第四話
出立直前に色恋の話なぞして、いきなり背後に立った主君に軍規の緩みを叱責されるのでないかと、吼了欽は慌てふためいた。
「圃戒仕様。我が隊五名、皆いつでも出発出来まするっ。」
と、忞番対の隣に並び、報告する。
「出来まするっ。」
直立不動で忞番対も最敬礼する。
その報告を受ける圃戒仕はしかし、何も応えない。
馬上で身体を少し揺らしながら、こちらから目を逸らし、軋むように真横を向いた。
(一昨日と同じだ。)
吼了欽は背筋をまっすぐにして、主君に向き合いながら、一昨日の戦直後を思い出した。同じように、美獣公子軍の大軍勢を見つめていた。
少し上げた尖った顎は朝の曇天の下に影となり、まがまがしい鴉の嘴にも見えた。
細い身体は馬上に揺れている。こちらの声が主君には聞こえてないのではないかと二人が訝り始めた頃合いで、ようやく圃戒仕の顎が動いた。
「吼了欽。」
「はっ。」
圃戒仕はもはやこちらを見ない。美獣軍一万から目を逸らさない。
「吼了欽よ、この公子軍の勢威に何も思わぬか。」
いつもながら、怒っているかのような声である。癇癖が強く、ちょっとした言葉のあやで、逆鱗に触れることもある。
「一万おります。まず、流賊征伐にこれだけ動員できる我が因州の国力を誇らしく思います。」
緊張しながら答える。
この大軍を催したのは因州公子・美獣である。たかが流賊とはいえ、根拠地の囿治果にもほど近く、まさに獅子が兎を狩るにも手を抜かぬ喩えの通りであろう。だから、本来であれば美獣一人を賞賛するのが素直である。
しかし吼了欽は、隣でまだバタバタと帰還の支度中である啓殉覚隊を少し気にしながら、思う。
(我が家は、ちと微妙だ。)
吼了欽が仕える圃家の立場は、美獣と同等、場合によってはそれ以上と言えた。
美獣は因州王美宜粽の嫡男であり、圃家にとってはまごうことなき主筋である。
だがその一方で、圃家の現当主である圃韓は因州の第一大臣、「州龍眼」に就いている。州王に次ぐ高位だから、役職では美獣より上だった。なお息子の圃戒仕は第十一大臣、つまり「州龍眼代」。これとて非常な重職である。
圃家は因州でも一目置かれる存在で、家中では、州王の嫡子とて何するものぞ、という空気を感じぬこともない。吼了欽はこうした家中の空気感を忖度して、発言したのだった。
しかし、
「まず、美獣様の大器を称えるべきだろう。」
と、圃戒仕は馬上で語気を荒らげた。
「は、はっ。」
吼了欽は目を白黒させた。余計な気は使わなくて良かったようである。素直に美獣を褒めるのが正解だったらしい。
吼了欽は苦い唾を飲んだ。
程なくして、雲の向こうに朝日が昇って天蓋が仄かに明るくなり、圃戒仕の表情がはっきり見えてくると、吼了欽は思わず、はっ、とする。
主君の目は、ひどく血走っていた。
圃戒仕は三白眼で、もともと酷薄な印象があるが、一万の大軍を遠望するその眼は、大きな白目に赤い血管をざわざわと浮き立たせていた。吼了欽は、主君のこの表情をあまり見たことがない。
「今回の戦は、公子にとって損張労征伐が目的ではなかった。」
「えっ。違うのですか。目的は何でございましたか。」
「吼了欽。」
圃戒仕のこめかみに盛り上がる青筋が、昆虫のように蠢いた。
「自分で考えいっ。」
結局、癇気を被ってしまった。
「は、はいっ。」
吼了欽は、難しいお人だ、と思うと同時に、配下である忞番対の前で辱められて歯噛みした。
だがそれを顔に出さぬように、必死に思案した。
「ええと。。」
しかし、いよいよ難しい。
