第伍話
「吼了欽殿。此度のご活躍見事。おめでとうござる。」
囿治果城への帰還行軍。
吼了欽は圃戒仕隊にあって隊列の監視に当たっていたが、隣を進軍する啓殉覚隊から一人の武官が離れ、近寄ってきた。
「あ、ありがとうございまする。」
吼了欽はつい、背筋を正す。
その武人の声は若くて張りがあり、良く通るものだから、圃戒仕隊の多くが振り返る。赤鋲打ち白銀の鉄製甲冑に身を包み、因州人らしいきめ細かな白肌、吼了欽に向ける笑顔は明るいが、その棗型の眼はやはり武人らしく、眼底に力強い光がある。徒士立ちで、真っ直ぐ、しかしゆったりとした立ち姿である。
姓は啓、名は潔。
啓殉覚の嫡男である。
「しかし、啓潔様の大功には敵いません。賊将を三人討ち、二人生け捕ったと聞いています。」
「ははは。貴殿は五十人隊に単身突撃し、磐周挿の奴を見事救出しただろ?『金八光』の輝きを前に、俺や困士甜殿の功はかき消えてしまったわ。」
啓潔はそう言って、吼了欽の兜を指差す。薄暗い曇天でありながら、不思議とその金色の兜が光った。正確に言えば、刀剣をかたどった放射八本の前立てが、キラリと輝いたのである。
「おお。武運強き者の恐ろしさよ、こちらに応えるかのように『金八光』が光よったぞ。」
「あれ。光りましたか。」
「おお。是非、あやからせてくれ。」
啓潔は真顔になって、金八光の前立てに触り、拱手した。戦士の多くはこうして縁起を担ぐものである。
「うむうむ。これで俺も次には派手に活躍出来そうだ。お、ところで。」
啓潔はその白面を、ふいに吼了欽に寄せてきた。
「貴家は囿治果に軍兵を留めるようだな。」
小声である。
「ああっ。やはり聞こえていましたか。」
「ふふ。あれだけ大声で圃戒仕様が喋っておればな。お主が諌めねばならんぞ、あれは。」
吼了欽はなぜかまた、叱られてしまった。
「すみません。」
「まだ若いから難しいだろうが。ただな、兵を置いていくのは貴家だけではないぞ。」
「あ。左様でございますか。」
ゾゾゾッ、と一万の大軍が一斉に囿治果を目指して進軍している。いつの間にか丘陵が消え、辺りには平坦な荒野が茫漠と広がっていた。
「というと。啓殉覚様の隊も。」
「そうだ。母上曰く、これからは美獣公子についていく、と。当家の所領には戻らず、俺を含め囿治果に全員留めおく。」
圃戒仕の言を聞いてそう判断した訳でもあるまい。吼了欽が取り留めなく思考している脇で、啓潔は話を続けている。
「喋家もだ。州龍牙・喋工励様は、今回御子息の喋織殿を参戦させたが、やはり留まらせるらしい。」
「なるほど。」
「あとは巴雷丹邦冤殿が同様の対応らしい。いずれにせよ、圃戒仕様だけではなくて、州内の有力諸家がこぞって公子に兵を預けるだろう。」
どうも、自分の主君である圃戒仕の判断は、因州内での大勢に則っているようだった。
それは一安心だが、吼了欽は少しひっかかるものがあった。
「美獣様が、公子様が一世の雄であるのは、私のような若輩にも分かります。ですが、今の因州はすでに強国です。この斐界で『双瘤』と畏怖され続けているのも事実。」
「確かに。現在の州王、美宜粽様も名君であられる。大姚帝国に対して強気で鳴らし、因州と大渤の利を守り続けておられる。昨年の『妖天謀洛』にも加担しなかったしな。」
「なれば、今のままでも良いのではないですか。」
「貴殿は戦場であれだけ鬼神の働きを見せるのに、平素は穏健なのだな。もう少し思考の範囲を拡げよ。因州の中だけでなくて。」
啓潔は、きりりと引き締まった真顔で、吼了欽を正面から見据えた。
「穣界に、斐界全体に思いを巡らせたまえ。」
穣界 ― 。
吼了欽は脳裏に大陸の地図を思い浮かべた。
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穣界。
穣河流域を中心にした地方の呼称である。大姚帝国三十一州の内、三割強の十二州がこの穣界に存在する。斐界における文明開闢の地で、これまでの長い歴史のなかでも動勢の中心にあり続けた。
