第2話 優しい空間
「よう来たねぇ、友哉。疲れちゃったやろ。汗だくじゃあね。風呂焚いてあるけぇ、先に入ったらええ」
駅から歩いてきたという友哉を、久しぶりに会った祖父母はとても優しく迎えてくれた。
祖母のカナエは小さな体を揺すって相変わらずよく笑い、祖父の幸次郎はフサフサした真っ白い髪が雛鳥のように見える、穏やかで無口な人だった。
小6まで友哉は両親と、この祖父母の5人でここに住んでいたのだが、父の急な転勤で友哉親子3人はその冬、神奈川に引っ越した。
当然祖父母はこの家に残るはずだったのだが、父親の弟夫婦が突然祖父母を引き取ると言い出し、無理やり福岡に連れて行ったのだ。
「福岡の叔母さんに三つ子の赤ちゃんが生まれたやろ? きっと、じいちゃんばあちゃんに世話して欲しいんよ」
母が少し苦笑しながら言ったのを友哉はぼんやり覚えている。
祖父母がどこに住もうと別れて暮らす事に変わりは無く、寂しい気持ちも変わらない。
けれどその時一番に思ったのは別の事だった。
寂しさよりも、「帰るべき田舎がなくなる」という安堵だ。
その夏起こった出来事と決別できるという安堵だ。
すべてを記憶の隅に追いやることができる。
もう二度と、あの滝のほとりの近くを通らなくて済む。そう思った。
ところが昨年の冬。
福岡のマンション暮らしに耐えきれなくなった祖父母は、またこの家に戻ってきたのだ。
福岡の叔母は、三つ子が成長しマンションが手狭になってきたこともあり、気前よく二人を送り出した。
友哉の「田舎」が再び復活した。
「ほんと、大きゅうなったねえ、友哉。何センチあるん?」
「175センチしかないよ」
「肩もガッチリしちょるし、髪の毛も今時やね。かっこええやん、大学じゃ女子にもてるんやないん?」
75歳になるカナエはコロコロと笑いながら、少女のように高い声で喋った。
幸次郎も嬉しそうに友哉を見て頷いている。
「そんなことないよ。うちの理学部は女の子が少ないんだ」
友哉はクーラーのない畳の居間で、体に扇風機の風を直に当てながら、この懐かしい空間に満たされていた。
土間から続く台所と居間は、不思議と外の猛暑を遮断してひんやりしている。
蝉の声が少しおさまり、代わりに辺りの田圃からせわしなくカエルの声が聞こえはじめた。
平和そのものだ。何を不安がる事があるだろう。
自分はなぜ昼間見たあの青年にあれほど驚いてしまったのだろう。
時間が経ち、冷静になるにしたがって自分が滑稽でならなかった。
あの後、あの青年はもう一度友哉に頭を下げると、のんびりした足取りで商店街の方へ消えて行った。
何となく毒気を抜かれたような放心状態になった後、友哉は自分の短気が馬鹿らしくなり、祖父母の待つ家へ引き返した。
よく似た人間などこの世にたくさん居る。しかも友哉が見たのは自分と同じか、もしくは十代の少年だ。
11歳の、あのままの姿ではない。
なぜ一瞬でも由宇だと思ったのだろう。考えれば考えるほど、自分が滑稽になる。
確かに由宇の死体は見つからなかった。
川の遙か下流の淀みで、由宇がその日履いていたサンダルが見つかっただけで。
消防団や青年団の大人達がどれほど川や滝壺をさらえても、死体は見つからなかった。
けれども、彼の死はまぎれもない事実なのだ。
その事実は、村全体にどうしようもないやり切れなさと不安と、心を浸食して行く恐ろしさだけを残した。
思わなかった訳ではない。もしかしたら由宇は生きているんじゃないだろうかと。
ただ、騒動の後出ていくのが気まずくて、息を潜めているんじゃないだろうかと。
そう思うことで自分が慰められた。
けれどそれがバカバカしい現実逃避だと言うことも、11歳の友哉には分かっていた。
「明日同窓会なんやろ? あの小学校の校庭借りてするっちゅうたなあ。早う寝んとえらいが」
三角に切ったスイカが乗った皿をテーブルに置きながら、カナエが言った。
甘い果実の匂いが喉の渇きを思い出させた。
「うん。でも夕方からだから大丈夫。先に寝ててよ、二人とも」
「そうかあ? 友哉も早う寝えや。・・・じゃけど寂しゅうなるねぇ。あの小学校も今年いっぱいで廃校なんてなあ。昔はもう少し子供もおったのに、今は若い人は皆よそに行きよる」
この村は年寄りばかりになる、とカナエはウンザリしたようにため息をついた。自分は年寄りの中には入っていないような口振りだ。
友哉は笑ってカナエに言った。
「仕方ないよ。そういうもんだから」
---消えてなくなればいい。
唐突にそんな思いが胸を突き上げてよぎり、友哉はドキリとした。
---あんな学校も、級友も、記憶も。 みんな消えて無くなればいい。---
それは9年前の自分の叫びだ。
今ではない。
きっとそうだ。
自分の本心を探ることが恐ろしくなり、友哉は苦しげに息を吐き出した。




