第六話
9月5日夜。
國朶鎮の雨は、強まっている。
貧しい家々が混み合う街区の中を、縫うように進む細い小路の上は、勢いある雨に穿たれ、黄土が泥となって飛び散っている。
門の上に七羽の鳥が啼く家。
この小さな石造の家の中では今、男女が身体をぶつけあい、激しい吐息は騒々しい程である。だが、雨音に取り巻かれ、外の小路からは何も聞こえぬ。
褥で仰向けに寝る裸の男は、吼了欽。
その上に跨って踊るが如く、狂い跳ねる裸の女は、田濫。
「ああっ。吼了欽さまっ。」
田濫の長い黒髪は乱れて宙を舞い、豊かな乳房は上下に波打つ。彼女は吼了欽の腹上で、奔馬よろしく暴れているのだ。
一方の吼了欽も下から突き上げ、その度に逞しい身体から汗を飛び散らせている。
しかし田濫の声は、哀しい。
「ねえ、やっぱりお忘れになれないでしようか。」
目を閉じて荒れ狂いながら、涙が頰に一筋走る。暗い部屋の中でそれと分かるほど、きら、と光って、その滴は吼了欽の腹に落ちた。
「何のことだ。」
吼了欽は不機嫌そうに呟き、田濫を黙らせようというのか、さらに激しく腰をうねらせた。
途端に田濫は甲高い声で鳴いたが、男の強烈な攻撃をその下腹部で柔らかく受けとめて、なおも言った。
「あの人のこと、です。今、吼了欽様のお腹の上に乗っているのはあの軍医様ではありません。田濫という、可哀想な女なんですよ。」
吼了欽の心、ここにあらず。
房中で快楽に耽りながらも、女は男の様子をよく観ていた。
吼了欽も、田濫も、もうそれ以上は何も言わぬ。
牀の上からは、喘ぎ声しか聞こえぬ。
二人は、同じ女の顔 ― 艶のある短髪、細面に針のような一重眼、高い直線状の鼻梁 ― を思い浮かべている。
片や、熱烈な恋慕の対象として。
片や、憎悪の対象たる恋敵として。
男女は心を皮肉に捻れさせたまま、互いの激情を、眼前の裸体にただひたすらぶつけていく。
激しい行為を、疲れも知らず、続けていく。
外の門。
七羽の鳥の像は、雨に打たれずぶ濡れである。家主の心を想ってか、哀しく啼いているように見えた。
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その頃。
軍事都市、囿治果にもまた、大雨が降っている。
大馬に跨る斐醺もまた、無数の雨滴に打たれていた。
薄桃色の兜を叩く音は、騒音となって彼女の頭を揺さぶっている。白い細面を切り裂くように開く一重眼、すっきりと通った鼻梁。雨の中、兜から垣間見える容貌は鋭く、戦場に赴く武将のそれであった。
当然かもしれない。
斐醺のいる場所は今、非常な緊張感に包まれている。
囿治果城外の練武場に、大部隊が展開しているのだった。斐醺はその中の一人。夜の闇に隠れ、全貌は明らかでないが、相当な軍勢と思われる。
聞こえるのは雨音のみ。
全軍、固唾を呑んで静まっているのである。
斐醺はふと、右に視線を走らせた。
女武将が、同じく馬上で雨に打たれている。紫苑色の外套を纏い、雫が滝のように流れ落ちている。兜の中の表情だが、およそこの場に似つかわしくない牡丹のような笑顔であった。
彼女は少し口を開き、何か呟こうとする。
(美佑聯様はこんな時でも、穏やかな笑顔でらっしゃる。私にはとても出来ないわ。)
斐醺は溜息をつきつつ、美佑聯の言に耳を澄ます。
「獣兄。」
美佑聯の呟きがかろうじて聞こえた。
「全軍進発の準備が整いました。」
そして斐醺は、美佑聯が告げた先に目を向けた。
そこには美獣がいた。
やはり馬上におり、青い外套で雨滴を跳ね返して、闇の中に白銀の総甲冑が朧げに浮かぶ。左手に手綱。そして右手には鋳鉄の軍配。
暗夜でも、因州公子たる威厳はいささかも損なわれていない。
美獣は妹の言に頷きもせず、兜の目庇から雨滴を滴らせ、口を真一文字に結んでいる。そしてその眼は ― 薄茶の瞳は ― 目庇の陰で全く見えぬ。
しかし気のせいかも知れぬが、例の獰猛な眼差しであるのは、何となく斐醺には分かった。
そう思った次の瞬間、静けさは破られた。
「美獣軍六万!秦州を救う!」
名鐘の如き美声が、暗雨をつんざいて練武場に響き渡る。
「おっ!おう!」
そして軍勢の声が応じた。
(六万 …。)
斐醺は、一斉に動き出した大軍の兵影に鋭い眼差しを向ける。美獣によって統率される六万の精鋭。秦州を救う、つまり捻州の掟考に攻め込まれた秦州王・穂泉煎への援軍である、というのは大義名分、それが表向きの話なのは軍の部将達なら皆分かっていることだ。
美獣は、秦州を欲しているだけに過ぎない。
ふと、美獣に歩み寄る人影が二つあった。
「ご武運を。」
「この城のことはご心配無く。」
嚇凛と啓潔であった。
ちんまりした短躯を外套ですっぽり覆っている嚇凛、赤鋲打ち白色の戦袍を濡らしているのが啓潔であった。
馬上から、美獣が見下ろしている。
「あとを頼むぞ。」
「御意。」
二人は拱手した。
この二人が留守居であれば、安心である。穣界屈指の策士と、冷静沈着な忠臣。
(それ程の者を、囿治果に置いていくということは、つまり此度の出師が長征になる、と。その証左ね。)
ぞぞ、と巨大な生き物のように美獣軍は動く。六万。膨大な数ではある。
ふう、と斐醺からため息が洩れた。
(これだけの数。薬の調達が間に合って良かった。昱左が居てくれれば、ここまで難渋でなかった筈なんだけど。)
口の端に、薄い笑みが浮かぶ。
(だめよ。彼女は秦州に行きたくないんだもの。)
その微笑みは、未だ昱左を諦められない己れの未練を自嘲するものだったろう。
暗雨の下、真っ黒な大軍が一斉に移動する。
悪魔か?魑魅魍魎か?斐醺は、美獣軍を得体の知れぬものに、錯覚した。
しかし秦州にとっては、この美獣軍が本当の悪魔となるかも知れない ―
秋の雨は、斐醺の薄桃色の戦袍に染み入る。枝のように細い身体が、細かく震えた。
眞暦1806年9月5日夜。
雨中、美獣軍六万は囿治果を進発した。




