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田沼意次

江戸時代の「明和の大火」を描いたヒューマンドラマです。

 茶坊主に案内されるまま、田沼様の用部屋に入ると、文机を前に書き物をしていた田沼様が、顔も上げずに「決まったの?」と聞いて来たので、曲淵と共に跪いてから、「はっ!」と息を吐くように返事を返す。


 そこで、初めて顔を上げた田沼様は、痩せて皺の浮いたかわず顔を突き出して、こちらを見ている。


 機嫌が悪いのか、今日はいつもよりも下唇が突き出ているように見えた。


 しかし、寄合評定の内容が再び「御預け後の遠島」に決まったことを伝えると、また何も言わずに書き物を再開する。


 しばらく書き物を続けていたが、まるで独り言を呟くように「板井村の名主と蔵宿の和泉屋は、なんて言ってるの?」と意味不明な言葉を吐き出した。


 すると、曲淵が「はっ」と頭を下げてから、「両者共に、闕所(けっしょ、全財産を幕府が没収する罰)をご勘弁頂けるのであればと、書付無用の冥加金を差し出すことに同意しております。

また、真秀が養子に出された経緯につきましても詳しく白状しました」と言ってのけたのだ。


 何も知らされていなかった己れは、ハッとなって、鋭い視線を曲淵に向けたが、曲淵は、その視線を避けるように、真っ直ぐ田沼様だけを見詰めている。


 更に、田沼様が書き物を続けながら「いくら?」と呟いたので、曲淵が素早く「六万両となっております」と答えた。


 その金額を聞いた田沼様は、再び、感情の読めない蛙顔を上げて、「だったら、遠島じゃあ格好つかないよね」と言い放ったのだ。


 己れが、勢いよく顔を上げて「しかし…」と反論を試みるも、その言葉を遮って田沼様が、「長谷川は京都西町奉行でどう?」と囁いた。


 これは、暗に「出世させるから黙っておれ」と言うことだし、曲淵が根回しをしたまいないの仕組みも簡単に説明が出来る。


 筋書きはこうだ。


 火付盗賊改方から「御仕置き伺い」について相談された曲淵は、その内容を全て田沼様に知らせて、今回の大火で付け火を行った極悪人である真秀の関係者に闕所けっしょのお裁きが下るだろうと知らせてから、それが嫌なら書付が残らない形で、冥加金を差し出せと脅したのだろう。


 だからこそ田沼様は、真秀が遠島ていどの軽い罪では、脅しの効果が薄いだろうと苦言を呈しているのだ。


 己れは、どうするべきかを真剣に考えていた。


 いくら老中といえども、寄合評定で下されたお裁きを理由もなく覆すことは出来ない。


 ここで、田沼様の身勝手な要求を突っぱねることも出来るのだ。


 しかし、京都西町奉行を無事に勤め上げれば、旗本の最高職である江戸町奉行も見えてくる。


 己れはどうしたいのだ…


思い返せば、己れの人生は苦労の連続であった。


 部屋住みだった己れが、従兄の末期養子に引っ掛かって、何とか継いだ遺跡ゆいせきから、苦労に苦労を重ねて、やっとここまで登り詰めたのだ。


 それがどうだ、運良く家門が継げたかと思えば、継いだのが三十歳と遅かった為に、気が付けば、立派な老人に成り果ててしまったではないか…


 同じ苦労を息子に味わわせる訳にはいかない。


 もう時が残されていないのだ。


 我が息子、宣以のぶためには、己れと違って良き道筋を残してやりたかった。


 己れが黙っていることを、承諾だと受け取った田沼様は、一旦、書き物の手を止めると、別の紙を取り出してサラサラと何かを書き始める。


 そして書き終わると、その紙を曲淵と己れに差し出してきた。


 その紙には、右の者から始まる文字が踊っており、武州熊谷の無宿者、真秀は「引き回しのうえ火罪」と書かれていたのだ。


 これで、関係者が罪に問われることもなく、田沼様には大金が転がり込んできて、我らは望む出世を手に入れる。


 そして、真秀はその小さな身体に、狡い大人達の大きな業を抱え込まされた挙句に、無常にも焼き殺されてしまうのだ。


 後には、真っ白な灰も残らないだろう。

最後までお読み頂き、本当にありがとうございます。

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