第壱話
夏空が蒼々と広がり、南中に差し掛かりつつある太陽に照らされて、混じり気無い純白の雲は眩しく光っていた。
囮丘の丘陵地帯にはおびただしい幕舎が立ち、軍兵が忙しく行き交う。
(戦後処理も淡々と進んでいるなあ。このぶんだと、囮丘からの撤収も早いぞ。)
昨日の激戦地を眺めながら、吼了欽はゆっくり歩く。昨日から装着したままの黒い甲冑をカシャつかせているが、金色の兜と左の肩当は外しており、左肩にいたっては包帯が乱暴に巻きつけられている。
眞暦1806年8月11日。
美獣軍は、昨日の内に賊軍の降伏受け入れと、山寨の占領、接収を行ない、賊の首領である損張労は逃亡したが、これも日付が変わる前に捕捉。今朝、損張労と首謀者三人を、美獣が因州王委任の立場で死刑と裁断し、すぐに刑を執行した。盗賊達の中で使えそうな者数人を登用し、また更生を希望する者も姓名等を登記して街へ引き具す準備をしている。それ以外の賊には路銀を持たせて故郷へ帰らせる。
こうした賊軍の処理に目処がつき次第、軍営を片づけ、囿治果城に戻る筈である。
(美獣公子はやること為すこと素早い。囿治果も近いから、明日には帰城出来るかもしれないな。)
その時、左肩がズキン、と痛んだ。
「痛っ」
吼了欽はたまらず、細面の華奢な顔を歪める。
昨日の戦での負傷である。賊の槍兵に突かれたもので、同僚の先輩である穆薀からも軍医にかかるよう言われていた。吼了欽は昨夜、自隊の四人の安否確認をしたが、一名が深手だったために陣中の治療所へ連れて行った。その時、吼了欽も一緒に診て貰えば良かったのだが、配下の付き添いで頭がいっぱいだったのと、治療所の混雑もあり、ついつい自分の負傷が後回しになったものである。
今朝になって忞番対から、背中を押された。
「吼了欽、行った方が良いって。穆薀様も言ってたろ。今日は斐醺様も入るらしいし、良く診てくれるさ。これはこれで、結構重傷だぜ。」
実際、今日になって痛みは増している。肩当があった分、左肩に食い込んだのは槍のごく先端で済んだが、見事に穴が空いてしまった。
結局、忞番対の言に従った。
「縫うのかなあ。やだなあ。」
吼了欽は、濃茶の瞳に不安の色を浮かべ、包帯ぐるぐる巻きの左肩を気にしつつ、つぶやく。昨日、大立ち回りをした荒武者の気迫はもはや無く、今は穏やかな十九歳の若者に過ぎない。
男性用の治療所は、白い幕で設えられた幕舎で清潔な印象だが、出入りする将兵らは皆、吼了欽と同様に汚い兵装のままで、中には降伏した敵の賊兵も混じり、荒ぶった雰囲気である。
受付で所属と姓名、傷痍の度合を名簿に記載するのだが、利き腕を負傷している為、うまく筆が使えずにいると、後ろに並ぶ気の立った大兵が急かしてくる。吼了欽は焦ったが、
「あ、『金八光』さんじゃないですか。その肩、名誉の負傷ですね。」
と、係りの武官が彼に気づいた。
「代わりに私が書きますよ。ええと、『所属:圃戒仕龍眼代隊 姓:吼 名:了欽 傷痍:左肩… 金創』ですかね。さ、どうぞどうぞ。」
後ろで毒づいていた大兵も、うって変わって、
「兜が無いと分からないですな、知らぬこととは言え失礼しました。金八光様。」
と、神妙に頭を下げている。
入口の幕をたくし上げて治療所に通されると、篭った暑気が、むっ、と襲う。幕内は血や薬草による臭気も充満し、そこかしこで呻き声が起こっていた。
「ぐうぅ。もう少し優しく。」
「いぎっ。待て、やはり折れてないか?腕、これ、折れてるだろう。」
「うがあっ。糸を引っ張り過ぎだ。皮が破ける。」
吼了欽は、耳を塞ぎたい思いで治療所を歩く。しかし、案内された軍医の前に座ると同時に、左肩の包帯をバラバラと解かれ、無造作に穴の空いた槍傷を剥き出しにされた。
軍医は昨日から大量の傷痍兵を診ているのであろう。白衣に無数の血飛沫が散っており、かなり疲れた顔で左肩の穴を覗き込んだ。
「少し膿んどるな。これ、部隊の誰かにやってもらったんじゃろう?消毒が十分じゃなかったかな。」
「縫うんですか。」
「まあなぁ。縫った方がいいかのう。」
顎を撫でながら穴を覗き込む軍医の後ろに、カッ、と音がして、急に人が立った。
