第弐話
「一万ですか。こうして見ると本当に、壮観でございます。」
「まったく、不足。」
兄と妹が、丘の上に立っている。
昨日まで賊が拠点にしていた山寨とは異なる場所だが、それでも囮丘の中では見晴らしのいい高地で、緩やかに波打つ丘陵地帯を一望できる。
少し日は傾いたが、それでもなお八月の陽射しは強い。そんな夏空の下に一万の軍勢が展開しているが、陽炎のせいか、得体の知れぬ魑魅魍魎の類いが波打つ丘陵に被さって、蠢いているように見えた。
少なくとも美佑聯にはそう見えた。
「不足、ですか?この一万の軍勢が。三千の匪賊を討つのには十分過ぎたでしょう。」
長い黒髪を大きな翡翠の簪で後ろに束ねているが、額には大粒の汗を浮かべている。昨日の戦場で装着していた紫苑色の戦袍を今も羽織っており、この暑気では大汗を発して当然であろう。
彼女には、一万の大軍勢も、この夏の直射光も不快であったし、兄の発言も不審であったが、顔だけは生来の牡丹のような笑顔を造っていた。はっきりした目鼻立ちで、抜けるように白い面に、筆で引いたような眉と肉感的な紅い唇とが対比され、戦場に不釣合いな程鮮やかであった。
「獣兄。」
兄が反応しないので、美佑聯は回答を促す。
隣に立つ、兄の美獣は不審な一言を発したまま、黙って一万の軍勢を見つめている。
(端正なお顔立ち。)
無視されているというのに、美佑聯は我が兄の顔貌に、つい見惚れてしまう。
さすがに兄妹、はっきりした目鼻立ちは美佑聯に似ており、色白な肌、その柳眉までそっくりで、女性的な顔と言えた。
しかし眼の光が決定的に違っていた。
杏仁型で薄茶の瞳、色・形は一緒なのに、美獣のそれはあまりに獰猛だった。顔が整っているだけに、見る者はその瞳に気づくと驚き、畏怖に体を硬直させる。
美佑聯はどうも、その獰猛な眼も含めて好意に思っている。危険な力強さは、女にとって魅力的なのだろう。
「一万で不足なら、いくら要るのですか。」
美佑聯は兄の態度に慣れているのか、笑顔を崩さずに、会話を進める。
美獣の端正な顔にも汗が湧き、滴っている。彼も兜は被っていないが、青い外套の下は白銀の甲冑で鎧っており、暑いのは同様だ。しかし、胸の前で堅く腕組みし、微動だにしない。
丘陵の陽炎はいよいよ濃く立ち上り、一万の軍勢も、黄ばんだ大地も、目眩がするほどに揺らいでいた。
そして美獣の眼もまた、獰猛さを増している。
「六万。」
「え」
いや、妹である美佑聯もあまり見たことのない、瞳の色と変わっている。
背筋が凍るような、冷徹な眼。
美佑聯はそれでも、牡丹のような笑顔は崩さない。兄が ― 因州州王家の嫡男である公子・美獣が ― 怖くて堪らない。だがそれでも、背筋を真っ直ぐにして正気を保つ。
「六万も。ですか。」
「数は私が揃える。お前は六万が二ヶ月行軍する兵糧を整えよ。啻万麓に悟られぬようにな。」
「分かりました。で。」
美佑聯は、小さな頭をゆっくりと後ろに巡らす。兄妹の背後には誰もいないのを確認し、小声で聞く。
「それ程の大軍で、どちらへ向かうのですか。」
よもやこれまでのような州内の内乱鎮圧や流賊征伐では、ありますまい ― とまでは口に出さぬ。
直後、キラ、と強烈な光が、美佑聯の眼を襲った。
「秦州。」
名鐘の如き声。
美獣が美佑聯に体を向け、その白銀の甲冑が夏の陽射しを反射したのである。美佑聯はその光に少し目を細めながら、
「分かりました。」
絶対的な兄に対して、あくまでしとやかに返答した。
その後しばらく。
白銀の甲冑で鎧った兄と、紫苑色の戦袍を纏った妹は並んで立ち尽くしていた。
眞暦1806年8月11日。
夕刻が近づく中、囮丘に流賊を殲滅した美獣麾下の一万にのぼる大軍は、陣営の撤収に向けて汗を流している。
茫漠と広がる黄ばんだ丘陵の、陽炎の中で。