9ダース ・ 謎の点訳士
第二部、10年後のお話です。
「緒方香菜は、どうやら、5年から10年の不定期刑を下されたようです」
「それは確かなのてしょうね?
けど、今はそんなのどうでもいいの!!」
綾は癖である親指の爪を噛んだ。
未成年者後見人となった筈なのにいつの間にか、
それが解除された事に今更、気付いて焦っている。
だからこそ
出所後の緒方香菜の消息は不明である事__それがもどかしかった。
8畳のフローリングタイプの部屋。
遮光カーテンは締め切られているが、隙間から柔く淡い光りが微かに指す。
静寂な中、カタカタ、という音だけが聞こえる。
途中、髪を耳にかけたものの、彼女の手は止まらない。
今月の依頼:5件
“この小説の点訳をお願いしたいです”
“ご依頼承りました。完成までに2周間程のお時間を頂きます。
また完成致しましたら、此方から再度ご連絡させて頂きます。
しばらくお時間を頂きます事を、ご承知頂けると共にご理解頂けますと幸いです。
____涼宮 麻緒”
手元には、パソコンのデスクトップとキーボード。
L字型に置いた机は、パソコン機器を含む機械類やコピー機、
もう一つの机にセッティングされた斜め掛けのボードの上には
点字盤と点字用紙が置かれている。
(すっかり忘れていると、思っていたのに)
身体が、脳裏が、勘と感覚で全てを覚えていた。
涼宮麻緒、もとい、緒方香菜は、そう思う。
(………緒方香菜。
兄さんが付けてくれた記号は、手元に置いてある。
でももう___名乗りたくない。だって穢されたくないもの)
不意に視線を置いた、
机の片隅には、准と美琴の写真が写真立てに納められている。
麻緒はそれに柔く微笑みつつ手を伸ばし、手に取った。
そして憂いた眼差しで、2人を見詰める。
名もなき毒の罠。
罪無き冤罪により、医療少年院に10年過ごした後に、
今は弁護士の涼宮響介の力を借りて、ひっそりと息を潜める様に暮らしている。
現在は、
涼宮響介の弁護士事務所の籍を起き法律関連の点訳士も務めながら、個人事業主として点訳の仕事を担う在宅ワーカー。
そして点訳士としての麻緒の最大の特徴は、
電子連絡のみ、完成した点訳の書類は匿名郵送。
個人でのみ、点訳の依頼を承る。
時に小説、雑誌、果てには手紙等。
地道に地を固めておかげで、最近はじわじわと依頼が増えている。
その点訳は完璧で、麻緒の対応は親切で丁寧ながら、
その存在感は完全的に名前以外は、ミステリアスな存在だ。
あれから、外界に出ることを、拒んだ。
心には鋭利な棘によって引き裂かれた傷痕。
特にPTSD〈心的外傷後ストレス障害〉は根強く、
現在でもあの日に見た凄惨な現場が夢に現れては魘されてしまう。
16歳の時に発症した病は、治っていない。
経過観察を試みながら、自律神経失調症や不眠症を抱えている。
(_____私は、優しい夢を見ていただけ)
(こんな私を救ってくれて、有難う)
(だからこそ
全てを知った今、私は誰にも穢されず、私だけでありたいの)
あの8年が、今の麻緒の心を支えている。
大人に毒され、拭えぬ穢れを知った今は、まだ外界が怖いと思うからだ。
だから基本的に麻緒は家から出たがらない。
軽快な着信音と共に、携帯端末に通知されたニュース記事。
____エスケープクロックホールディングスグループ
会長の娘・守山綾さんがエスケープクロックホールディングスグループの社長に就任。
ニュース記事の通知。
写真には花束を持った満面の笑みの守山綾がいた。
(____哀れな人)
守山綾を見る度に思うのは、この感情だ。
兄の遺言で全てを知った今、麻緒の感情は複雑化した軽蔑さを生み出していた。
無意識的に、
仕事部屋に隣接するスライドドアを開ける。
其処には6畳のフローリングの部屋が併設されていて
窓はない。だから。___それを逆手に取った。
スライド式の関節照明を灯す。
その刹那、現れたのはスライド式の本棚に
ぎっしりと詰められた守山財閥に関するジャーナリストの書籍達。
や、守山家の家系図。壁には守山綾の写真。
出所してから地道に集めてきた、守山家の内情。
守山財閥に関する、
公の場では現れなかった記事や書籍達。
全て守山財閥が権利という圧力で潰されたのだ。
そして
守山財閥に関わりを持ったジャーナリストは皆、
不可解で不可思議な死を遂げているのも特徴的だった。
(何故、こんなにも秘密があるのだろう?)
