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ツヨイチカラ  作者: 桃馬 穂
第9章 正しさの影

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第9.1量子パルス:市井の目、二つの脅威

≡ Quantum Pulse 9.1 / The City's Eyes, Two Threats


 金属の匂いが、鼻を刺した。

 ——これは、戦いの匂いじゃない。

 ミカはそう思いながら、ゆっくりと壊れかけたドアを押し開けた。内側には、無数の鉄骨と、白く乾いたコンクリートの粉塵が積もっていた。雨の跡が壁に滲み、窓ガラスのひび割れは風を切って泣いていた。

 旧市街、第七セクター。

 ここはすでに行政地図からも消された“空白地帯”。エースエイト(A8)の定期巡回ルートが二本交差する、いわば都市の盲点。法と秩序の届かない灰色の裂け目。

 ここは、世界線α。ライラやカナデが生きる世界だ。

 ミカは慎重に足を踏み入れた。ブーツの裏に伝わるガラス片の感触。喉の奥に残る金属臭が、彼女の神経を鈍く刺激する。

 (誰も、ここまで来ようなんて思わないよね……)

 彼女はスパイじゃない。銃の訓練も、軍の戦術も知らない。ただの通信オペレーター。ただの母親。

 でも——それだけでは、娘の未来は守れない。

 「……セキュリティ、なし。風の音だけ」

 ミカは小さく呟きながら、背中の機材ケースをそっと床に置いた。わずかな音にも、耳が反応する。この廃墟の静けさは、沈黙というより緊張の音に満ちている。

 壁の隙間から吹き込む冷風が、細かい塵を巻き上げた。ミカの髪が揺れる。

 そのとき、胸元で軽く揺れたロケットペンダントが、シャツにコツンと当たった。

 彼女はそれを握りしめる。

 「……今日は、雲が厚いね。空、見えなかった」

 そう小さく呟いた先には、写真の中で風船を持って笑う、小さな女の子の姿。

 それはミカの娘。

 ——この子が、青い空を知らずに育つなんて、私は絶対に許せない。

 ロケットをそっと胸元に戻し、ケースの中から民生ドローンを取り出す。中古の機体。改造も手作業だ。市販の指向性マイクと、カスタムした音声ブースター。アルカディア・コネクトの情報網を支えるのは、「あちら側」の超技術だけじゃない。こうした手仕事の積み重ね、そして母の祈りが通す、細くて強い糸のような努力なのだ。

 彼女はドローンを窓際に固定し、マイクの向きを外壁側の空間へと微調整する。呼吸が浅くなる。心臓の鼓動がノイズと共鳴する。三分後、A8のパトロールがこの廃ビルの前を通過する。その時、記録に残らない「生の会話」が交わされるはずだ。命令の断片でもいい。その内部の亀裂の兆しを、自分の耳で捕まえる。

 「……あと二分」

 風がまた吹いた。

 ミカは壁に背を預け、目を閉じる。

 (行動こそが、希望の証)

 祖母の言葉を、彼女は静かに胸の内で繰り返した。

 ——その言葉は今、娘の未来を願う呪文となって、彼女の指先を動かしていた。


 きた。

 ヘッドセットの奥に、複数の足音がアスファルトを叩く、規則正しく硬質なリズムが近づいてくる。ミカの指が無意識に録音キーを押した。息を止める。鼓膜が緊張で研ぎ澄まされ、都市の鼓動そのものを拾うような感覚。

 『——確保先行。結果だけ持って帰る。それが組織の血だ』

 硬質で、しかしどこか焦燥感を滲ませた声。識別子「NM-01」。野村達也だ。A8の指揮系統の中でも現場主義を貫く男。彼の声が途切れて、わずか0.8秒後——

 同じ回線に、別の声が、冷ややかな湖面に一石を投じるように重なった。

 『——ゼロ原則を守れ。介入しない。測り続ける。今は記録を太らせる局面だ』

 低く、抑制的な声。だが、その静けさには鋼の芯が通っていた。クロノス——組織の“思考装置”と呼ばれる男。論理と秩序、記録と保存、それだけを信じる声。

 ミカは背筋を震わせながら、音声のログが保存される様子をモニタに目を凝らして確認した。これは単なる命令の齟齬ではない。明らかに、同じ組織の中で、二つの「正義」が真っ向から衝突している動かぬ証拠だった。

 (やった……!)

 コンソールの縁を、勝利を確かめるように握る指が強張る。だが、その瞬間——

 ドローンの広角カメラが、思わぬ動きを捉えた。

 A8の部隊が通り過ぎた直後、廃ビルの角の向こう、闇市場へと続く薄暗い路地で——別の影が動いた。

 違う。装備が違う。A8の無骨な装甲とは全く異なる、まるで生物の外殻のような、有機的なフォルム。艶を持った漆黒のスーツが、闇の中でも異様な存在感を放っていた。ミカは即座にドローンのフォーカスをそちらへ向け、指向性マイクの角度を変える。

