第8話 不純
富田達が再び仕返しをしてくるのでは無いかと気を張っていた友哉だったが、その気配はなかった。
下手に友哉を刺激して、悪事が露呈してしまうのを恐れていたのかもしれない。
ただ時折、忌々しそうにこちらの様子を伺っているだけだった。
あれ以来、友哉は毎日、放課後になるとポツンと自分の椅子に座ったまま拾われるのを待っている由宇に声をかけた。
「帰るか?」
由宇は友哉に対してだけ、本当に嬉しそうな笑顔を返した。
いつしか友哉は、その笑顔を見たいと意識して思うようになった。
それはもしかしたら、友人を想う、純粋な優しさではなかったのかもしれない。
最初の頃、確かに友哉はあの少年の笑顔の奥にちらつく、保奈美の笑顔を探していた。
保奈美によく似た白い肌。保奈美によく似た美しい顔立ち。保奈美に一番近い体。
不純。
そんな言葉が心の片隅にちらついた。
けれど、気付かないふりをした。
そんな感情を測る物差しなど持ち合わせていなかった。
そんな真実を、知りたいとも思わなかった。
◇
夏休みに入った。
自宅の暗い土間から目もくらむ夏の陽射しの中へ飛び出すと、外で待っている由宇はいつも決まってホッとした顔をして笑った。
初めて友哉の家に由宇が来たときに「勝手に来たって俺も都合あるし、お前と遊べるとかぎらんぞ」と、冷たく言ったのが、いつまでも由宇の中に残っているらしい。
どこかに、血統の良い子犬を手名付けた小気味よさを感じる。
あの高慢知己な保奈美の面影のまま笑いかけられると、少し後ろめたいような充足感があった。
「川、行くぞ」
そう友哉が言うと、由宇の表情が曇った。
「川には富田君たちがいるよ」
「川っちゅうても遊泳所じゃないよ。もっと上流の滝じゃ。小さい洞窟とかあるし、その源流には俺しか知らん秘密の場所もある。由宇にだけ教えちゃる」
そう言ってやると、由宇は嬉しそうに笑った。
田舎で遊ぶには虫かごが必要とでも思っているのか、由宇は小さな虫かごをしっかり握ったまま後から付いてくる。その必死な様子に、友哉は自然と笑いが込み上げてくる。
友哉の家の近くには天然記念物に指定された、滝の名勝があった。
決して大きくは無いが、1キロにも渡って小振りな滝が幾つも続いている。
最近は水量が減って見応えが無くなり観光客も減ったが、友哉が生まれる前は九州や関東方面から泊まり客が来るほど、賑わっていたと聞く。
だが、そんな時期を知らない友哉にはピンと来ない。
ここは、静かな静かな、友哉の庭だった。
危険なので遊泳は禁止されていたが、監視員がいるわけではない。
雨が少ない時期は水かさも低く、友哉はコッソリ氷のように冷たいその滝壺で遊んでいた。
その場に立つと、深い緑色の滝壺に白糸のように細く垂れる滝の水の美しさと、夏を忘れてしまうほどひんやりした空気に鳥肌が立つ。
初めて見る光景に、由宇は息を呑み、目を輝かせていた。
「由宇は泳げんやろ? 絶対水に入るなよ。俺、よう助けんし」
「うん。ねえ、向こう岸に洞窟があるね。友哉君、行ったことあるの?」
「ああ、もう行き飽きた。何ちゅうこともないよ。奥行き無いから行っても面白うないし。洞窟じゃなくてただの洞穴じゃけぇ。今は水も緩いから歩いて渡れそうじゃけど、急に深くなるし滑るから入るなよ由宇」
「うん、わかった」
ほんの少し日に焼けて赤くなった頬で、由宇は一生懸命頷いた。
他のクラスメートには向けない、友哉だけを信頼して見つめる目。
鬱蒼とした樫やクヌギの葉の木漏れ日の下で、そのサラサラとした栗色の髪が艶やかに光っている。
Tシャツから出た首や手は女の子のように白く頼りなさげだ。
本当に同じ6年生なのだろうか。
誰かの庇護なしには生きられない、生まれたばかりの草食動物のように思えた。
その存在が、友哉の中に不思議な感覚を呼び起こしかけていた。
ムズムズとした、高揚感に似た『何か』。
「なあ、由宇。秘密の場所、教えてほしいか?」
友哉がいうと、由宇はクルリとした二重の目を大きくして、友哉を見つめた。
「え、何?」
「この上に水源地があるんよ。山の方から綺麗な水が湧きだしよる。すごくきれいな場所じゃ。行ってみるか?」
「うん! 行く!」
友哉の言葉に由宇は更に目を輝かせて、友哉を急かすように寄ってきた。
「階段が無くなるから滑りやすいし、あぶないからな。離れるなよ」
友哉がそう言って少し険しい顔を作ると、由宇は細い腕を伸ばし、友哉のTシャツの裾を握ってきた。
「危ないところ?」
由宇が真っすぐ見つめてくる。
「いいや。ちゃんと俺にくっついとれば怖くない」
そう言ってやると、由宇はホッとしたように頷いて友哉を見た。
安心しきった、すべてをゆだねた目だ。
ああ、そうだ。
俺を見ていろ。
その綺麗な目で、俺だけ見ていろ。