもない舞踏会で、踊らせているだけ。
“エスケープクロックホールディングスグループの専任顧問弁護士になるつもりはない”と。
乾いた笑い声。
けれどもその柔和な微笑みを、涼宮響介は崩さない。
手慣れた仕草でナイフとフォークを操りながら、ステーキを切り分けている。
「悟られてしまいましたか?
まあ、貴女も大人の事情を悟れるレディーに成ったと喜びましょう」
大人の事情というよりは
大人の欲望渦巻く“穢れ”を悟り敏感になっただけ。
守山綾や、守山財閥には特に警戒心が高くなっただけだ。
響介は、その心の領域に土足で踏み込む真似はさせない。
(…………貴女は、何を考えているの? ___涼宮さん)
ひとつ間を置いて、響介は尋ねた。
「なんでもわがままが通って、心が満たされている者が
当たり前という人間にとって、最も屈辱的なのは、
なんだと思いますか?」
「…………」
「____“抗い”と“逆らい”です。
………守山財閥の娘という事もあり、
彼女の噂と評判は、利己的でかなり大層なものだ。
何でも思い通りに生きてきた、
そんな彼女に訪れる、抗いと逆らいは
最も、かなりの屈辱的で致命的だ」
抑揚のない淡々とした、酷く冷めた声音。
その視線を向けるのも躊躇い、控えている横顔は
刹那的で麻緒の知っている誰でもない様な気がした。
私の持論で、大変申し訳御座いません。