そして現在、この地域は擾乱の只中にある。
眞暦1793年、東方海上に浮かぶ陸島の南端にある火山、黄翼山が大噴火したことで、斐界全体の気温が低下し、民草は凶作に喘いだ。特に民政が不全だった穣界は、奏同啄飯道が民衆の扇動に成功し、各地で武装蜂起が勃発することとなる。各州の州王はその鎮圧に苦慮したし、州の上位に君臨すべき大姚帝国に至っては、これに全く無策で、対応を州に丸投げした。
大姚帝国の統制は及ばず、穣界各地の有力者は自立を目指し、この乱世での生き残りを図った。有力者は州王だけでなく、これまでその支配下にあった豪族の類いも、さながら独立国家の主を気取り出した。
そうした中、州王美宜粽が統括する因州の様相は、他州と少し違っていた。
啄飯道発祥の地を州内に抱え、他州よりその反乱は激しかったが、それを見事に鎮めていた。
そもそも因州の王統である美家は、大姚皇室よりも遥かに古い血統を誇っていた。そしてまかり間違えば、姚に変わって美家が天下を取っていた可能性もあった。為に、他州と異なり、帝国をともすれば目下に見る風があった。
血統だけではない。国力もまた、富裕である。
因州は北辺に存立せる外国、大渤帝国と密接な関係にあり、北方貿易の利を一手に握っていたのである。
名実ともに大姚帝国を脅かす存在。
まさに、帝国にとっては目の上の瘤なのである。山・鋤・猟三州の州王を兼任する「三籠公」峻家とともに大姚帝国を圧し、「双瘤」と並び称されているのであった。
ここで、啓潔の言った「妖天謀洛」についても触れておく。
穣界の群雄は闘争に明け暮れ、黄翼山の噴火から十二年が経った昨年、眞暦1805年になっても、いまだ誰も出頭する者が無くて、動乱の趨勢は不透明なままであった。
そこに妖天なる者が彗星の如く現れ、天下をさらってしまった。
穣界の奥座敷、妖州の産。一介の風来坊であったが、妹が妖州王媼蠱の妾に収まっていたことから、ひょっこりと頭をもたげ、たった三人の仲間とともに穣界の実力者たちを騙しに騙し、わずか半年の間に五千の大兵団を組織するに至った。
1805年10月。妖天は都に攻め込み、皇帝・女懿を組み敷いて、帝城の主に成り上がってしまう。
この事件を「妖天謀洛」と呼ぶ。
大姚帝国の脆弱は言うまでもないが、啓潔が言及したかったのは、穣界群雄がこの事件で晒した無能である。
妖州王媼蠱に始まり、遜州王逓操、闔州西部の豪族・閃言彫、闔州王閥養、坡州東部の豪族・壘渋、秦州王穂泉煎、庇州王尼竺…。身分卑しい遊び人の口先三寸に、揃いも揃って皆コロリと騙されたのだ。
一方、因州王美宜粽と坡州王培梅は、ひっかからかった。そもそも、妖天一行は、この二人のもとには寄っていない。恐らく交渉失敗を予見し、避けたものと思われる。
なお、妖天についてだが、天下を手玉に取ったその豪胆と謀略を賞賛する声も強い。だがこの一挙の動機は、所詮己れの低俗な欲望のみであった。帝城に居座ってそろそろ一年が経たんとしているが、女懿帝を傀儡化して、飲めや歌えやの遊蕩三昧、国政など一顧だにしない。
―
「返す返すも、担がれた穣界の諸侯たちの失策が悔やまれる。」
啓潔も吼了欽と同じことを考えていたらしく、こう言ってため息をつきつつ、こちらに目を向ける。
しかし吼了欽はまだ、よく分からない。
(名君の誉れ高き美宜粽様のもと、美獣公子を始め賢臣も多く、因州はとても騙せないと踏んで、妖天は因州に足を向けなかったんだ。今の因州はそれ程に良く治っているんだし、やはりこのままでいいのではないか。)
思考の範囲を広げてみたが、結論は同じだ ― 吼了欽の顔にそう書いてあったのだろう。啓潔は読み取って、ふふ、と笑うと、もうこれ以上、吼了欽と議論するのを止めた。
「そうだ。大功といえば檗輪単眼はどうだ。あの活躍で貴殿は助かったんだものな。」
「あ。はい、左様でございます。」
正直なところ、軍功話の方が断然話しやすい。吼了欽は、八本の角を光らせて、生き生きと「檗輪単眼」穆薀の凄さを、啓潔に話し出す。
因州中部の荒野に、風が渡っていく。
大陸全体図