第9話 羽化
「わあ・・・。きれい。鏡みたい」
滝の上流まで行くと、由宇は感嘆の声を漏らした。
トロトロと静かに流れてくる山水と湧水が皿のような地形を作り、そこに満たされた水が鏡のように地上の萌える緑を映して、目も覚めるような景色をつくりだしている。
水の勢いの少ないこの時期、余計にその美しさは際立っていた。
実際そこは危険な場所でもなんでもなかった。
『一雨の滝』という名のついた、ちゃんとした観光コースだった。
ただ遊歩道が途中で途切れていて、めったにここまで登って来る観光客が居ないため、友哉が勝手に秘密の場所だと決めただけだ。
「富田達には内緒な」
「うん、言わないよ。二人の秘密だもんね」
由宇はいたずらっぽく笑うと、鏡のような水面にそっと手をかざしたり、足を浸してみたりして遊んでいる。
とっくにそんな遊びに飽きていた友哉は、岩に座り、ただ楽しそうに遊ぶ由宇を見ていた。
転びはしないか、棘のあるギギュウ(魚)に刺されはしないか、少しばかりハラハラしながら。
まるで保護者になったような気分で。
「みてみて! 友哉君」
ずっと見られているのにも気づかず、声をひそめて由宇が友哉を呼ぶ。
木々の隙間から射す黄緑色の光の下、鏡の水面に立つ由宇の金色に光る頭の上。
スイと飛んできたシオカラトンボが止まった。
「・・・ね?」
由宇が笑う。
まるでそれは、一つの絵のようだった。天使の絵だ。
「ね、って。なんよ。ただのシオカラトンボじゃし」
友哉は、わざとつまらなさそうに言って、感嘆のため息を呑みこんだ。
そのうちその場所にも飽きたらしい由宇をつれ、さっきの場所まで戻ることにした。
今度は何も言わないのに、急な斜面になると由宇の方から友哉の手を握ってきた。
友哉がその行動に少し驚き咄嗟に手を引くと、由宇は特に気にする様子も無く、すぐ横の岩に這う木の根をロープ代わりにした。
なぜ手を引っ込めてしまったのか。
握られた時の、サラリとした感触を思い出し、ザワザワした感情に戸惑いながら友哉は由宇をさっきの場所まで連れて降りた。
巨木がぎっちりと葉を茂らせているので、木の少なかったさっきの場所よりも薄暗く感じる。
由宇はその差が不思議だったのか、しきりに上を見上げている。
姉によく似たその細い顎のラインを何気なく見ていると、急に振り返った由宇が言った。
「ねえ、今度は何する?」
友哉は反射的に答えた。
「泳げんのやったら、相撲でもとるか」
ふざけて言ったのが分かったのか、由宇は笑いながら返してきた。
「嫌だよ僕、勝てっこないもん。友哉君大きいし。・・・あ、でもね、腕相撲ならいいよ。保奈美とやって、僕負けたこと無いんだ」
保奈美の名を聞いて、友哉の胸が微かに疼いた。
あの保奈美が腕相撲なんてするのか? そんな遊びに付き合ってやるほど、家では仲が良いのだろうか。双子と言うものは、どれくらい親密なものなのだろう。
「あんな女と一緒にすんな」
友哉はグイと由宇の手を乱暴に掴んで引き寄せ、足元にあった程良く頂点が平らな岩の上に肘をつかせた。
由宇がほんの少し不安そうな目を向けてくる。
「保奈美のこと、嫌いなの?」
「ああ。あんな女、大嫌いじゃ」
「どうして?」
「そんなん知らん! 嫌いなもんは嫌いなんよ」
言えば言うほど友哉は腹が立ってきた。
「でも、もう会うこともないよ? 僕らは9月にまた引っ越すから」
「ああ。せいせいするわ」
「保奈美が・・・あんなこと言ったから?」
由宇の言葉で、一瞬にしてあの苦々しい放課後が蘇ってきた。
カッと体が火照り、怒りが込み上げてきた。
それは保奈美になのだろうか。
それとも、自分と違って全く雄のいやらしさを感じさせない、純粋ぶったこの少年になのだろうか。
