第七話
9月6日。因州はいまだ雨が止まぬ。
ここ國朶鎮の城内も至る所が濡れ、大路小路そこここに、水溜りが鏡の如く街の灯を映していた。
夜になって吼了欽は家を出た。
田濫の家で繰り広げた前夜の痴態が思い起こされ、若い男は昂ぶり、我が家が俄かに窮屈に感じられて、外に飛び出したのである。
といって、また田濫の家に行くのも気が進まず、忞番対のように國豹路の花街に繰り出す気もしない。
そもそも己が若き昂奮は性欲のみならず、この因州の大平原に示し始めた自らの活躍も起因している。
「俺は。俺は。」
濃茶の瞳を爛々と光らせて歩く姿は、平民どもが見たら逃げ出すだろう程に、危険で獰猛であった。傘もささず、細身の身体に纏う長袍からは水が滴っている。ただ、暗雨の降りしきる街路を歩く者は他に無い。吼了欽は事もなく國儚池に辿り着いた。
大きな池。暗闇の中でもその豊かな水量はよく分かる。
「こんな夜に来ると、また違った趣だ。」
この國儚池は、銀杏が池をぐるりと廻り、水の内外に奇岩が配置され、國朶鎮でも有数の景勝地である。官民問わぬ憩いの場であり、戦時には貴重な水源ともなった。池は、國朶鎮の者たち皆に愛されていた。
今、その愛される風景は暗雨に溶けている。だがそれでも吼了欽は、顎を上げ、ひどく高揚した面持ちで黒い國儚池を見つめているのである。
「國儚池よ。胸にしまい切れぬのだ。我が思いを聞いてくれ。」
真っ暗な池のほとりに凝然と立ち、國儚池に向けて独り言ちる。
「俺の立身出世は間違いないのではないか。主家である圃韓一族から頼りにされている。」
言ってから、吼了欽は辺りを窺う。
こんな雨の夜に國儚池に来る市民なぞいない。それ以前に、今の雨脚なら少々の大声も聞こえまい。
しかし、誰にも聞かれたく無い内容ではある。
再び國儚池に正対する。細い鼻梁をつたって雨水がしたたり落ちる。
「家宰である穆薀に認められ、また嫡孫の圃詩北などは俺にべったりだ。斐醺や磐周挿など、公子股肱の臣とも関係が出来つつある。」
確かなことだ。
圃家の家宰、穆薀は囮丘の戦場で期待をかけてくれたし、主君の嫡子である圃詩北は良くなついて城主府に出仕する度に話をせがまれた。
主家である圃家だけではない。美獣の直臣とも交流がある。自分は磐周挿の恩人だし、女武将の斐醺なぞはもはや恋仲になっているのだ。その他にも困士甜や啓潔といったこれからの因州を背負って立つ武将と交わり、互いを認めあっている。
「金八光」の名は一躍、因州に轟いた。あの徽章はまだ國朶鎮では売られておらず、州都・啻万麓が先に流行っている。吼了欽はこれまで、國朶鎮に封じられた圃家に仕える一武官に過ぎなかった。それが今や、因州の若き勇将、「金八光」である。
ずぶ濡れになった吼了欽の細面は紅潮し、熱を帯びた頰から雨滴が蒸発するのでは無いかと思われた。
若者の鼻息は荒い。
「もしかすると俺は圃家の枠に収まらないのではないか。我が武勇により、美家の直臣として、引き抜かれるやもしれんぞ。」
國儚池は若者の思いをどう聞いたか。
自惚れ、妄想、自愛の類いと見たか。
はたまた、未来の英雄による貴重な野望の吐露ととらえたか。
吼了欽の言葉は、あっという間に池の水に吸い込まれる。
夜の國儚池にはその後、水面を打つ無数の雨音だけが響き続けた。




