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第15話 漆黒の蝶の羽の下で

青年は優しい、澄んだ声で続けた。

「夜中に降った雨のせいで、きっと今より水かさは高く、流れも急だったはずだ。足を滑らせれば、更にこの下の滝壺か、運悪ければ尖った岩場に叩きつけられる。そんな怖さもあったけど、少年は真っ直ぐ前だけ見て水の中に入ったんだ」

「どうして!」

友哉は叫んだ。

この青年が由宇であるはずは無いのだが、そう訊かずにいられなかった。

自分がおかしいのは認めていた。誰かに訊きたかった。誰でもいいから、答えを教えてほしかった。


「どうして? 由宇は君が好きだったからだよ。友だちになりたかったんだよ」

「だから、どうしてだよ。そんなことしなくたって、俺たちは・・・」

「本当の友達になりたかったんだ。姉の身代わりじゃなくて」

友哉はビクリとして固まった。


「ごめんね、責めてるんじゃないんだ」

青年は悲しそうに微笑んだ。

「ただ、由宇はどうやったら君と仲良くなれるかを必死に探してたんだよ。きっとね。本当にそれだけなんだよ。勇気を出すこと。あそこへ行って、羽化した蝶を見ること。そして、逃がしてあげること。それが由宇には大事なことだったんだ」

友哉は、静かに深い水の底を覗き込む青年の横顔を見ていた。

手が痺れたように冷たくなり、鼻の奥がツンとした。


「俺が・・・俺がちゃんと止めなかったからだ」

そう呟くと、堪えきれずに友哉の目から涙があふれた。

青年はゆっくりと友哉を振り返る。

「君のせいじゃないって言ったろ? 誰のせいでもない。よくある子供同士の戯れだよ。ただあの少年はそうしたかったんだ。幼すぎたんだ」

「俺がちゃんと止めなかったからだ。そんな危ないことするな。由宇は大事な友だちだからって!」

友哉は次第に堪え切れなくなり、震える声を張り上げて、そこにいるはずもない由宇に叫んだ。

「ごめん! ごめん、由宇!」

9年間、せき止められていた涙が一気にあふれ出した。

そして、初めての謝罪の言葉が友哉の口から吐き出された。


そうだ。自分は由宇に、一度も謝っていない。


友哉は今初めてその事に気付き、雷に打たれたような衝撃を受けた。

自分は謝っていない。そして、由宇のために、涙を流してもいない。ああ、なぜ・・・。


いつだって、その事実から逃げることしかしなかった。

正当化し、あるいは無かったことにしようとした。

友哉は涙の溜まった目で唇を震わせながら、自分の醜さを懺悔するように青年を見つめた。


青年は優しく微笑んだ。

「もう、いいんじゃないかな。もう充分だよ。君が苦しむことを、由宇は望んでいない。君の中で由宇は、常に痛みの塊だろ? 思い出すことは苦痛でしかないんだろ? 忘れてしまいたいとさえ思う。そんなのって辛いじゃない。悲しいよ。由宇は大事な友だちだった。ただ、それだけでいいんだよ」


友哉は涙の止まらない目で青年を見つめた。

「でも・・・」

「ただの悲しい事故だったんだ。誰のせいでもない」

風のように優しく言う青年を見ながら、友哉はあふれ出す寂しさに顔を歪めた。


・・・寂しい。寂しい。悲しい。どうして? どうして君がいない? なぜ死んでしまった?


青年は寂しそうに、けれども優しく友哉に微笑んだ。

“君は・・・だれ?”


友哉が再びそう口を開こうとした瞬間、青年はふと何かに気が付いたように、ほんの少し視線を水面に移してその方向を指さした。

「ほら、友哉くん、蝶だ。二匹いるよ。友だちだね、きっと」

友哉はその指さす方を振り返った。

水面の少し上、木漏れ日の中を二匹の漆黒のアゲハ蝶がヒラヒラと戯れながら舞っている。

その姿はとても優雅で美しく、楽しげだった。


『二匹は友だちなんだ』


ああ、どうして。

どうして今まであの優しい少年のために涙を流してあげなかったんだろう。

由宇はこんなところに一人で、どんなに寂しかっただろう。


友哉は流れる涙を拭うこともせず、戯れる蝶を目で追い続けた。

上になり、下になり、エメラルドグリーンの水の上を、楽しげに舞う。

・・・あの日、由宇が解き放った蝶は、あんなふうに空へ飛び立ったろうか。

先に羽化した蝶と、出会えただろうか・・・。

サワサワと揺らめく水面の幻想を、胸を締め付けられながら見つめた後、友哉は後ろに居るはずの青年を振り返った。


けれど、そこにはもう、誰もいない。

友哉を包み込んでいるのは、ただ色濃く息づく手付かずの自然と、鳴き止まぬ蝉の声ばかりだった。


友哉は涙で喉をひくつかせながら、ゆっくり辺りを見回した。

青年が消えてしまった事は友哉にとってごく、あたりまえの事に思えた。

彼は、由宇ではない。由宇がここに眠っているのは、紛れもない事実なのだ。

もう、現実から逃れようとするのはやめよう。

ただ彼は、大切な事を伝えに来てくれた『何か』なのだ。

頭がどうかしてしまったのかもしれない。

けれど、その不思議を追求するよりも、もっと大事な事があるように思えた。


友哉の視線は再び何かを探すように水面を漂った。

不意に、ふわりと頬を撫でていく風が笑った。

心が再び震えた。寂しさが波のように胸を塞いでくる。


“ねえ、由宇。・・・由宇。寂しいんだ。

寂しくて辛くてしかたないんだ。

どうしたらいいのか分からない。

ずっと。ずっとだ。

こんなに月日が経ったって、変わらない。

忘れようとするのに、君の笑顔が忘れられないんだ。

俺を呼ぶ声が、耳から離れないんだ。


でも、それが俺への罰ならば、俺はこの痛みをずっと抱いて生きていく。

思い出の君を、いつも抱きしめて生きて行く。

ねえ、そうすれば君は、俺の中で生き続けられるよね。

ずっと一緒だよね。


ごめんね。今まで逃げてて。

もう逃げないから。

君からも、自分の罪からも。


ねえ。君に伝えられなかった事があるんだ。

今なら届くよね。

君のことが、大好きだったんだ。

誰かの身代わりなんかじゃない。

本当に、君が、大好きだった。”


大きく息を吸い込んだあと、友哉は溜まっていた心の澱を吐き出した。

そしてまだそこに戯れている二匹の蝶を再び見つけると、友哉は頬を濡らしていた涙を手で拭い、静かにつぶやいた。


「来年も、再来年も、その次も。毎年ここに来るからな。いっぱい、いろんな話しちゃるよ。そしたら・・・もう寂しゅうないやろ? 待っちょってな、由宇」


再び頬を熱い涙が伝うのを感じた。


やっと友哉にとっての、本当の時間が流れ始めた。




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