藁のように痩身の武者である。
「徐双慶先生。その傷は縫わぬがいいでしょう。」
女だった。
細面の少年かと思ったが、声が女性である。
「お、あ。斐醺どのか。」
この人が、斐醺 ― 。
吼了欽は汚い椅子に座りながら、その女武者を見上げた。
純白の軍靴は硬質で、薄桃色の甲冑を装着しながらも、折れてしまいそうに細い。だが、その立ち姿から、鎧の下の肢体はしなやかだと想像された。艶のある黒い短髪は薄暗い幕内でも光沢があり、きめの細かい肌は雪のように白い。細面に針のような一重眼、鼻梁は直線状で高く、
(厳しそうな人だ。)
吼了欽の第一印象は、そうだった。
「あなた『金八光』でしょ。まだ若いわよね。だから、こんな衛生の不全な前線の治療所で、敢えて縫合する必要は無いわ。」
「ふむう。」
すでに徐双慶先生は針を火で炙る準備をしていたが、斐醺の鋭い語気に圧されて、止めた。
「先生。膏薬がありますから、この者は私にお任せを。」
そう言って斐醺は徐双慶を退かし、その痩身を吼了欽の正面に滑り込ませ、
「あなた、あの疲れた医師に縫合されるの、嫌でしょ?」
小声で、薄い唇を笑わせた。
「あ。い、いえ。しかし、斐醺様もお疲れではないですか?昨日も戦場に出られていて。」
「あら。私でも駄目かしら?戦仕事のついでに軍医やってるような、女には診てもらいたくない?」
「い、いえ。いえ。そんな積りで言ったんじゃありません。その逆です。まず斐醺様に診て頂けるのは光栄です。前線の武人でありながら医術にも精通され、國朶鎮でもそのご高名は鳴り響いてございます。」
「おだててくれるわね。ただ本当にそんなに疲れていないのよ。あなたは、絶体絶命の磐周挿殿を救ってくれたでしょ。そのあなたに向かって疲れた顔は見せられないわ。」
やはり昨日の突撃は間違っていなかった ― 。
斐醺の言葉を聞き、吼了欽はつい、満面に笑みを広げる。
「はい。いい気分はそこまでね。こいつは沁みるわよ。」
斐醺は懐から硝子の小瓶を取り出すと、一転して冷徹な表情に変わった。
「え」
と、少し吼了欽の反応が遅れたのにも構わず、斐醺は指先にたっぷりと膏薬を盛り、左肩の傷穴に突っ込んだ。
「それ。」
「うがあっ。」
思えば、吼了欽も幕内で起こっている他の唸り声と同様に、叫んだ。
「私のことを地元で良く言ってくれてるみたいだからね。御礼に、この『隼形透秘膏』をたっぷり使ってあげるわ。配下の者が本草学に通じててね、こういう稀少な良薬を入手してくれるのよ。」
吼了欽の身悶えに構わず、斐醺は容赦無く秘薬をなすり込んでいく。
「傷口も大きいから、そもそも量が要るんだけどね。男の子でしょ、我慢なさい。」
我慢している方です、これでも、と吼了欽は言った積りであったが、声にはならなかった。
左肩の傷口を散々なぶられて、やっと、
「はい、消毒できたわ。しばらく左肩は動かさないようにね。傷がふさがるまで。」
という斐醺の声で解放された。包帯も綺麗に巻かれている。その秘膏を指に付けたまま膿を掻き出した上で、新たに薬で傷口を埋めていた。高価な膏薬を大量に使ってくれたようだ。当然ながら、忞番対の処置とは雲泥の差である。
「あ、ありがとうございます。」
こちらが礼を言うと同時に、斐醺は、すっ、と立ち上がった。もう、目は他の患者の方に向いていた。吼了欽も同様に立ち、踵を返しかけたが急に思いついて、
「斐醺様。」
と、彼女を呼び止めた。
「え」
「私、こちらが利き腕なのです。」
「あ、あら。」
斐醺もすぐに察して、場にとどまった。
「治癒の具合を診てもらいたく」
「じゃ、十日後にしようかしら。あなたが居ればだけど、私は囿治果に滞在してるから。拙宅まで、いらっしゃい。槐の家だからすぐ分かる。」
「ありがとうございます。」
そうして、二人は踵を返した。
幕内は喧騒が続いている。
吼了欽は疼痛に顔を歪ませながら、斐醺に言われた通り、左肩を動かさないよう、抜き足差し足、更にゆっくりと歩いた。
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因州




