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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第9章 正しさの影

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第9.3 量子パルス:クロノスの演説、秩序の正義

 ≡ Quantum Pulse 9.3 / Chronos's Address, Justice of Order


 空調の低い唸りが、壁の内側を這っていた。その音が、まるで無機質な都市の心臓のように、静かに部屋を支配している。影山亮は、割り当てられた個室の簡素な椅子に座り、卓上の端末に表示された波形をただ見つめていた。彼の目は、ひたすらに数字とデータを追っているが、その眼差しはどこか遠くを見つめるようだった。

 ここはエースエイトの管理区画の一室。窓はなく、外の気配はろ過された空気の匂いの中に溶けている。匂いというより、匂いがないことの証明のような、無機質な清浄さだけがあった。影山はその空間に包まれていることに、少しの違和感を感じていた。外の世界と断絶した、人工的な空間の中に一人、何もかもが無力なような気がしてくる。

 画面に映るのは、翔太たちがいる世界から届く、微弱なエネルギーの漏洩パターンだ。不規則で、感情的で、そして予測の線からわずかに逸脱している。それはまるで、友だった男の動きが、冷たい数字の揺らぎとしてそこにあるかのようだった。

「翔太、何をしている……?」

  影山がふとつぶやいた。その言葉には、迷いと懸念が混じっている。翔太が選んだ道、ライラや結衣、ドク博士たちと共に歩んでいるその道が、影山には理解できない部分があった。彼らの目的は明確だ。人々を助けること、それはまぎれもない善意から来ている。しかし、その善意が引き起こすかもしれない、より大きな崩壊の可能性。その危険性を、翔太たちはまだ知らない。少なくとも、影山にはその危険性が手に取るように感じられる。

 胸の奥が、鈍く痛んだ。あの日、Unit07に襲われ、絶望の淵でクロノスに救われた瞬間から、影山の中で何かが変わった。それは、まるで冷たい刃が自分の心に刻まれたような感覚だった。それ以来、影山はクロノスの言う「歴史固定」という道を、守るべき道として信じるようになった。それは、痛みを伴う秩序であり、無力さを感じる人々にとっては理解し難いかもしれない。しかし、影山にとってそれは最も確かな道だと信じている。

 端末の隅で、小さなアイコンが点滅を始めた。それは、定時広域声明の合図だ。クロノスの演説が始まる。都市の全ての公的ディスプレイが、同じ信号を受信する時間。人々はそれを、天気予報を聞くように日常の一部として受け入れている。だが影山にとっては、それは自分の選択が正しいかどうかを確かめる、最後の儀式のようなものだった。

「……どうして、俺はこんなに迷っているんだ?」

  影山は自問自答する。目の前の画面に映る波形と、ふと浮かぶ翔太の顔が交差する。彼の選択が正しいのか、間違っているのか、はっきりしない。だが、迷っている場合ではないことも分かっていた。

 彼はヘッドセットを装着し、目を閉じた。雑音はない。ただ、これから語られる言葉だけが、彼の思考を満たす。その言葉には、自分が目指すべき道への確信が込められているのだろうか。翔太の顔が浮かび、結衣の笑顔がよぎる。そのどちらも、守りたい。しかし、守り方が違うのだ。

 クロノスが言う「歴史固定」 という、痛みを伴う秩序。それこそが、彼らを、そしてこの町を本当に守る唯一の道だと、影山は信じ始めていた。だからこそ、彼はこの瞬間に、他の誰よりも強くその信念を抱くことができる。

 静寂。都市の全ての音が、一斉に一段階低くなったようだった。演説が、始まる。


 都市の隅々に設置された巨大なホログラフィック・ディスプレイに、クロノスの姿が静かに浮かび上がる。銀灰の髪を後ろで束ね、黒のジャケットには皺ひとつない。その姿は威圧的ではなく、まるで風景の一部のようにそこにある。だが、彼の声は、ろ過された空気の粒子ひとつひとつを震わせるように、都市全体に浸透していく。

 影山亮もまた、その声を聴いていた。端末の前に座り、音量を少し上げて、目を閉じる。目の前に広がる静かなデータの世界とは裏腹に、彼の胸は何かが重くなるような感覚に包まれていた。クロノスが発する言葉に、影山は自分の思考を重ねていた。その言葉一つ一つが、彼にとっても重大な意味を持っていることを感じていた。

(静かに、しかし都市全体に響き渡る声で)

「同胞たちよ。静かに耳を傾けてほしい。」

 クロノスの声が、深く、響き渡る。彼の言葉に、都市の全てが反応しているかのような感覚を、影山は受け取った。その声の中には、静かな力強さが込められていた。彼の言葉に耳を傾けることが、まるで義務のように感じられる。

