第2.9量子パルス:監視の影
≡ Quantum Pulse 2.9 / The Silent Observer
毒蝮研究所の一室、深夜。机の上には、無造作に並んだ試作機材が小さく唸りを上げていた。静寂の中で、ライラの指先だけが忙しく動いていた。
赤いLEDの点滅が、彼女の動きに反応しているかのようにちらつく。
「……ねえ、いま、バッテリー残量いくつ?」
結衣がふと顔を上げ、スマホの画面から目を離した。翔太はポケットから自分のスマホを取り出す。
「え? さっき充電したばかり――」
言葉の途中で、画面の電源アイコンが赤く点滅しているのを見て黙った。再起動しても変わらず、となりのモニターも唐突にフリーズしていた。ドローンは起動せず、冷却ファンは意味のない高速回転。
挙げ句の果てには、ライラの翻訳デバイスが唐突にスペイン語と英語を交互に喋り始めた。
「これ……壊れてる?」
翔太の声に、不安の色が混じる。
「ちょっと、静かにしてくれたまえよ……今、ノイズが……いや、これはノイズじゃない!」
ドクが、まるで背後からワープアウトしてきたかのような勢いで現れた。白衣の裾をひらつかせながら、誰に許可を取るでもなく機材の間に割り込む。
「電磁領域の偏位だ、これは……違う、ノイズでも単なる干渉でもない! 何かが……覗いてるぞ!いや、測ってる、か……!」
彼の手は空中に浮かんでいるかのような身振りを繰り返し、思考が声より速く暴走していた。結衣が小さくため息をついた。「また始まった……」
「ライラ君! 君、その髪留め! それ、何製だ? 鉱物? 有機結晶? 遷移金属か?いや違う……それとも新しいマトリクスか? いや、量子揺動性媒体だな?!」
ライラは困ったように目を瞬かせると、ポケットから控えめに髪飾りを取り出す。
「説明、ちょっと長くなるけど……」
「長くていい!いや、むしろ短くしてくれ!」
その瞬間、天井のセンサーが一斉に青く光った。空気が、目に見えない膜で包まれたかのように、ぴたりと止まった。
「記録されてる……」
ドクが低く言ったかと思えば、すぐさま右の端末に突進。コードを引っ張り、バチッと火花が走った。
「誰かが、こっちを見ている!」
翔太の背筋が凍った。ドクのテンションのせいだけではない。不調だったすべての電子機器が、まるで“順番に”異常を示しているように感じた。
「ドク、それって……ほんとに誰かが?」
結衣の問いに、ドクは端末のディスプレイを睨んだまま、首をひねった。
「“誰か”かどうかは知らん! だがこれは自然じゃない。これは応答だ。こっちが何かを“鳴らした”か、あるいは――」
「私は、何も送ってない……」
ライラが静かに言った。「でも、たぶん、私がいた世界の“誰か”が……受け取ってしまったのかもしれない」
「“共鳴”したってこと?」翔太が訊く。
ライラは、小さくうなずいた。「わたしが持ち込んだものが、何かと響いたんだと思う。こっちの世界って……思っていたより、共振しやすいのかも」 翔太は息を詰めたまま、机の上のランプを見つめた。
それが一瞬だけ、紫がかった色に変わった。
「今の、見たか! プロトン波長域の偏移だ!いや、間違いない、何かが覗いてるぞ、我々の“時間的構成”の向こう側から――ああああ、誰か紙!いや、電子ノートでいい!」
「ドク、少し落ち着いて」
結衣が静かに制したが、効果はなかった。
「誰か……遠くの……?」
翔太は、小さく呟いた。答えはなかった。そのとき、研究所の端末に奇妙なログが記録された。
発信元不明の通信プロトコル。最後に現れたのは、暗号のような署名文字列。──《Sentinel》。
その四文字が、淡く震えるように画面に浮かび続けていた。風が止まり、誰もが黙った。何かが、すでに始まっていた。