人は誰にでも秘密がある。
けれども守山財閥は自らの手を穢す事も厭わない。
その代わりに闇に葬ってでも守山財閥が死守したいものは
何を意味するのだろう。
___そんな闇に葬れられた記事や書籍が宝の山の程ある。
守山財閥や
エスケープクロックホールディングスグループの秘密裏はどんなものか。
麻緒の裏の顔は、守山財閥に関する裏事情に翻弄する
ジャーナリストでもある。
壁に貼り付けた守山綾の写真に向かって、
麻緒は挑発的な嘲笑を向ける。
(何も知らずに生きている気分は、どう?)
守山財閥が生み出した、
エスケープクロックホールディングスグループ 社長室。
社長となった、守山綾は秘書に尋ねる。
「涼宮法律事務所、今、人気で知名度を上げて来ているわ。
何故なの?」
「調査致しましたところ、福祉の面で長けているそうです」
「福祉?」
「はい。所長の涼宮響介は、離婚問題に強い弁護士とされています。
また専任の通訳者がいる様で、
その辺りの離婚調停を努めている様です」
「へえ………」
綾は生返事ながらも的を得ていた。
全ては、守山財閥の為に。
エスケープクロックホールディングスグループの株が上がるのなら。
綾は、含みを持った口角を上げる。
「………福祉、ね」
綾は、ペンを回しながら企みを孕んだ面持ちで、そう呟いた。
刹那的に浮かんだ思惑。
「福祉関係の事は、今までの守山財閥にはないものだった。
けれどもそれをエスケープクロックホールディングスグループに
導入すれぱ、守山財閥の名と共に株は上がる事は目に見えていそう。
そうなれば、会長………お父様は、お喜びになる。
守山財閥が命の様な、あの人に、私はもっと愛されるわ」
「そうなれば、ですと?」
「もし、涼宮響介とエスケープクロックホールディングスグループを結び付ければ世間からの株も上がるかも知れないわね」
「それは、つまり………」
「涼宮響介に、この会社の顧問弁護士になってもらうのよ」
「海だけ見て帰りたいとか、禁句だぞ」
「(…………私は、これで充分)」
カーナビの横に置いてある携帯端末のスタンド。
チャットメール型アプリを常に表示してあり、麻緒からの返信は素っ気ないものだった。
麻緒は失声症を患い、現在も回復は望めない。
だから基本的に会話はチャットメール型アプリでの会話である。
たまに弁護士事務所を閉所しては、響介は麻緒を外に連れ出す。
点訳士として没頭するのは良いが、
行き詰まらない様に気分転換の意味も含めて、今日はドライブしている。
ちらり、と響介は助手席を見る。
端正な物憂げを帯びつつも理知的な横顔に背に下ろされたロングヘア。
透明感を帯びた儚い顔立ちは、どことなく可憐さを残しながら優美な女性を連想させる。
あの頃よりももっと、洗練されてとても美人になった。
「君が通訳者として、我が事務所に協力してくれて
有難いと思っているよ。弱者という事を逆手に取り
威張る者は多いからね」
麻緒は何処か上の空だ。
元より読めず掴めず、という性格の持ち主なのだが。
涼宮響介は今も尚、水面下で
あの夫婦殺害事件は解決された事件と言えど、未解決事件だと思っている。
だからこそ調査を続けている中、
客観的に見て冤罪ではないかという先入観は否めない気がするのだ。
緒方香菜のアリバイも
全てが曖昧でこじつけた様な感覚が否めない。
養父母に引き取られながら養父母の教えを一心に健気に成長した献身的な娘。
誰かに静かに寄り添い、そして後腐れなく消える。
涼宮麻緒もとい、緒方香菜は、今もそんな娘だ。
香菜は、変貌を遂げました。
彼女が今も尚、守山財閥に執着する理由はとは。