第四話
月。
昨夜は雨空に隠れていたが、今宵は大きく欠けた姿を雲間に現した。
(兄上 ―。)
美萊峩は夜空を見上げる。その涼やかな瞳に映るのは、尖った月か、それとも眼前にそびえる白亜の巨館か。
青い紗の長袍を夏の夜気にはためかせて、美萊峩は巨館の大階段をのぼる。月夜を背に篝火で照らされた大宇は、この囿治果の主であり、因州公子である美獣が起居する邸宅である。幅広な階段をのぼる青い人影は、絵具が白紙にポツンと垂れたようにも見え、鮮やかにして儚くも見える。
(どうも引っかかる。囿治果は、どうもおかしい。)
乾いた履音を響かせながら美萊峩は思案顔である。長い睫毛をふっさりと伏せている。
三日前から彼は、任地の叶會亭を離れて噎職へ出張し、穣界東部最大の歌舞踏大会に主賓として出席したのだが、夕刻に大会が終了するやいなや衛星都市であるこの囿治果へ飛んできた。言うまでもなく、兄の美獣に目通りする為だが、囿治果の街中に行き交う兵員の数に驚かされた。
(囮丘掃討戦での動員も不自然だったが、軍を解かずにほぼそのまま、囿治果に収容したのも理解不能だった。実際に入城してみれば、ここに漂う気は尋常ではない。殺気に近い。兄上のこと、その明確な意図のもとに事を推進しているはずだ。では、どんな意図かと言えば ― )
思いを巡らすうちに、美萊峩の足は石段を上がりきった。
そこは大広間になっているが、今は無人だった。黄の砂岩で仕上げた床が広がり、そこここに唐草紋様に削り出した大理石が象嵌されている。
その時、
「萊兄。奥ですよ。」
という穏やかな声が耳に届いた。
「うん。ありがとう。」
咄嗟だったが、毛ほども慌てず美萊峩は鈴の鳴るような声でそれに応える。
広間の奥に扉が口を開けており、穏やかな声はそこから聞こえてきたのである。開け放たれた扉の向こうは暗く、魔物でも潜んでそうに禍々しい。しかし、美萊峩は素早く進む。
(兄上と佑聯の二人か。嚇凛は居なそうだ。)
臆することなく、奥の房室に足を踏み入れ、
「美萊峩、参上しました。」
と、恭しく拱手する。
それと同時に、
「嚇凛には席を外させた。」
名鐘のような声が美萊峩の頭頂を押さえつけてきた。
顔をあげれば、そこには美獣。
燭燈に浮かび上がる端正な顔。
房室の大半を暗闇が占める中、その対照性は際立ち、美獣の女性的で美しい相貌はかえって怪異であった。瑠璃紺の装飾椅子にどっかりと腰を下ろしている。
美萊峩の左から、
「久々ね、三兄妹が揃うのは。」
という穏やかな声を掛けられる。
妹の美佑聯である。
彼女もまた燭燈に照らし出され、目鼻立ちのはっきりした優美な笑顔が、牡丹の如くであった。
美萊峩も笑顔を返す。
兄や妹からは涼やかに見えているだろう。闇の密室で燭燈に照らされているとしても、己れの姿は晴天下にいるかのように、明るく爽やかである筈だ。妹に眼で促され、美獣に向かって右側の椅子に腰を下ろしつつ、返答する。
「そうだね、佑聯。一月以来だから半年以上経つね。今夜は楽しみだったよ。兄上、佑聯、二人ともお変わりはないですか?」
「佑聯。」
しかし美獣は、美萊峩の問いに答えず、ギロリと美佑聯に瞳を向けた。
「兄妹の久闊を叙する前に、確認すべきではないか。此奴が最も知りたいことを。」
名鐘の如く、よく通る兄の声。
しかしそれは高圧的で、攻撃的で、聴く者は皆、背筋が凍るであろう。
美獣の威を正面から受け止めた美佑聯はさすが平然としているが、それでもその笑顔は少し引き攣り、一瞬言葉を呑み込んだ。
だが美萊峩は咄嗟に反応した。
「兄上、分かりました。佑聯、私から言う。」
美獣の顔が、今度は美萊峩に向けられた。美萊峩こそ平静に、兄へ言上した。
「兄上、まだ啄飯道の残党がおりますか。囿治果の兵備を見て、その為の兵備と愚考した次第。此度は是非私も従軍したく」
「ふ、心にも無いことを。」
こちらに向き直った美獣の瞳を見、己れの予感が的中せるを知る。
兄の構想は最早、因州の中には無い。啄飯道による内乱の鎮圧なんぞではない。
つまり、他州侵攻 ―
「お前のことだ、既に勘付いておろうが。」
美獣は、やおら立ち上がった。
白絹の長袍が燭燈におぼろに照らされ、兄の姿を幽鬼に見紛う。
ガッ
靴音も高らかに、美獣が美萊峩の正面に立つ。
再びその瞳に美萊峩は射竦められた。
それは、幼児の昔から今に至る記憶の中でも、最も獰猛な光を放っていたのである。
美萊峩は兄を見上げながら、身じろぎ一つも出来ぬ。
美獣は、長袍の右裾でバッ、と闇の空間を打ち、右人差し指を美萊峩に突き出した。
「お前が恐れていたことを、私はやる。因州王家の公子として命じる、囿治果の兵備は他言無用。」
兄の人差し指が触れそうで、眉間との間隙に、焼けるような熱を感じた。
そして。
「萊兄。」
いつの間にか、美獣の右隣に美佑聯が立っている。
妹は、長兄と同じように美萊峩を見下ろしながら言う。あくまで、その口調は柔らかで、淑やかであった。
「この壮図に異論あらば、獣兄と私とを相手に戦いなさいませ。」
だが美獣のそれが乗り移ったか、美佑聯の瞳もまた、野獣の如く獰猛だったのである。美萊峩はこれにはさすがに目を丸くした。
「でも、妹として忠告するけど、萊兄は私達に勝てませんわ。明日、叶會亭に戻って良くお考えくださいまし。」
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眞暦1806年8月18日。
尖った月が、わずかな光量で囿治果の街を照らし出している。夜間調練に参加すると思しき将兵どもが、月光の薄明かりの下に整列して進む。
ザッ、ザッ。
軍事都市の夜、軍靴は堂々と靴音を鳴らして行く。




