第13話 あの場所へ
体中が総毛立ち、友哉はその場から逃げるように走り出した。
青年が何か言いたげにこちらを見たのが目の端に映ったが、振り向くことなど出来なかった。
何が怖いというんだ。
何を怯えているんだ。
冷静になろうとするのだが、途中から街灯もまばらな薄暗い山道の中で、友哉は気を失いそうなほど激しい動悸に襲われた。
呼吸が苦しくなり、何度も立ち止まっては体を折り曲げて息をつき、再び走った。
家に辿り着くと、アルコールがまわったことも拍車をかけ、トイレで何度も吐いた。
「何だってんだ。ちょっと似てるだけじゃないか。馬鹿じゃないか、俺は・・・」
いろいろ考えすぎて、赤の他人が由宇に似て見えただけのことだ。
そう自分に言い聞かせ、なんとか気持ちに折り合いをつけると、友哉は数回体にぬるい水を掛けただけで、そのまま薄い肌布団の上に転がり丸くなった。
もう一晩泊まるはずだったが、明日には家に帰ろう。
そう思いながら。
◇
「もう帰るんか? 友哉。もう一晩泊まって行きゃあええのに」
荷造りしていると、少し寂しそうにカナエがそう言った。
「うん。ごめんな、ばあちゃん。早めにもどるよ。大学のレポートも溜まってるし」
「そうか・・・。じいちゃん、畑で野菜もいどるけ、もうちょっとおってくれるか?」
「午後の便にするから、あと2、3時間、そこらへんで時間潰すよ」
寂しそうなカナエには申しわけ無かったが、もう長居するつもりは無かった。
同窓会に出て、昔の仲間達とのわだかまりも解れた。自分の用事はほぼ終わった。
あと、やり残したことがあるとすれば・・・。
友哉は、まだ陽射しの厳しい外へゆっくり歩み出た。
家の前を走る県道から逸れて、山の方へ続く細い遊歩道へ足を向けた。
やり残した事があるとすれば、あの場所へ行って、手を合わせることくらいだ。
昨夜、同窓会で由宇の告別式の事を聞いた時、そうしようと思った。
けじめとして。
けれどその細い薄暗い道を見てしまうと、なかなか足が前へ進まない。
同窓会後の出来事が、ブレーキに拍車をかけた。
自分の中にある恐怖は、まだ少しも薄らいではいなかったのだ。
幾分陽射しはマシになったが、まとわりつく暑さとアブラゼミの声が頭をボーッとさせる。
昔はこんな暑さ、何でもなかったはずなのに。
友哉はゆっくり、ゆっくり、その小道を下った。
小さな小川に掛かる橋を越えたあたりで急に上り坂になり、そこに、自治体が観光地のシンボルに作った小さなケルンがある。小さな頃、登ってよく怒られた。
そこから険しい道になるという印だよ、と、母に教えられたことがある。
今では「スイスじゃあるまいし、ふざけたもんつくったな」と、笑ってしまうのだが。
友哉はぼんやりケルンを見上げた。
“もう、いいよね。由宇。ここまでで・・・”
そう思いながら。
「この先には、滝があるんですよね」
ふいに、ケルンの裏側から声がした。
ハッと我に返った友哉の前に、いつからそこに居たのか、昨日の青年が立っていた。
友哉は一瞬ドキリとしたが、昨夜とは違う眩しい光の中で見るその人物は、少しも奇妙な感じはしない。
健康的な、屈託のない笑顔だ。
さらさらの薄茶の髪、あまり日に焼けていない肌に白いTシャツとジーンズ、スニーカー。
確かに由宇によく似てはいるが、ただそれだけなのだ。
顔立ちはやや幼いので、友哉よりもかなり年下なのかも知れない。
19・・・いや18くらいか?
だとしたら、(あたりまえなのだが)由宇ではない。
「ええ、ありますよ。滝が」
友哉が無表情で言うと、青年はニコリとした。
「行きましょうよ、滝を見に」
「え・・・俺も? なんで」
「貴方も行こうとしてたんじゃないんですか? だったら一緒に」
「いや、・・・俺は別に。それに、時間が…」
「少しでいいんです。一人じゃ寂しいじゃないですか。だから、ね? 一緒に行きましょう。あの滝へ」
青年はニコリと笑うと歩き出した。
“あの滝へ?”
青年はすでに、鬱蒼とした木々のトンネルをくぐって、影になりつつある。
友哉は突然、弾かれたように青年の後を追った。
そうしなければいけない、そんな思いに取り憑かれていた。
景色は9年前とまるで変わっていない。まるで時間があの時から動いてないかのようだ。
ひんやりとした空気を吸いながら、友哉は青年の後ろ姿を追った。
毛細血管のように木の根の這う地表を踏むと、その上に積もった落ち葉がシャラシャラと軽い音をたてる。
右下に流れる大小の滝の音が、さらさらと耳に流れ込み、時間があの夏へ巻き戻されたような錯覚に陥った。
友哉は、ただ、目の前を軽やかに歩く、ほっそりとした影を追った。
走るでもなく、声をかけるでもなく、ただ追った。
そして、やっとその背が手に届くところまで来たとき、そこは「あの場所」だった。
水量が少ないせいで、滑り落ちる水の白糸はとても細く、滝壺の色は恐ろしいほど深いエメラルドグリーンだ。
青年が少し小首を傾げて友哉を振り返った。
「誰なんだ? あんたは」
友哉はもう、堪らずに訊いた。ふと思ったのだ。
もしかしたらこの男は、自分が由宇に似てるのを利用して、俺をからかっているのでは無いだろうかと。
逆に、そうであってほしい、と。
「誰だと思います?」
青年は笑った。
笑うと更に幼く、高校生くらいに見える。
「ただの、観光客ですよ」
青年はゆっくりと周りを見渡したあと、再び友哉を見て、「なんてね」と、また笑った。
友哉は眉間に皺をよせた。
「僕が誰なのか知りたいですか? 教えてあげてもいいですよ」
青年はもう微笑むのをやめると、右手をスッと友哉の胸の前へ差し出した。
一歩も引かず、友哉はさらに険しい表情をして青年を睨んだ。
蝉の声が音量を増してゆく。まるで何かの合図のように。
「腕相撲しましょうよ。僕に勝ったら、教えてあげます」
ザワリと木々が動いたように思ったのは、気のせいだろうか。
友哉は息をするのも忘れ、ただじっと青年が差し出してきた、細い指を見つめた。