後編
中学校は町を見渡せる小高い山の上にある。どのルートを通っても地獄のような坂を登らねばならず、運動部に入ろうものなら毎週のように顧問に怒鳴られるなか走らされることになる。もっとも、勉強第一だった私には無縁の世界だったのだが。
「やべえ。残骸じゃん。ざまあ!」
8割ほど壊された校舎を前に、瑠衣はやたらと嬉しそうだった。彼女はポケットからスマートフォンを取り出すと、瓦礫の山を撮影し始めた。私は彼女が撮影しやすいよう車のライトを瓦礫の方へ向けた。ハイビームに照らされた雨粒が賑やかしの様にきらきらと光っている。田舎の学校に校門やフェンスなど存在しない。安全のための囲いはしてあるが、それだって簡易的なものに過ぎなかった。
崩れ落ちた思い出を見て喜ぶ瑠衣の姿に、私は心底安心した。自分だけではなかったのだ。
「良かった。喜んでるの、私だけかと思った」
独り言の様に私は言った。ここに楽しい思い出はない。窮屈な規則に退屈な授業、行き過ぎた上下関係、いじめ、セクハラ、突然大声で怒鳴る教師と、暴言を吐くヤンキー。そんなものしか記憶にない。
ショベルカーがいとも簡単に校舎を崩していく姿を目にした時、私は救われたような気がした。嫌な思い出が多いとはいえ、一応は青春の思い出であることに違いはないのだし、少しはせつない気分になるものだと思っていた。しかし、無残に取り壊され、何の役にも立たない瓦礫の山になり果てた校舎は、私の脳内に「解放」という言葉を想起させたのだった。
「清々しいわー。記念写真撮ろ」
瑠衣はそう言ってカメラモードを内カメラに切り替える。小雨はいつの間にか止み、空には再び三日月が戻ってきていた。
「なんかこれ、アレみたいだね。ドイツの、ナントカの壁」
瑠衣は小さなコンクリートの塊を拾い上げながら言った。彼女にとってもここは忌むべき場所なのだろう。
「クソみたいな先輩がいて。同じテニス部活だったんだけど、ラケットは隠されるし、先輩より強いからって調子乗るなとか言われるし、先輩の下僕からは授業中に悪口メモ回されるし、まじでクソだった。あとやたら距離感の近い教頭とかさぁ……ああ、思い出したら腹立ってきた」
「そういえば、瑠衣は2年生の2学期辺りからあんまり学校に来なくなったよね。そんなにひどいとは私も知らなかった」
「クラス違ったし、私も特に言わなかったもんね。いじめなんて、いじめっ子を何とかするよりも、いじめられっ子を消しちゃう方が手っ取り早い。私が学校に行かなければ、いじめも存在しない。被害者がいないなら加害者もいないからね」
もし、当時の私が瑠衣の側にいたら、彼女の為に何かしただろうか。自分の成績のことしか頭になかった私は、どうしただろう。
瑠衣は続ける。
「今思えば、あれが分かれ道だった気もする。出席日数足りないから殆どの公立高校には行けなくて、かといって私立は高いし。結局めちゃくちゃガラの悪いとこに行ったけど、そこでなんでも話を聞いてくれるいい先生に出会えた。その頃にはもう、親の期待とかどうでもよくなってたな」
「瑠衣は、何か期待されてたの?」
「テニスで県大会優勝とか、体育大学に進学とか……テニスそんなに好きじゃなかったんだけどね。ただできるってだけで。陽葵は大学卒業までは期待通りにいったんでしょ?」
「就職先が決まるまでは、まあ」
「すごいなあ。頑張ってたもんね、勉強」
「凄くないよ。今こんな風なんじゃ、何の意味もないでしょ。親は私を『成功者』にするために投資してて、それが全部パーになっちゃったんだから」
「じゃあ、これからはもう自由ってことだね」
もう自由。そうなのだろうか。一度台無しにしてしまえば、解放されるものなのだろうか。
喉に小骨が引っかかった時のような、微かな違和感があった。もし仮にそうだとしても、今まで知りもしなかった概念をこの歳になって突然手に入れたところで、どう扱っていいものかまるでわからない。
私は改めて校舎の残骸を見つめた。確かに、解放という言葉を思い浮かべたことはあったが、その先にあるものは何一つ見えてはこなかった。
車に戻るとまた雨が降り出して、フロントガラスの上に雨滴が滑り始めた。
「自由になったら、何すればいい?」
馬鹿な質問だが、本気でそう思ったので私は口に出した。自由や解放は「終わり」とは違う。ゴールにはならない。ある意味、そこから先が一番恐ろしい場所かもしれない。
「なんか、やりたいこととかないの? 子供の頃、夢とか持ってなかった?」
「さあ。夢は妄想するものであって、現実に持ち込めるものじゃないと思ってたから……」
夢という言葉の危うさ、うさん臭さが、昔から苦手だった。決められた時間内に紙に書かされた挙句、廊下に張り出され、授業参観では保護者たちの話のネタとして消費されるだけの存在だ。なんとなく、大人たちが見ることを想定して書かなければいけないような気さえしていた。所詮、私がひねくれていただけなのかもしれないが。