「我々の空を見てほしい。かつて青かった空は、今は薄い灰に覆われ、夜空に輝く星々の軌道は、かつての計算とは異なっている。 我々の身体を見てほしい。見えざる脅威が空気の中に潜み、隣人の咳ひとつに心が凍る日々が続いている。」

 クロノスは、まるで現状を静かに、冷徹に描き出すように語り続ける。その言葉が、影山の心に鋭く刺さる。これが彼が選んだ道だと、改めて感じる。しかし、その道が本当に正しいのかは、やはり分からない。ただ、彼の信じる道が、この世界を守る唯一の方法だと信じているからこそ、影山はその信念に従っている。

「これが、我々の“現在”だ。絶望ではない。否定も、嘆きもしない。ただ、これが事実だ。」

 クロノスは一呼吸おく。都市の空気が、少し重く感じられる瞬間だった。その声には、迷いもなければ、弱さもない。ただ、冷徹な現実が浮かび上がる。

(一拍置き、語り口が少しだけ鋭くなる)

「この事実を前に、ある者たちは言う。別の場所へ渡り、記録を書き換えれば、この現実はなかったことにできる、と。その声は、優しく、甘く、希望に満ちて聞こえるだろう。だが、同胞たちよ。私は問いたい。嵐の海で羅針盤が狂ったとき、闇雲に舵を切ることが、果たして“希望”と呼べるだろうか。」

 クロノスの声が、少しだけ温度を帯びた。影山はその言葉を胸に刻みながら、静かに耳を傾ける。その言葉が、彼にどんな意味を持つのかを計りかねている自分がいることを感じていた。

(ゆっくりと、核心に触れるように)

「我々A8が掲げる原則は、ただ一つ。ゼロ原則――介入しない。壊さない。測り続ける。それは諦めではない。臆病でもない。最も困難で、最も誠実な道だ。」

 クロノスの言葉に、都市全体が反応している。影山もその言葉を確実に感じ取っていた。自分の選んだ道、クロノスが導く秩序。それが唯一の道だと、彼は信じ始めている。

「介入しない。それは、一つの善意が、別の場所で予期せぬ悲劇を呼ばぬためだ。一本の歯車に指を入れれば、時計全体の時間が狂うように。歴史とは、我々が思うより遥かに繊細で、巨大な機械なのだ。」

 影山はその言葉に、ふと深く頷きたくなるような感覚を覚える。自分の選択が、この世界の全てを左右するのだという思い。彼の心に、ひとつの疑念が湧き上がる。善意が、時として最も大きな危険を生むことを、彼は身をもって知っているからだ。

「壊さない。それは、今ここにある“記録”を守るためだ。たとえそれが、苦しみに満ちた記録であっても。記録は嘘をつかない。記録だけが、我々がどこから来て、どこへ向かうべきかの、唯一の道標となる。」

 その言葉は、冷徹でありながらも、影山にとっては確かな安心感を与えていた。全てを記録し、全てを測る。その先に進むべき道があると、クロノスは信じている。

「そして、測り続ける。これこそが、我々の戦いだ。我々は、無数の行方の可能性の中から、最も“座りの良い”結果を探し続けている。誰もが倒れない、最も安定した大地を。最も多くの命が、静かに、しかし確実に存続できる一点を。それは、狂った針を力ずくで折り、新しい針を取り付けることではない。狂った針を、正しい時刻へと、静かに、正確に戻すことだ。」

 影山はその言葉を深く噛みしめる。自身が歩んできた道も、これからの道も、すべてが繋がっていると感じる。そして、誰かを守るために、どんな選択をすべきかが、少しずつ見えてきた。

(影山に語りかけるように、少しだけ個人的な温度を乗せて)

「中には、こう思う者もいるだろう。目の前で苦しむ友を、愛する人を救うことこそが正義ではないか、と。その衝動は、優しく、そして速い。だが、覚えておいてほしい。速さは、時に事故になる。君が友情の名の下に動かした一つの石が、君の知らない場所で、君が守りたかったはずの町を、土石流で呑み込むかもしれないのだ。」

 影山は、その言葉を胸の中で繰り返す。翔太が進んでいる道が、もしかしたらその先で壊れてしまうのではないか。その恐れが、影山の心を締め付ける。

「真の勇気とは何か。真の愛とは何か。それは、感情の嵐の中で、個人の正義を叫ぶことではない。その嵐が通り過ぎるのを待ち、羅針盤の針が再び静かに北を指すのを、信じて見つめ続けることだ。そして、その嵐を大きくする“乱れ”の源――たとえそれが、どれほど近しい者の、どれほど純粋な願いであったとしても――それを“止める役”を引き受けることだ。それこそが、最も痛みを伴う、究極の愛だと、私は信じている。」