「うるさい! ええか、勝負するぞ由宇。負けたら罰ゲームな」
そう言うと友哉は、握っていた由宇の手を、力一杯左側に倒した。
怒りなのか、もどかしさなのか、後悔なのか、そんなモヤモヤした気持ちを全て腕力に込めた。
鈍い音を立てて由宇の右手の甲が岩に打ち付けられた。
由宇が苦痛に顔を歪め、黙り込むまで友哉はやりすぎたことに気付かなかった。
「ごめん!」
咄嗟に謝った。
けれど由宇は怒るどころか、逆に恥ずかしそうに痛めた手を背中に引っ込めた。
「やっぱり、強いね」
そういうと、小さく笑った。
自分が何か怒らせたのかもしれない。
それにおびえるような、弱々しい笑みだった。
二人の会話がぎこちなく途切れ、代わりにアブラゼミの声が音量を増して、木々に反響した。
耳が痛くなるほどだ。
「すごいね、蝉の声」
そう言って、右手をさすりながら辺りを見渡す由宇。
「僕らが帰る街にはこんな場所ないんだ。ビルとか工場ばかりで。23階のマンションなんだ。朝起きても、雨が降ってるかどうかも分からないんだよ。来月、そこに帰るんだ。・・・僕、ここのこと、ずっと忘れないでいられるかな」
気を遣い、話題を変えようとしてるのだろうか。
由宇はそんなことをぼんやり呟きながら、またぐるりと森の中を見渡した。
「ほら、見て! 友哉君。蝶が」
由宇がいきなり一点を見て大きな声を出した。
由宇の視線の先をたどると、大きな葉の裏にくっついたサナギから、漆黒に黄の美しい配色を施した蝶が、ゆっくりと羽化を始めていた。
こんな場所で蝶が羽化するのだろうかと友哉は一瞬訝ったが、それは紛れもなく、今まさに大人の姿になろうとしているクロアゲハだった。
「初めて見たよ、蝶の羽化。すごいね、友哉君。こんなにゆっくりなんだね。真っ黒できれいだね」
由宇は顔を近づけ、うっとりするように見とれていた。
そして、その隣の枝にもう一つはち切れんばかりに膨らんだサナギを見つけると、更に気色ばんだ。
「友哉君、もう一つあるよ! これも羽化するよね」
「さあな。こんなところで蝶が羽化するとか知らんよ。そっちの蝶が特別なヤツで、こっちは蛾なんじゃないか?」
ちょっとばかし意地悪にそういうと、由宇は少し不満そうな声を出した。
「そんなことない。きっとアゲハだよ。二匹は友だちなんだ。きっと、この子はもう一匹の羽化を待ってるよ。一匹だけじゃ寂しいもん」
バカバカしいと思いながらも友哉は、由宇のキラキラした目を見て少し羨ましくなった。
自分も2、3年前、目を輝かせて蝶の羽化を見守った事がある。
「じゃあ、これにサナギ入れて持って帰ろうや。蝶か蛾か確かめたらええ」
友哉は由宇が持っていた小さな虫かごに、サナギのくっついた枝ごとそっと入れ、蓋をしめた。
「かわいそうじゃない?」
「なんで」
「寂しがるよ、もう一匹が」
「バカじゃなぁ。蝶はそんなん思わんって」
「・・・」
由宇の顔が曇った。
「まあな・・・。サナギっちゅうんは、あんまり動かすと死ぬしな。ここに置いとこう。明日また見に来て、羽化しちょったら、二人で逃がしちゃろう? 見たいんやろ?」
「うん! そうしよう」
嬉しそうにパッと表情を輝かせると、由宇はもう一度羽化したばかりの蝶を見た。
やっと殻から全身を引き抜き、太陽の光でゆっくり羽を伸ばしながら乾かしている漆黒の蝶は、とても美しかった。
「こっちが友哉くんだ。まだサナギなのが僕だよ」
由宇が、独り言のように小声で呟いた。
その、まるで純粋培養したような優しげな横顔から、友哉は視線を外した。
反らした視線が今度は由宇の赤黒くアザになった右手の甲を捉えると、堪らずに、友哉は目を閉じた。