第参話
8月17日夕刻。
雨の下、囿治果の城内はすでに暗い。
しかし高い槐を大門の前に植えた白い家は、何か賑やかである。
「本当にありがとうございました。ほれ、左肩はこの通り。」
邸内は明るい声で満ちている。
珊瑚や花崗岩で仕上げられた、白と薄桃色の上房には、やたら左手をぐるぐる回す若い男と、長身の少年、若い女性が二人が立っている。
「ちょっと、止しなさい。塞がったように見えるけど、傷の奥はまだ裂けてるのよ。ねえ、昱左。」
「そうですね。まあ、武人ですからいつまでも痛いなどと言ってられないのでしょう。」
艶のある黒い短髪を少し揺らす、心配顔の女は斐醺で、長い髪を背中に垂らし、洞穴のように真っ黒な瞳で真っ直ぐ前を見ている丸顔の女は昱左。
切れ長で濃茶の瞳を持つ若い男は素直に左肩の旋回を止め、
「確かに武人として戦場で遅れを取るわけにいきません。しかし軍医様が止めよ、と仰るのでおとなしくすることにします。」
と高い声で嘯く。この若い男は言うまでもなく「金八光」吼了欽である。
脇に立つ長身の少年は、はしゃぐ吼了欽を横目に、
「へん!」
と小さく鼻息を吹いたが、他の三人は気づかない。
彼は斐色矜。白面を切り裂くように走る針のような目と、削げた頰が陰鬱である。
夏の雨に斐醺邸の中は湿り、吼了欽の騒がしさも相まって、上房はひどく蒸し暑い。円卓の上に飾られた桔梗の花は力なく頭を垂れている。
吼了欽はその細い顎をぐっ、と引くと、反動をつけて深く頭を下げた。
「囿治果におったのはほんの数日でしたが、皆様には本当にお世話になりましたっ。國朶鎮に帰還します!」
甲高い声とともに大袈裟な礼をしたものだから、他の三人は眼を見開いている。だが、顔を上げた吼了欽はそんな周囲の様子に気づく事もない。
「もし國南平原にお越しの際は、ぜひ國朶鎮の拙宅にお立ち寄り下さいませ。」
「ふうん。國南ね。」
ため息をついた斐醺は、しかしその眼を底意地悪く光らせ、吼了欽に向けて口を突き出した。
「隣の秦州が荒れ放題だってのに、誰が國南になんか行きますか。そんな治安の悪い場所に。あり得ない。」
「ええ?」
吼了欽は、大袈裟に眉を顰めて見せる。
「斐醺様は因州公子直属の大隊長であらせられるのですぞ。治安をどうこう言うお立場じゃないでしょう。」
「美獣様からご下命あれば行くけどね。私も武官の端くれだから。でも用もないのに行かないわ。」
「そんな。そうだ、じゃあこれを差し上げますから、是非お越しくださいませ。」
吼了欽はそう言って懐から何かを取り出し、斐醺の手に握らせた。 吼了欽の掌はさすが男の武官、顔に似ずごつごつして固い。
「何かしらこれは」
「どうも啻万麓で売られているそうで、私の兜をあしらった徽章です。」
放射線状に拡がる八本の短剣をかたどった銅製の徽章だった。
斐醺はつい、頬を緩めた。
「へえ。」
「どうぞ。どこかにお付け下さいませ。」
「まったく、こんな小さな金属片で私を國南まで動かそうっての?とにかくね、左肩の具合が悪くなったら知らせなさい。そうしたら診に行かないこともないわ。」
突き出した口先からは意地の悪い言葉が発せられているが、斐醺は丁寧に手巾で徽章を包んで懐にしまっている。吼了欽は何を言われようが、とにかく笑顔を崩さず、
「よろしくお願いします。」
と元気がいい。
昱左は斐醺と吼了欽のやりとりを、上目遣いでじっ、と見つめる。隣の斐色矜は細い目を一層薄くし、冷血にも感じる眼差しである。
「それではっ。失礼いたします。」
吼了欽は、昱左や斐色矜にも顔を向けたが彼らが発する意味ありげな態度にも一切気づかず、再び礼をして、上房を出る。
「はいはい。雨だから気をつけて。道中ご無事でね。」
斐醺は針のような眼に少し瞳を濡らしながら、破顔してこれを見送った。
こうして囿治果を去る吼了欽の別れの挨拶は終わった。
「うふふ。面白い男よね。」
そう言って椅子に腰を下ろし、赤い円卓に頬杖をつく斐醺。
一方、弟の斐色矜は吼了欽が出て行った扉を睨みつけている。
昱左はそんな主人に視線を向ける事なく、召使いに片付けを指示していたが、ややあって、
「そうだ、斐色矜様。ここ数日、剣術の指南を受けてないでしょう。」
と、斐色矜に言葉を向けた。
「ん。」
少年は両肩をぎょくん、と上げてから青白い顔で振り返った。
「そうだったかな。」
「確か、行かれたのは四日前ですよ。今夜、妁赦邦様は武闘場を開けておられる筈。」
「そうかあ。行ってくるかな。」
「存分に剣を振ってらっしゃいましな。」
「うん。そうする。」
鬱々としていた少年は俄かに乗り気で、
「姉上。それではチト行って参ります。」
と壁にかけていた蒔舟刀を引ったくると長躯を躍らせ、雨の夜へ駆け出して行った。
少年がいなくなるや否や、昱左はその丸顔を己が主人に近づけて
「斐醺様。」
と、呟く。
「もう、お気持ちが入っておりますね。ここまで来たら、戦と同じですわ。」
「何が?」
「ふふ、いいですよ。おとぼけにならなくとも。ま、ここから先は昱左の独り言です。」
頬杖を外し、少し不安げに見返す斐醺に構わず、昱左は喋る。
「騎兵の如く突っ込み、鎖鎌を使うが如く搦め捕りなさい。向こうは完全に斐醺様に傾いているから、貴女が傷つくことはない。策もなく、ただ脱力して我が物になりましょう。」
「昱左、でも。」
「確かに彼は浮薄。でも、斐醺様とは存外お似合いかもしれません。斐醺様が、彼奴を躾ければよろしい。」
そこで昱左は言葉を切った。
あとには邸を包む夏の雨の音と「ふーん」という斐醺のため息だけが残った。
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馬蹄が、泥土を蹴立てる。
すっかり夜の帳が下りた囿治果の街を、吼了欽の馬は行く。雨に濡れるのも厭わない。
彼は、にやにや笑っている。
「あれ?」
己が宿舎の前に、丸みを帯びた人影。
宵闇に眼を凝らし、それが濡れそぼちた小肥りの男と分かると、吼了欽の笑顔がいよいよ弾けた。
「忞番対!」
馬を降りて、吼了欽は駆け寄った。
「戻ったのか。びしょ濡れじゃないか、風邪ひくぞ!」
人影 ― 忞番対 ― もまた、丸い頭から雨水を滴らせながら、吼了欽に歩み寄った。
「お前に言われたくない!」
雨中、若き主従は五日ぶりに再会した。