(再び、大衆へ向けて。静かだが、揺るぎない確信を込めて)

  「同胞たちよ。 我々は、甘い幻想を売ることはしない。約束するのは、派手な救済ではない。 ただ、秩序だ。規律だ。そして、安定した明日だ。A8の統制の下で、我々は記録を太らせ、線を守り、最も確かな未来へと、静かに歩みを進める。感情に流されるな。目先の希望に惑わされるな。記録を見よ。数字を信じよ。そして、測り続けよ。その先にしか、我々人類が、種として存続できる道はない。正義は、記録の外にいるときほど、速く腐るのだから。」

(静かに頭を下げ、演説を終える)


 言葉が途切れ、都市の空気に再び、空調の低い唸りだけが戻ってきた。空気が静まり返る中で、影山はヘッドセットを外さなかった。その耳の奥で、まだクロノスの声が反響していた。少しずつその声が沈黙に溶けていくのを感じながら、影山は静かに目を閉じた。

 クロノスが語った言葉。自分の中に蓄積されてきた疑念、恐怖、そして友情。すべてが混ざり合い、抑えきれないほどの感情の塊となって、影山の胸の中で膨れ上がっていた。その塊の中で、クロノスの冷徹な言葉が、正確に友情という名の“感傷”を切り離していった。

「一本の歯車に指を入れれば、時計全体の時間が狂う。」

 その言葉が響いた。翔太、ライラ、結衣、ドク博士……彼らの選んだ道。その道が引き起こす「崩壊」の可能性。影山の心には、その言葉が突き刺さっていた。翔太たちの善意が、無意識のうちに巨大な機械を狂わせる「一本の歯車」になってしまうのではないか――その予感が、ひどく冷徹に、そして強く確信を持って押し寄せてきた。

「速さは、時に事故になる。」

 影山の中で、その言葉が響くたびに胸が苦しくなる。翔太の行動力。危険を顧みずに前に出るその真っ直ぐさ。誰かを助けるために突き進むその姿勢。それが自分たちの知らない場所で、取り返しのつかない事故を引き起こすのだとしたら――影山はその恐れを拭い去ることができなかった。

 そして、最も決定的だったのは最後の一言だった。

「“乱れ”の源を“止める役”を引き受けること。それこそが、最も痛みを伴う、究極の愛だ。」

 その瞬間、影山の胸の奥で何かが静かに、そして確かな音を立てて定位置に収まった。友情や愛情に縛られることなく、冷徹な判断を下さなければならない。彼はその瞬間、翔太を裏切るのではないと感じた。だが、裏切るのではなく、止めるのだ。翔太が進んでいる道を、彼を守るために止める。それは、憎しみからではない。友情が、別の形を取っただけのものだ。翔太が嵐のように突き進んでいくのであれば、自分は防波堤となって、その進行を止める役目を担う。彼が無秩序な優しさを振りかざすのであれば、自分は秩序ある冷徹さを示す。それこそが、影山の考える正義であり、友情の示し方なのだと、静かに確信していた。

 演説が終わった。その後、都市は何も変わらない。人々は、ただそれぞれの持ち場に戻り、日常へと戻る。しかし、影山の中では全てが終わっていた。彼の胸にあった迷いは消え去り、進むべき道が冷徹に引かれていった。それは一本の線のように、硬直した決意となって、彼の足元にしっかりと刻まれていった。

 彼は端末の電源を切った。画面が黒く落ち、そこに映る自分の顔は、もう揺れたりしなかった。目の前に広がるのは、もはや迷いではない。そこにあったのは、決意だけだ。

 立ち上がり、静かに椅子を離れる。椅子は音を立てずに、ただ彼の後ろに残された。

「翔太。」

  影山が低い声で呟いた。その声には、どこか寂しさが滲んでいた。だが、その声の中にこそ、決して揺らぐことのない強い意志が込められていた。

 彼は扉を開けた。重く冷たい扉が、静かな音を立てて開く。その先に広がるのは、淡い白い光を放つ廊下だ。彼の影が長く、床に刻まれていく。まるで彼の心の決意が、そのまま足元に映し出されるようだった。

「翔太に、伝えなければならない。」

  影山は再び呟いた。しっかりとした足取りで、廊下を進む。自分の言葉で、翔太に伝えるべきことがあった。真正面から、ぶつかっていかなければならない。

「これは裏切りではない。」

  影山はその言葉を心の中で反復しながら歩みを進める。袂を分かつこと。違う道を歩むこと。お前の道がもし世界を危険に晒すのであれば、俺はその道を止める。

  影山はその決意を固め、静かに歩みを進めた。


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