 彼らは、痩せた一人の男を壁際に追い詰めていた。手には何も持っていない。ただ、怯えきった表情だけが、遠隔カメラ越しでもはっきりと読み取れた。

 マイクが、ひそやかな会話を拾う。

 『……本当に、あるのか。「楽園」は……』

 『ある。選ばれし者だけがな。銀河の衝突も、この星の病も届かない場所だ。お前のような“持たざる者”が最後に掴める、唯一の船だ』

 「楽園」——その言葉が、ミカの胸に棘のように刺さった。

 (もし……その“楽園”に、本当に、あの子を連れて行けたなら)

 脳裏に浮かんだのは、青空の下で笑う娘の姿。病気のない世界。奪われることのない日々。だが——

 『選ばれし者だけがな』

 その一言が、ミカの微かな幻想を凍らせた。そう、これは救済じゃない。選別なのだ。A8とも違う。もっと深く、もっと冷たい——より排他的で、より残酷な希望。

 エデン・プロジェクト。

 都市伝説のように語られていた存在。その実態が、今、ミカの目の前にある。

 その事実が、ミカの背筋をさらに緊張させる。情報を記録する手が、わずかに震える。この世界の均衡が、確実に揺らいでいる——。


 エデンの部隊は、男に何かを手渡すと、音もなく暗がりへと溶けるように消えていった。ミカはその様子を、ドローンのファインダー越しに最後まで見届けた。

 その掌に渡されたのは、小さなデータチップだった。

 A8の巡回部隊は、彼らの存在にまったく気づいた様子を見せない。いや、気づかないふりをしているだけかもしれない。まるで最初から見えていなかったように、規則通りのルートを、正確な足取りで通過していく。

 二つの巨大な組織——A8とエデン・プロジェクト。その両者が、互いの領域を意図的に避けるように、絶妙な距離感で動いている。この街の裏側では、見えない協定のようなものが存在しているのだ。ミカはその現実を目の当たりにして、背筋が凍る思いだった。

 「……これは、もうただの情報じゃない」

 そう呟きながら、彼女は録音装置のメモリスティックを抜き取る。指先が、かすかに震えていた。

 今、彼女の手の中には、都市の均衡を揺るがす“証拠”がある。ただの巡回ルート調査のはずが、彼女は知らぬ間に、この街全体を飲み込むかもしれない「二つの亀裂」の起点を握ってしまった。

 (娘に、こんな世界を背負わせるわけにはいかない……)

 冷静に。焦らずに。そう自分に言い聞かせながら、ミカは機材をひとつひとつ丁寧にケースへ戻していった。ドローンの接続を切り、マイクをたたみ、最後にケースのロックを閉じるまで、神経は張り詰めていた。

 呼吸を整える。まだ終わっていない。——いや、ここからが本当の勝負だ。

 拠点へ戻るまでの道のり。その途中で誰かに捕まれば、もう二度と、娘の寝顔を見ることはできないだろう。

 ミカは静かに立ち上がり、背中を壁にぴたりとつけた。ドローンの赤い記録ランプが消えるのを見届けてから、薄暗い廃墟の中を、猫のような動きで進み出す。

 A8の監視ドローンのサーチライトが、すぐ上をかすめて通過していく。タイミングは計算通りだが、それでも心臓が喉元までせり上がってくるような感覚があった。

 「あと少し……」

 街の騒音が遠くで聞こえる。彼女の靴音は、瓦礫を踏まぬよう、ほとんど無音だった。建物の影から影へ、曲がり角では必ず一拍置いてから進む。その動きには、職業的な訓練を受けていないとは思えない精度があった。

 (帰る。絶対に)

 ——娘のもとへ。

________________________________________

 三十分後。

 コンクリート打ちっぱなしの、箱のような居住スペース。ようやく拠点に戻ったミカは、ドアのロックを三重にかけると、震える指先でコンソールの電源を入れた。

 薄暗い室内に、オレンジのモニター光が浮かぶ。通信回線の確保。暗号化プロセスの開始。パスコード入力。彼女の指は一つひとつの工程を確認するように、慎重に進めていく。

 これは祈りだった。

 娘の未来へ向けた、小さな祈り。

 画面には、A8の通信断片と、エデン・プロジェクトの会話記録が並ぶ。重ねて、通話者ID、地理座標、時刻、音声パターン解析。すべてを一本の報告データにまとめる。

 送信先は、一つだけ。

 カナデ。アルカディア・コネクトの分析班に所属し、数少ない「真実を受け止められる人間」。

 彼女なら、この断片の意味を理解し、その向こう側を見据えてくれるはずだ。

________________________________________

 ミカは短いメッセージを添えた。

 >「こちらミカ。二つの脅威の兆候を捕捉。

 > A8内部の命令齟齬、およびエデン・プロジェクトの接触。記録を送る。」

 最後に、一度深く息を吸い込んでから、送信キーを押す。

 光の粒のようなデータが、量子通信の波に乗って、遥か彼方へと跳ねていく。

 モニターの端に、送信完了を示す緑色の小さな点灯が灯った。

________________________________________

 ミカは、ようやくヘッドセットを外した。静けさが、ようやく戻ってくる。

 台所の片隅に残っていたスープを温め直し、息を吹きかけてから飲み干す。

 味はほとんどしない。でも、さっきよりは、少しだけ温かく感じられた。

 それはきっと、——娘の寝顔を思い浮かべたからだ。



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