第参話
眞暦1806年8月12日の早朝。
囮丘の空は曇り、風が出ていた。
「やった。やった。」
出発間際の慌ただしい圃戒仕隊に、喜びの舞を踊る兵が一人。
「うるさいぞ、忞番対。俺が怒られる。」
「やった、描初處から手紙が来たのさ。」
踊る忞番対を叱る吼了欽。しかし吼了欽は一転、
「本当か。そりゃ随分、脈ありだな。」
と、祝福してみせる。
昨夜、戦後処理と陣営の撤去を終えた美獣麾下の一万は、朝のうちに囿治果城に向け進発すべく、現在各隊は最終の準備をしていた。そんな最中に、ここ二日の通信物が各隊に配布されたようである。
隣の啓殉覚隊はまだバタバタしているが、こちらの圃戒仕隊は早く支度が終わった為、吼了欽なぞは程よい岩に腰掛けて呆っ、としているくらいである。金八光の兜も槍で穴を開けられた肩当も装着し、一昨日の戦場と同じ軍装である。左肩の痛みは、その表情からしてだいぶ癒えたようだ。
「ふふ、そうだよな。こんな軍陣にわざわざ手紙を出してくるなんてさ、脈ありとしか思えんよな。」
忞番対はその太い指に似合わず、ひどく丁寧に恋文を開封する。
「ええーと。なになに。」
「読まなくていいぞ。」
「何だよ、聞きたくないのか。あ、そうだ。吼了欽にも来てたぞ。ほら。」
懐から臙脂の封書を取り出し、
「可愛い文だな。いいなあ、お前はすでにくっついてるからな。」
と、吼了欽に差し出す。
「ああ。田濫だろ。」
吼了欽はこれを手荒に受け取った。切長の眼はやや光沢を失っている。
忞番対は少し驚いて、
「なんだ、嬉しくないのか。可愛いじゃないか、田濫ちゃん。あの娘にここまで惚れられて、男冥利に尽きるだろう。」
と、目を丸くする。目を丸くはしたが、「ま、いいか」と忙しげに、すぐ手元の手紙に目を落とす。
「ええと、『拝啓 忞番対様。ご出陣なさっているとのこと、心配で身を揉んでおります。』」
「だから、止めろと言っただろうが。読むな、読むな。」
空が曇っている為か、吼了欽の金色の兜も昨日のようには輝かず、どこかくすんで見え、岩に腰掛ける彼は忞番対に対し手を振るが、ひどく物憂げであった。
「何だよ、いいじゃないか。」
忞番対は口を尖らせながらも、目で文を読み、口の端をだらしなく歪めていく。
八月の半ばであり、朝とはいえこの黄ばんだ大地は熱を帯びている。が、しかし雲が日を隠す今日は、昨日に比べれば過ごしやすい。その為か、美獣軍全体の動きが円滑でキビキビし、今にも出発しそうに思えた。
吼了欽は一人デレている忞番対に苦笑いしながらも、注意する。
「まあ、おめでとうさん。だが、見てみろ、もう進発は近いぞ。さっさと恋文を仕舞え。あとは囿治果に着いてから、ゆっくり見りゃあいいだろ。」
封書がぐしゃ、と折れるのも構わず吼了欽は自らの恋文を懐に入れた。
だが上官からそう言われても、忞番対は周囲の様子を見回すこともせず、じっと吼了欽の左肩を見ながら、
「そうかあ」
と、納得げにうなづいた。
「お前、昨日さ。斐醺様に肩診てもらったんだよな。」
「ああ。」
「そっちに気が移ったんじゃないのか。」
今度は、吼了欽の目が丸くなった。
「あ。ああ。成る程、もしかしたら。」
吼了欽は、つい、と空を見上げた。
「そうかもしんないな。」
再び忞番対に戻した瞳には、輝きが戻っていた。
「やっぱりか。」
忞番対は口をへの字に曲げ、腕組みする。
「確かにあの方は美しい。ただ、ちょっと目に険があるし、近づきがたくないか。」
「うん。怖い感じだったな。」
「そうだろう。それに引き換え、田濫ちゃんは優しいし、一緒にいて安らぐんではないか。」
「まあ。そうかな。」
「しかも、良家のお嬢様だしな。まあお前の吼家も名門だけどな。 」
忞番対は小肥りな身体を丸めて、恋文を文箱に仕舞うと、また腕組みした。随分、親身になって考えてくれる男ではある。
吼了欽もまた、腕組みした。
「あいつとは境遇が近いんだよな。いや、あいつの家は完全に落ちぶれてしまったが。」
忞番対は何か言おうとしたが、吼了欽の方がふと気づいて、それを遮った。
「そもそも、お前。妓女に入れあげるのはよせ。描初處って、國朶鎮のあの妓楼の女だろう。」
吼了欽の上官としての忠告である。しかし、忞番対はここで何かに気づいた。吼了欽の背後に目を奪われているが、吼了欽の方は背中に何の気配も感じないのか、進言を続ける。
「きっと、身をもち崩すぞ。だいたい ― 」
とまで言ったところで、忞番対が強引に遮り、叫ぶ。
「圃戒仕様!ご巡視でございますかっ。」
忞番対の喚きに驚き、吼了欽も振り向いた。
ぶるるん、と馬の鼻息が顔にかかる。
馬の背に乗ったひょろりとか細い男が、風に吹かれながら、彼ら二人を傲然と見下ろしていた。