「やりたいことさえ見つかれば、そこから先は行動するだけだから割と楽になれると思うけどな」
瑠衣は靴を脱ぐと、シートの上に三角座りするようにして、膝の上に顎を乗せた。私は沈黙を生み出さないように、また必死に返事を探した。
「やりたいこと……外界と縁を切ることくらいしか思いつかない」
自分でも面白くない冗談を言ったと思った。それでも、半分は本音だった。瑠衣は一瞬顔を顰めてから、「なるほど」と呟いた。どうやら冗談だとは思っていないらしい。
「そういう仕事って何があるかな。他人にあれこれ言われずに、自分自身が独立してできるような……」
「いや、冗談だって。まあ半分は本気だけど、現実的に考えて無理でしょ」
私がそう言った時だった。
「現実をどこまで知っててそう言うの?」
冷たく刺すような声色に、びくりと肩が跳ねあがる。
「――さ、帰ろっか。駅前の民宿に部屋取ってあるから、そこまでお願い」
瑠衣の方もまずいと思ったのか、私と目を合わせずにそう言って、シートの上に上げた足を靴の中にねじ込んだ。
「え、実家に帰るんじゃないの?」
てっきり家族の元に帰るものだと思っていた為、私は間抜けな声をあげてしまった。
「帰んないよ。今の私には必要ないから」
「そっか……」
「そんなに悲しそうな顔しないで。私はべつに悲しくないから」
エンジンをかけ、ゆっくりと車を方向転換させる。校舎の残骸が夜の闇に溶けて見えなくなっていくのを、私はミラー越しに確認し、小さく息を吐いた。すべてが曖昧で現実味がなく、夢のような気がしてきた。
瑠衣を駅前の駐車場まで送り届けると、何故か猛烈にどこかへ車を走らせたくなり、私は家へは帰らず静かな夜の国道をひた走った。雨はどんどん強くなり、やがて前が見えなくなるほどの土砂降りになった。私は構わず走り続けようとしたが、対向車と接触しそうになったところではっと我に返り、近くにあった寂れたドライブインの駐車場に車を停めた。いつの間にか、来たことのない場所まで来ていた。雨は一向に止まず、まるで化け物のようにフロントガラスを激しく殴り続けている。
ふと、「必ず夜は明ける」とか「止まない雨はない」とかいう、誰かの手垢が付きまくったくさい台詞が頭に浮かび、思わず顔をしかめた。夜が明けるころには、雨が止むころには、自分は死体になってひと気のない道端に転がっているかもしれないのに。
そんなことを考えていると、ふいに眠気が襲ってきて、私はおもむろに目蓋を閉じた。こんな風に眠気を感じるのは数年ぶりのことだった。
自分が夜明けまで生きのびられる幸運な人間であることを願いながら、静かな眠りの底へ沈む。耳障りな雨音がゆっくりと遠ざかり、やがて何も聞こえなくなった。
それからどれくらい経ったのか、フロントガラスをコツコツと叩く音で目が覚めた。雨音とは違う、自分に対し直接的に訴えるその音に私は本能的に跳ねあがった。
「おお、良かった。また誰か死んでるのかと思った。大丈夫ですか?」
バイクにまたがった警察官が、ヘルメット越しにこちらを見ていた。いつの間にか雨は止み、辺りは既にうっすらと明るい。時計に目を向けると朝の6時近かった。
「大丈夫です。ちょっと疲れちゃって」
「もうここで寝ちゃ駄目ですからね。あんまり良い場所じゃないし。あと念のため、免許証見せて頂けますか?」
その後、警官は何か咎めるわけでもなく、何事もなかったかのように去っていった。
私は車から降りて辺りを見回した。空には雲ひとつなく、夜明け前の澄んだ青空がのっぺりと広がっている。白い砂利が敷き詰められただだっ広い駐車場には、まだ何の影も落ちていない。
ふいにポケットの中が振動し、慌ててスマホを取り出した。
『大丈夫? 家の人、心配してたよ』
瑠衣だった。
「え、なんで瑠衣の方に? 私は瑠衣に会うって話してない筈なんだけど」
『ここでは秘密なんて守られないでしょ。どっかから漏れたんだろうね。そんなことより、今どこにいるの? 大丈夫なんだよね?』
「まあ、大丈夫。……たぶん。ちょっと遠くまで来ちゃったけど、今から戻るから」
『そっか。――で、急なんだけどさ。今日も時間ある? 温泉入りに行こうと思ってるんだけど……』
瑠衣の声を聞きながら、雨上がりの湿った朝の空気を肺いっぱいに取り込むと、奥底に溜め込んでいた不安や鬱憤が薄まっていくような気がした。私はスマホを耳に当てたまま、真っ青な黎明の中に立っていた。
終
【ブルーアワー】
日の出前、もしくは日の入り後に空が青一色に染まるわずかな時間帯のこと。昼と夜の境目。
光源となる太陽が隠れている為、影がほとんど落ちない幻想的な光景が作り出される。