陰鬱な雲の下に、風が一陣吹きつける。夏の朝、それは生暖かく、不快であった。
吼了欽は悩んだが、さして彼に時間を与えもせずに、圃戒仕は己れの思いを吐き出した。
「これからの因州は、美宜粽州王ではなく、美獣公子の時代じゃ。」
咄嗟に、吼了欽は首を巡らせた。
隣の啓殉覚隊が気になったのである。ともすれば、現職の州王を貶める発言に聞こえる。圃戒仕は興奮している為に声が大きい。啓殉覚隊は脇目も振らず、大慌てで準備作業中であるが、恐らく皆、こちらに聞き耳を立てているに相違ない。また、忞番対の表情も目に入ったが、「おー」と声にならぬ感嘆を口の形で表現していた。
圃戒仕はそんな吼了欽の慌てぶりに気づいている筈だが、関係なく馬上から叩きつけるが如く二人に思いをぶちまける。
「此度のご出兵は賊の征伐が目的でなく、因州におけるお力の誇示が真意よ。1798年の秦州奏同啄飯道鎮圧、1800年因州啄原の同反乱鎮圧、そして1803年逆臣圏辛韓の征伐。着々とその武威を知らしめてこられたが、何れも個別事案への対処にとどまっておった。しかし。」
馬上から飛んでくる主君の唾に辟易としつつ、吼了欽は横目で啓殉覚隊ばかり気にしていた。幸い、啓殉覚本人の姿は見えぬが。
「此度の損張労征伐に、これだけの兵力はどう考えても不要。だが居並ぶ一万の精兵を見て、我ら因州の有力諸家は何を思う。」
(美獣公子の隆盛を痛感する。そして)
圃戒仕は、血走った三白眼で吼了欽の顔を正面から捉えた。
「この乱世を渡るには、強き主君に仕えねばならぬ。」
(公子の方が強いなら、州王ではなく公子についていく、ということか。)
吼了欽は圃戒仕の思考を追いながら、その一方で周囲に聞かれていることを懸念する。
圃戒仕もちら、と周囲に目を向けた。
「いいか、吼了欽。」
己が興奮に少し気づいたか、ようやく声を落とした。
「我が近衛隊を今回お前に任せたのには、わしなりの存念がある。お前には今後わしを支えてもらわねばならぬのだ。今言ったようなことはお前が自ら気づき、このわしに進言するようにならねばいかん。己れをもっと高めよ。」
生暖かい風が馬上の圃戒仕を取り巻き、彼はその尖った顎を若干引く。心なしか白目の充血がやわらぎ始めたようである。
「この後、全軍囿治果に帰還するが、我が軍はそのまま置いていく。吼了欽、何故か分かるか。」
「公子への忠誠。随身の意思表明です。」
「そうだ。」
吼了欽の即答は圃戒仕の意に沿っていたのに、笑いもせず、癇の強そうな顔はかえって引きつって見える。
「お前も一緒に残り、私の代理で軍を管理せよ。私は啻万麓に赴き、父と合流する。忞番対はわしに同行せい。」
圃戒仕は言うだけ言うと、馬蹄を響かせ二人の眼前から消えた。
「ああ。」
圃戒仕の姿が見えなくなってから、忞番対はしゃがれた声で嘆いた。
「國朶鎮に戻りたかったのに。彼女に、描初處に会いたかったのに。」
吼了欽は左手で、落ち込む己が配下の肩を軽く叩く。
「いいじゃないか。啻万麓で、女の為に土産を買ってくるがいい。妓女もその方が喜ぶだろ。」
「まあ、そうかもしれないが。でもなあ。」
そうこうしているうちに、曇天の下、丘陵地帯に銅鑼が鳴り響いた。進軍開始の合図である。
「ほらっ、まずは囿治果に向かうぞっ。」
今度は忞番対を強く叩いた。
(ぐっ。)
左肩が痛んだ。しかし、吼了欽はかえって笑顔で、右手で自らの荷を担いだ。
美獣軍一万の大軍が一斉に動き出す。広大な大地は軍靴や馬蹄に踏みしだかれ、湧き立つ砂煙にもうもうと包まれた。




